思い出21 初めての学会発表とインド訪問 仕事で一番輝いていた時代
前回の投稿では国際学会での発表について触れましたが、今回は遡ること10年前、初めての学会発表についてお話しします。
それは、H.A.部長がまだ在籍していた1984年のこと。ちょうどHPLCカラムのC18-2シリーズが発売された年で、私は27歳、できちゃった結婚をしたばかりでした。
40年前の学会発表は、現在と比べると使用する道具も異なり、今では懐かしい思い出です。当時の学会参加料は、今と大きく変わっていないと思います。
学会の種類や会員の有無、申し込み時期によって異なりますが、国内主要学会では2万円から8万円、国際学会では6万円から15万円ほどでした。
メーカー協賛がある場合、記念バッグや筆記用具などの土産(Souvenir)をもらえることがありました。
また、研究目的・方法・研究結果・考察などをまとめた要旨集が配布されます。
最近では要旨集はデジタルファイルが一般的になっていますが、当時は紙の要旨集が重宝され、学会で見聞きしながらメモを取るのに便利でした。
初めての学会発表は緊張と興奮の連続でしたが、それが私のキャリアにとって大きな一歩となりました。
この時期が、私にとって仕事で最も輝いていた時代の始まりだったのかもしれません。
学会発表には、研究概要をまとめた大判のポスター(A3サイズのファイルを8~10枚程度)を用いて行うポスター発表と、会場で皆の前で行う口頭発表の二種類があります。
日本での発表は基本的に日本語で行われますが、国際学会では英語が公用語です。
HA先生は海外でも口頭発表を行っていますが、英語ができない私には無理なので、前回記載したように、海外ではポスター発表になります。
国内の学会では、主に大学の施設が利用され、100~200名収容できる階段教室がメイン会場として使用されます。
通常、発表時間は15分で、その後に5分程度の質疑応答があります。
招待講演の場合、発表時間は20~30分ほどに設定されることもあります。
約40年前の学会では、現在のようなPCおよびプロジェクターはなく、スライド投影機やオーバーヘッドプロジェクター(OHP)が使われていました。
小さな会場(40名程度)では、A4の透明シートにコピーした資料をOHPで下から白色光を当てて前面のスクリーンに投影していました。
OHPは下側から正面に拡大投影するため、大きなスクリーンでは台形に歪んでしまうので、大会場で行う学会ではスライド投影機が多用されていました。
昔は、スライドは自分で作成していました。
原稿の文字部分が白く抜ける黒スライドを硝酸銀を使って感光させて作成し、必要に応じて抜けた部分をマジックで塗って色付けしていました。
これには手間がかかりましたが、完璧なスライドが完成した時の喜びは格別でした。
このように、自分で作成していましたが、感光に失敗すると文字が薄くなったり潰れたりして見づらくなることが多く、非常に手間がかかりました。
そのため、スライド作成は外注するようになります。
原稿を郵送すれば、急ぎの場合は翌日には完成スライドが手に入りました。
当時はバイク便が活躍していた時代です。
学会では、時間管理を行うタイムキーパー、スライドを切り替えるスライド係、そして座長の三人で進行されます。
座長が表題と発表者名を読み上げて発表がスタートします。
要旨に間違いがある場合は、発表の最初に修正を行います。
発表者は会場で用意されたレーザーポインターを使って、目的、方法、結果、考察の流れでプレゼンテーションを進めます。
大規模な学会では、複数のセッションが並行して行われ、どの会場にどれだけの聴衆が集まっているかが、その発表の人気を測るバロメーターになります。
15分発表、質疑応答3分の設定では、14分30秒で1回鈴が鳴り、15分で2回、さらに15秒ごとに3回鈴が鳴らされます。
座長は質問を募り、質問が多い場合は、座長が当てた順番に行われます。
大規模な会場では、質問者はマイクを受け取り、会社名と氏名を述べた上で質問します。発表者が回答し、もし質問に対する回答が適切でない場合、座長が追加の質問を行います。その後、質問者は納得すればお礼を述べ、質疑応答は終了します。
この一連の流れが質疑応答の手順となります。
座長が時間の進行を見ながら、次の質問を受けるかどうかを判断します。
時間が厳しい場合には、懇親会などで直接質疑応答を行うよう促し、質疑を途中で打ち切ることもあります。
逆に質問がない場合には、座長が質問を行う必要があり、発表内容を十分に理解していないと適切な質問ができません。
また、進行が大幅に遅れている場合には、質疑応答を省略することもあります。
一般的には、2時間程度のセクションに区切り、座長も交代します。
私自身も何度か座長を務めた経験がありますが、時間管理や質疑応答のまとめなど、かなりの負担がかかります。
それでも、座長に選ばれることは名誉であり、ほとんどが無報酬のボランティア活動です。展示会と併設された学会では、数千円相当の食事券が支給されることもありますし、2日で終了する中規模の学会では、参加費と同額程度の1万円が支給された経験もありますが、主催の先生らから頼まれて、仕方なく引き受ける事になります。
タイムキーパーやスライドの担当を一人でこなすこともあり、場合によっては座長が二人いることもありました。
タイムキーパーやスライド係は、学生さんか学会の事務方が行う事が普通でした。
現在では、発表者自身がPCを使用しスライド操作を行うため、スライド係は不要です。
しかし、PCやプロジェクターのセッティングを行なえる専門のスタッフは必要になっています。
また、PC上でポインタを使用して発表することが可能です。
私の場合、PC上では、スライド切り替えのみを行い、説明には従来通りレーザーポインターを使用しています。
いずれにせよ、発表時間直前までにパワーポイントでのスライドが完成すれば十分で楽にになっています。
技術者にとっては、Microsoft Wordよりもスライド作成に使うMicrosoft PowerPointの方がよく使うソフトになっていると思います。
私がイベントなどの案内や手紙を作成する際にも、画像を入れやすいPowerPointを使用しています。
数年前までは、発表前にUSBメモリを渡す手法が一般的でしたが、発表後にUSBメモリを引き取り忘れ、後日回収しに行ったことがあるのも、口頭発表あるあるの一つです。
最近では、ノートPCが小型軽量化したため、PC自体を持ち込んでプロジェクターに接続したり、パスワード付きファイルを事前に送信して、その場でパスワードを入力して使用するなど、セキュリティを考慮しつつ使いやすくなっています。
ただ、発表当日まで実験を続け、簡単に発表ファイルを修正できるようになったため、諦めがつかずに徹夜で実験を行い、発表直前まで原稿修正することもよくあります。
便利になった分、作業量が増えるという典型的な例です。
口頭発表に用いるスライド数は、私の場合、1分あたり1枚がちょうど良いペースでした。招待講演やセミナーなどで時間が長い場合には、多めにスライドを用意し、聴衆の反応を見ながら使用するスライドを調整します。
しかし、初めての学会発表の時は、そんな余裕もなく、発表原稿を作成し、それを丸暗記することに全力を注いでいました。
口頭発表の朝、山手線を一周しながら何度も黙読して発表内容を覚えました。
しかし、スラスラ言えるようになってしまい早口になってしまい、予定の15分よりも早く10分ほどで終わってしまいました。
通常、発表は予定時間を超えることが多いため、早く終わることは歓迎されました。
学会の口頭発表では、1セクションが1~2時間程度で、その間に10分ほどの休憩が入ります。
多くの学会では午前に2セクション、午後に4セクションがあり、朝8時から夕方7時までみっちり詰まっています。
終了後には懇親会が行われ、質疑応答や最新情報の交換が活発に行われます。
企業が協賛する中規模の学会では、口頭発表やポスター発表のベスト賞が発表されます。当時、女性の発表者は珍しく、口頭発表では内容よりも発表パフォーマンスに注目が集まり、賞が与えられることが多かったです。
一方、ポスター発表では、内容をじっくりと評価して、上位入賞者が決まることが多いですが、大学やメーカーによる組織票が入ることもありました。
表彰が行われる頃には、結構アルコールが入り、昭和の親父世代の先生方が中心となる宴会が始まります。
女性がモテる場面も多く、セクハラに近いような事もありましたが、色んな世代が技術と言う点で共通するので、盛り上がります。
そのような学会発表以外に、展示会併設の80名程度の企業セミナー、質疑応答が多い客先でのインハウスセミナー、大学講堂で行われる200名規模の招待講演、舞台上で数名で行うパネルディスカッション、食事を伴うランチョンセミナーなど、多様な経験を積みました。
発表内容を原稿に書いたのは初めて学会の時だけで、慣れてくると状況に応じて柔軟に発表できるようになります。
そのため、同じスライドを使っても毎回話す内容が違い、部下には「聴衆しても参考にならない」とよく言われました。
そこで、発表内容は事前にノートに記入しておくようになります。
製品をなるべく多くの人に知ってもらうのがメーカー発表の目的で、口頭発表が有効と思っていました。
名前がある程度知れ渡ると、ユーザーはより細かい内容を知りたがります。
口頭発表で質問されても、他の人も聴衆するので、ノウハウに関わる詳細な話はできません。
また、口頭発表に慣れすぎると、心地よい緊張感もなくなり、発表内容も過去の焼き直しだけでもできてしまい、無難な内容が多くなってしまいます。
ポスター発表では、少人数相手になり、結果が出ていない予想も話す事ができ、相手もそれに意見をいれてくれるので、机上の空論になるが面白い発想が生まれます。ポスター発表の方が詳細な部分まで個別に話せるため、有用な情報を得ることができ、ポスターの方が好きになっていきます。
ただ、次長になり、管理仕事の割合が高くなり、50歳以後自ら学会発表を行う事は無くなります。
15年以上のブランクはあるとしても、発表には慣れていたはずです。それでも、紗倉まなさんのイベントになると緊張してしまい、しどろもどろになってしまいます。このプレッシャーが新鮮で、いつも若返る気がします。紗倉まなさんには感謝しています。
逆に肩書が付いたので、インド代理店への表敬訪問にも行かせてもらう事になります。
インドは、ジェネリック医薬品の製造において、大きく伸びてきており、その品質検査にHPLCカラムが用いられます。
インドの代理店が、精力的にアピールしてくれたおかげで、自社HPLCカラムが、インドジェネリック医薬品市場で多く使われるようになりました。
それで、2009年、2010年と2回、海外部の販促に同行させてもらっています。
開発者が、直接インド訪問したのは、代理店、ユーザーにとっても初めてのようで、どこに行っても歓迎されました。
特に、郊外の医薬品会社では、カラムメーカーの開発者が訪れる事はなく、花束を渡されて歓迎を受けた事もあります。
当時は、貧富の差が激しく、医薬品会社に従事している人は、エリート中のエリートでした。
当時のインドでは、道路は舗装されていますが、あちらこちらに、大きな穴があり、車での移動中に天井に頭を何回もぶつけそうになりました。
また、ハエが飛び交う牛が、放牧され、薄着の裸足の子供達が、あちらこちらで遊んでいるインド映画シーンそのものの光景が広がっています。
そのような郊外に、塀で囲まれて、広い敷地に建てられた医薬品会社が多かったです。
周りを高い塀に囲まれて、警備員が常駐している厳重な正門がから成り立っています。
入るには、持ち物検査をされて、入出カードが作成され、常に身に着けるという形で許可が出ます。
日本の医薬品会社でも、カメラや携帯などの電子機器および火気の持ち込み禁止で、商談用のPCは、その場で登録して持ち込むと言う事で基本的に同じです。
しかし、実際には、口頭確認で持ち物検査は行なわれず、携帯やライターなどを持ち込んでいることがありますが、暗黙の了解になっている場合が多かったです。
それに対して、インドの会社では、全員、持ち物検査を受け、商談に使うPC以外は持ち込めません。
また、その場で撮られた顔写真入りの入退室カードが作られて、初めて入れると言う事が多かったです。
私の経験上では、そこまで徹底した医薬品会社を日本では見たことがありません。
経産省は、事前登録が必要で、免許書のコピーを添付したと思いますが、カードには写真はありませんでした。
紗倉さんのイベントなどでも、鞄の中身を入念にチェックされます。
また、直接会う時には、撮影用カメラとサイン対象物以外の持ち物は持ち込み禁止とされることもあります。
医薬品会社は、機密漏洩対策という点で、意味は異なりますが、日本に比べて、かなり厳しい傾向にありました。
厳しいチェックで、入ると中は別世界です。
良く手入れされた緑地や、砂ぼこりも掃除された舗装路など、常にメンテナンスされている広大な敷地に、建屋が点在しています。
内部移動するカートが用意されていることもありますが、日本とは違い運転手が付いています。
大きな荷物があれば、専任のポーターが運んでくれます。
建屋の中は、冷房が効いていて、スーツの上着を着ないと寒いくらいでした。
当時は、ノーネクタイという選択肢はありませんでした。
ちなみに、インドは日差しが強いので、半袖はNGで、夏でも長袖が必要でした。
カラッとしていると言うか、乾燥し過ぎて汗もすぐに乾きます。
砂ぼこりさえ我慢できれば、日陰に入れば日本より過ごしやすかったです。
たまに来るスコールが、砂ぼこりを抑えてくれますが、あっという間に乾きます。
打ち合わせ室に案内されると、ターバンを巻いた清潔そうな給仕の方が、お茶やコーヒーを出してくれます。
郊外の様子とはまったく異なる世界で、まるで城にいるかのような感覚になります。
ただし、分析担当などの社員は、私服の上に白衣を着用していることが多く、肩書きが付いている人ほどラフな格好でした。
その辺りは、大学に近い雰囲気でした。
数か所の医薬品会社で、インハウスセミナーを行ないますが、同行した海外部のOS君が英語で説明します。区切りの良いところで質疑が入り、私が答え、通訳してもらうという流れでした。
お客さんは真剣に聞いており、質疑が結構ありました。
本当に困っているユーザーが多く、濃密で楽しいセミナーになったと感じました。
日本とは異なり、首を横に振ることがYESということが基本のようで、長い間違和感を覚えました。
また、セミナー以外にも、クレーム対応もありました。
クレームは、カラムロット間のバラツキに関するものでしたが、メーカー側からは社内基準内とされ、ユーザーには分析手法の再検討をお願いする形になります。
しかし、ユーザー側は、様々な検討を経て完成した分析条件であり、正しいとの自負がありますので、変更することを望みません。
基本的には英語ですが、このような熱い議論になるとヒンディー語になり、代理店の方が通訳をしてくれます。
首を横に振ってもNOと言う場合もあり、混乱します。
最終的には、代替えカラムを無料で提供し、再度試していただくことで納得してもらいます。
日本人は、喜怒哀楽を表にあまり出さないため、理解しにくいと言われますが、インドの方々は感情を露わにする傾向があります。
しかし、その表現が多様であるため、逆に理解しにくいという印象もあります。
インド最大の展示会にも参加しましたが、すでに設置されている展示会場を使うのではなく、展示の際にだけ設営されるタイプの会場でした。
パネルを組み合わせて建てられた棟が、6棟並んでいました。前年にテロがあったため、出入口に金属探知機が設置され、毎回チェックされました。
仮設の展示会場ですが、エアコンなどの設備や電力供給もしっかりしており、装飾も美しく、常設の展示会場に引けを取りませんでした。
地面はしっかりと均されており、砂ぼこりが舞うことはありません。
コンクリート床の日本の展示会に比べて、土のため、足への負担が少なく、疲れませんでした。
ピッツコンでは、床には絨毯が敷かれ、足への負担が軽減されていました。
しかし、インド展示会では飲食場はなく、運動会のようなテントが並んで建てられ、そこで、ピザ屋やクレープを巻いた筒状の食べ物が作られ、販売されていました。
展示会には2日間参加しましたが、昼食には野菜のみのピザを食べました。
チーズは少なめで、生地は薄いですが、野菜の甘味がピザ生地を引き立て、素朴で美味しかったです。
代理店の展示ブースまで配達してくれなかったため、気づきませんでしたが、喫煙しにピザ屋の近くに行ったところ、ハエが結構な数でピザの上に集まっており、手で払い除けながら箱に詰めていました。近くには放し飼いの牛がおり、あちらこちらに糞が落ちていたので、ハエが飛び交っていました。
このようにハエと共存している光景には驚きましたが、現地の環境に合わせて受け入れ、気にせずに食べました。
日本ではこのような光景を見たら絶対に食べないでしょうが、郷に入れば郷に従うという言葉通り、美味しくいただきました。
その後、胃腸に異変はありませんでしたので、問題ありませんでした。
代理店がユーザーを集めて行うランチョンセミナーにも参加しました。
カレーとナンに誘われて参加した可能性はありますが、満員でした。
作り立てのナンとカレーは非常に美味しかったです。
大きな寸胴鍋には、保温されたチキン、マトン、野菜のみ、ほうれん草、4種類のカレーとナンが用意されていました。
ナンは隣で作られているようで、焼きたてで、美味しかったです。
マトンは骨に気をつける必要がありますが、その骨から肉汁と野菜の甘さが溢れ、カレースパイスが引き立ち、出来立てのナンに乗せて食べると最高に美味しかったです。
造っている量の違いかもしれませんが、日本で食べる専門店に比べて、圧倒的にスパイシーながらも肉と野菜の甘味で抑えられて濃厚で、私は虜になりました。
肝心のセミナーの方は、代理店にも、元々大手のHPLCメーカーで技術者を務めていた方がおり、非常に分かりやすい講義内容でした。
弊社のHPLCカラムのセミナーも、海外部のOS君が担当し、皆さんが首を横に振っていたので、受けも良かったと思います。
開発者と私も紹介され、拍手で迎えられました。
インドの食べ物としては、数種類のスパイスが利いたおかずと、ナンより小ぶりで薄いチャパティがセットになったターリーが定番でした。チャパティの代わりに米も選べますが、量が多いので、チャパティがお勧めです。
また、地元の代理店の方も生水は絶対に飲まないようで、封が開いていないことを確認してボトルの水を飲みます。
また、ボトルに直接口をつけません。
海外部のOS君は、必ず日本から持ってきた除菌ウェットティッシュでボトル口を除菌していました。
私も持参していましたが、拭き忘れることが多かったですが、特に腹を壊すことはありませんでした。
また、氷は危険なので、コップも絶対に使用しません。
歯磨きなどもボトル水を使用するなど、徹底的な予防が必要です。
お酒類などコップが必要な場合には、ペットボトルの水で洗浄してから使用しますが、酔ってくると気にせず使っていました。
さすがに氷は使えませんでしたので、ペットボトルをチェイサーにして、ストレートで飲むことが多かったです。
ハイネケンやバドワイザーなどの輸入ビールもありますが、かなり高価でした。
地元のビールは安くてあっさりしていて美味しかったです。
ただし、禁酒の場所も多く、お酒が一切提供されないホテルもあるので、注意が必要です。香辛料が強い料理が多いですが、野菜などの甘味によって食欲が増し、お金があるエリートの方々はお腹がポッコリするのは当然だと感じました。
一方、街を走り回っている子供や露店の人々はガリガリで、貧富の差が激しいと感じました。
インドから帰国後、ほとんどの人が下痢になったようですが、私は逆に便秘になりました。ヨーグルトや香辛料を摂取する量が急に減ったため、胃腸の働きが弱まり、便秘気味になったと思います。
ヨーグルトや冷たい牛乳をがぶ飲みして直しました。色々な経験のできたインドユーザー訪問でした。
帰国後1年ほどはインドからの問い合わせがすべて私に回るようになりました。忙しかったですが、お客の直接状況がわかるので楽しかったです。
今では、カスタマーサポートセンターが国内を含めてすべて対応できるようになっています。
最近のHPLC情報に触れる機会が少なくなり、寂しく感じました。
この50歳ぐらいまでが、新しい経験もできたし、お客様と直接接触できたので、一番楽しい時期だったと思います。
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