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思い出25 40年間の高速道路での思い出

実家との往復や福島への単身赴任など、飲まない限り車での移動が中心でした。子供の頃から、謎のSさんに車で連れられたり、家庭教師に連れられて市民ラリーに参加したりと、車には楽しい思い出がたくさんあります。
その影響で、いつの間にか自分で車を運転することが好きになっていました。
1980年に埼玉に就職した頃は、高速道路同士がまだ繋がっておらず、幹線道路の渋滞が頻繁に発生していました。関東の高速道路整備が本格的に始まった時期でもありました。
まだ完全には完成していないものの、その整備によって私は大いに恩恵を受けました。
私個人における範囲ですが、高速道路の思い出をまとめました。
まずは、高速道路の料金支払い方法の変遷です。
1980年頃は、すべて現金支払いで、料金所の出口での渋滞は避けられませんでした。並ぶ位置によって待ち時間が大きく変わることもありました。
4年後、磁気プリペイドカードであるハイウェイカードが使えるようになり、現金支払いよりもスムーズになりました。ハイウェイカードには以下の種類がありました
3,000円券(額面3,000円)
5,000円券(額面5,200円)
10,000円券(額面10,500円)
30,000円券(額面32,500円)
50,000円券(額面58,000円)
特に、3万円と5万円のハイウェイカードはお得で、無理してでも5万円券を購入していました。
2002年にETCが始動しましたが、ETC搭載機の車への設置が必要で、当初は割引もありませんでした。
そのため、しばらくはハイウェイカードを使用していました。
しかし、偽造カードの問題から高額プリペイドカードが廃止されることになりました。
廃止直前には5万円のハイウェイカードを2枚購入し、しばらく持ちましたが、福島への単身赴任が始まり高速利用がさらに増えたため、ETC搭載機を購入しました。
普及するために、初期は購入補助や特別割引があり、頻繁に福島と往復していた私にとっては大きなメリットがありました。
初めてETCを使った時は、本当にバーが上がるのかドキドキしましたが、問題なく通過できた時の安堵感は今でも忘れられません。
慣れてくると、バーが上がるギリギリのタイミングで通るようになります。そのような状況では、バーにぶつかることも多く生じたと思います。それで、バーが上がるタイミングが遅くなり、速度を落とすようになったと記憶しています。
最初、バーが上がるタイミングが遅くなった時には、ブレーキを踏むこともありましたが、今では慣れて、ブレーキを使わずに制限速度内でスムーズに抜けられるようになっています。
また、当初はETCカードがきちっと差し込まれておらず、通れなかったことやカードの期限が切れて通れなかったことなど、周りに迷惑をかけたこともありました。
ETC車載機の性能も向上し、警告が出るようになったので、そのようなミスもなくなりました。
電子機器の進歩には本当に助けられています。
また、ETCカードはクレジット会社を選ばなくなり、個人だけでなく、法人カードも充実したので、使用時の精算も楽になっています。
弊社では、数年前から「楽楽清算」が導入されていますが、最初の頃は個々での詳細入力の手間が増え、「苦苦清算」と揶揄され、ただの総務の手抜きだろうと言われていました。しかし、慣れれば便利になりました。
ただ、最近、国からのお達しで業者コードなどの取り扱いが変わったようで、皆 右往左往していました。
私の場合は、もう会社員ではなくなっているので、精算はすべて昔ながらの出金伝票発行で行っています。
私は、乗り換え案内から詳細なルート入力やカード建て替え払い時の領収書添付、その詳細入力などから解放されました。
実際に掛かった金額をパソコン上で入力するだけで、税金計算を含めた合計金額も正確に計算してくれ、自動で印刷されます。
印鑑を押して、領収書を添付するだけで済むので、とても便利です。
このようなシステムのおかげで、「苦苦清算」を使わずに、手書き時代の良さとPCによる自動計算と印刷が融合した方法が一番楽だと思っています。
しかし、脱税まがいのことをしている国会議員を許し、自分だけを大切にする税務署の考えが変わらない限り、完全な解放は難しいかもしれません。
初めての確定申告は、e-Taxのおかげで簡単に申告できました。
このシステムには本当に感謝しています。
電子機器の進歩やインターネットの普及により、確定申告も大幅に簡略化され、時間と労力の節約ができました。
ETCの話に戻しますが、ETC自体の性能としては、20km/hの数倍の巡航速度でも十分に対応できるようです。
また、バーを設置している国も少ないようです。
現金支払い者が、混在していた初期においては、バーの開閉を設置し、速度を低く調整する意味がありましたが、完全に普及し慣れた現代では、バーは不要だと思います。
ぜひ検討してほしいと思っています。
ETCによって料金所の渋滞は改善されましたが、交通量の多い場所では一般道路への流入時に渋滞が起きてしまいます。全体の流れを考慮した検討が必要だと思います。
実際の高速走行では、東名高速で覆面パトカーに捕まったことがあります。
ちょうど四日市から埼玉に戻る時で、11km/hオーバーで捕まりました。
岡崎インターから東名に入って10分くらい走ったところでした。
当時、ピアッツァという車で、高速走行の安定感は抜群で、高速に入ってからずっと150km/h前後の速度で走っていました。
後ろから黒い車が付いて来て、先に行かせた方が良いと思い速度を落としたところ、赤色灯が点滅しスピーカーで速度違反で止まるように指示されました。
その黒い車が覆面パトカーで、インターチェンジの傍だったので、料金所の手前の駐車場に停まるように指示されました。
その覆面パトカーも岡崎インターから入ってきたとのことでしたが、ずっと150km/h以上で走ってこないと私には追い付けないのに、110km/h以下で走ってきたと嘘を言い続けていました。
さすが政治家に代表されるような、嘘を本当のように言い切る公務員だなと思いました。突っ込みどころはたくさんありましたが、速度が115km/h以下になってから測定し、11km/hオーバーで済ませてくれたことに感謝しています。
違反書類を書かされ、インターの中で生まれて初めてUターンして、元の車線に戻りました。
その後、しばらくは110km/h程度の安全走行になりました。
普段から追い越し車線で飛ばしていたので、走行車線で抜かれるのは慣れておらず、かえって怖かったことを覚えています。
昔、会社の常務を一般道路で乗せた時も、「飛ばすなよ」と念を押されました。
いつもと違う遅い速度で運転したため、すれ違いのタイミングや駐車車両を避けるタイミングがずれてしまい、自分にとっては危険な運転になった記憶があります。
法定速度内で自分に合った運転をすることが肝心だと思います。

また、東名高速ではパトカーを追い抜きそうになり、ブレーキを踏んで同乗者を驚かせたこともありました。
武蔵工場では夏にビアガーデンが開催されており、その詳細は2024年4月20日のNOTE「思い出15 埼玉へ就職、新人の役割 独身時代 2」にアップされています。
全国の代理店や地方の営業所長が会議を兼ねて集まります。
ビアガーデンの夜に四日市の実家に車で戻ることにしていました。
私を会社に紹介したK叔父の会社の弊社担当社員さん2名が参加しており、そのお客様2名と名古屋支店の所長をビアガーデン終了後に車で乗せていくことになりました。
今では考えられないことですが、当時は大丈夫でした。
出張の皆さんは帰りの新幹線代が浮き、私の高速代は所長が出してくれるというWIN-WINの関係になり、所長の家がある名古屋経由で四日市まで送ることを了承しました。

当然、私は飲んでいませんが、3人とも終了する夜11時の最後まで飲んでおり、車内は完全にアルコール臭で充満していました。
会社の傍で飲酒運転の検問が行われていましたが、免許を提示し口頭質問だけでアルコールチェックまではされませんでした。
完全に弊社ビアガーデンをターゲットにしての検問だったと思います。
3人とも飲んでおり爆睡していましたが、私は普段から一人で運転するのに慣れており、助手席で寝られても平気でした。
飲酒検問があったこと以外は、夜中で渋滞もなく順調に走っていました。
トラックが動き始めて交通量が多くなり始めた朝5時頃、追い越し車線を130km/hぐらいで走っていると、走行車線を走っているトラックとトラックの間にパトカーが隠れて走行していました。
追い抜く手前で辛うじて気づき、急ブレーキを踏んで速度を落としました。
同乗者も急制動に驚いて目を覚ました。
私はそのまま速度を落としてパトカーの後ろのトラックについて走行しました。
しばらくすると、パトカーはトラックの間から追い越し車線に出て次の獲物を探しに行きました。
安全走行を促すためではなく、捕まえるためだけのパトカー走行は結構あったと思います。
また、東北自動車道では、私の前の車が覆面パトカーに捕まりました。
あの時は冷や汗ものでした。
福島工場へ単身赴任していた時代で、フルタイム4輪駆動のファミリカーのシャリオに乗っていました。
郡山と福島間の山間の道で、連続カーブが続く道路を3台が140km/h以上の速度で連なって走っていたことがあります。
私は先頭から2台目で、前後はスポーツタイプの車でした。フルタイム4駆の車だったので、カーブでも安定しており、140km/h台でも問題なく走れました。
連続カーブが終わり直線になった時、前の車がさらに速度を上げ、後ろの車が近づいてきたので走行車線に避けました。
カーブでは対抗できましたが、直線になると車高が高いファミリカーのため、160km/h程度が安定走行の限界でした。それが幸いし、3台だと思っていたところ、後ろにもう1台覆面パトカーがいたのです。
前を走っていた車は、あっという間に離れていきましたが、しばらく走ると、その車が覆面パトカーに捕まっていました。
どのくらいの速度で捕まったかはわかりませんが、免停レベルの速度超過だったと思います。
私と後ろの車は幸運にも助かりましたが、冷や汗ものの出来事でした。
郡山以北の東北自動車道は交通量が少なく、かなり飛ばせました。
それ以来、バックミラーに2人乗りの怪しい車が追いついてくると、先に行かせ、8ナンバーでないことを確認してから走行するようにしています。
現在では、8ナンバーでは確認できないので、法定速度を守って安全運転するのが良いです。一部の高速は120km/hになっていますが、車の性能も上がってきており、安全な道路では法定速度を上げてほしいと思います。
また、トランスミッションが故障してサード以上に切り替わらなくなったこともありました。ちょうど会議で本社に出張する前日だったので、そのまま高速道路で帰宅しました。トップに入らないため、95km/hで4000回転ぐらいとエンジン音がうるさかったですが、トラックにも抜かれながら走行車線をずっと走って帰りました。今思えば、高速道路ではなく一般道路を使えば良かったと思います。
40年間高速道路を使っていると、いろいろな出来事がありました。40年間の間に、高速道路網も様変わりしました。

◎1979年-1984年頃
就職してから子供ができるまで、夏季休暇や正月休みには実家に帰省していました。ルートは以下の通りです。
国道16号線 → 厚木インター → 東名高速道路 → 岡崎インター → 国道23号線 → 名四国道→四日市インター
厚木インターに入るまでの一般道路が混雑し、時間がかかりました。
国道23号線は産業道路でトラックと信号が多く、頻繁に止まるため運転が大変でした。
当時の愛知県の運転マナーは車間距離を詰めるのが基本で、少しでも空いているとウィンカー無しで横入りされることが多かったため、気を抜けない運転が続きました。

◎1984年-1997年頃
子供ができ、長女が中学校に上がる頃までは、四日市祭りに合わせて8月第1週に家族で車で帰省していました。ルートは以下の通りです。

国道16号線 → 八王子 → 中央高速道路 → 小牧JCT → 東名阪高速道路→四日市インター
1984年に中央高速道路の恵那山トンネルが2車線化され、トンネル内でも追い越しが可能になりました。
中央高速の方が距離があり、高低差のある山間部を走るため燃費が悪くなりますが、八王子から中央高速に入る一般国道を走る時間が短くなるため、渋滞が少なくなり中央高速を利用するようになりました。
さらに、中央高速から小牧JCTで東名阪高速に入れるようになり、一般道路を走らずに四日市に着けるようになりました。
正月休みには基本的に帰省しませんでしたが、祖母が亡くなった時には家族で帰省しました。冬は積雪の可能性があるため、東名高速を使い名四国道経由で四日市に帰省しました。

◎1998年-2002年頃
両親は借金返済のため実家を売却し、家族での帰省はなくなりました。
私は福島工場へ単身赴任し、武蔵から福島への移動が主になりました。
夏季休暇には家族で福島に遊びに行くこともありました。
首都高は時間帯によって大渋滞し、大回りになる上に高速代も高いため、加須インターから入ることが多くなりました。ルートは以下の通りです。
国道16号線 → 加須インター → 東北自動車道 → 福島飯坂インター
入間インター → 圏央道 → 関越自動車道 → 首都高 → 東北自動車道 → 福島飯坂インター
◎2003年-2014年頃
子供たちが大学や就職に進むにつれて、家族での夏季旅行は自然と減少していきました。この時期、お袋が倒れ、その看護と親父の世話のために妻が四日市に住むことになりました。
そのため、私は四日市と埼玉を頻繁に往復するようになりました。
圏央道の開通により、中央高速道路が関越自動車道と繋がり、家から15分ほどの入間インターから直接高速道路に入れるようになりました。
これにより、四日市も福島も高速道路のみで行けるようになりました。
入間インター → 圏央道 → 八王子JCT → 中央高速 → 東名阪自動車道 → 四日市インター
◎2013年-現在
この期間中、親父の後始末や叔父への借金返済手続き、叔母の葬式などで夫婦で四日市と埼玉を数回往復しました。
また、福島への出張も増え、さらにコロナ禍により自動車移動が増えました。
圏央道の開通により、2014年には中央高速と東名高速が繋がり、2015年には関越道と東北自動車道が直接繋がるようになりました。
これにより、首都高を経由する必要がなくなり、すべての主要高速道路が繋がり、入間インターから全ての高速道路にアクセスできるようになりました。

入間インター → 圏央道 → 関越道 → 久喜白岡JCT → 東北自動車道 → 飯坂福島
2000年頃には4時間以上かかっていましたが、現在では3時間に短縮されています。

入間インター → 圏央道 → 海老名JCT → 東名高速 → 第2東名 → 豊田東JCT → 湾岸自動車道 → 東名阪 → 四日市
1990年頃には6時間程度かかっていましたが、現在では4時間に短縮されています。

こうして40年間の高速道路での思い出を振り返ると、交通インフラや技術の進歩に支えられてきたことを実感します。
技術の進化によって私たちの生活はますます便利になり、手続きもスムーズに行えるようになりました。
これからも、その恩恵を受けながら、さらなる発展を期待しています。

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