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思い出30  人生最良の10年間

1984年に結婚してから、1996年に親の借金を肩代わりするまでの12年間は、3人の子供に恵まれ、親たちも孫ができたと喜び、将来に夢を抱いた順風満帆の栄光の時代だったと思います。
栄光の12年間の軌跡
1984年
27歳で結婚し、中古一軒家を購入。7月に長女のり子が誕生。
1985年
夏休みには、長女が小学校6年生までは四日市の実家に帰省するようになる。
1986年
29歳。4月に次女が誕生。2月にプーのお爺さんが亡くなる。
1987年
30歳。長女3歳、次女1歳。年末に祖母が亡くなる。
1990年
33歳。長男が誕生。長女6歳、次女4歳。プーのお父さんが亡くなる。
1992年
35歳。プーの実家が圏央道工事のため立ち退き、移転させられる。
1996年
39歳。長女12歳、次女10歳、長男6歳。最後の夏の帰省。実家を借金で手放す。残った借金を返済するため、会社から1300万円を借り入れる。

翌年の夏休みには、1歳になったのり子を車に乗せて四日市に帰省しています。
後部座席の足元にエアーマットレスを膨らませてフラットにし、ベビー布団を敷いてのり子を寝かせました。
当時、高速道路での運転席および助手席のシートベルト着用が義務化される1か月前であり、2000年のチャイルドシートの義務化はまだまだ先のことでした。もし事故が起きたら危険でしたが、当時はそのようなことは考えもしませんでした。
四日市では、以前に泊まった郊外ではなく、市役所の近くにある実家に泊まります。
小学校時代まで私の部屋だった離れに寝泊まりしました。郊外の家には、退院していた叔母さんが住んでいたようです。
その離れは、普段は倉庫として使っていましたが、私たちが帰省するということで、エアコンも取り付けられ、泊まれるようにきれいに掃除されていました。
のり子の世話は母と祖母が見てくれるということで、その言葉に甘えてのり子を預け、私たち夫婦は湯の山温泉や伊勢志摩などの観光地や長島温泉のプールなど、日帰りでプチ新婚旅行を楽しみました。
母は泣いてばかりで子供の世話が大変だと言いながらも、楽しそうにしていたので、四日市にいる間は世話を任せました。
確かにのり子は、母親が見えなくなると私があやしても泣くことが多く、人見知りが激しかったようです。
私もお風呂に入れたり、哺乳瓶でミルクをあげたり、おむつを替えたりと、種々の世話をしましたが、タバコを加えながらあやしていたので、真剣さが伝わらなかったのだと思います。それでも、一応、私があやすと大人しくなっていたので、父親として認識をしていたと思います。
翌年の2月に、プーのお爺さんが亡くなりましたが、プーは、大きなお腹を抱えながら、葬式の準備を含めて一生懸命手伝っていました。
当時は、近所の人たちが集まって手伝いながら葬式を行う形だったので、近所の人たちに振る舞う食事などの準備が大変でした。
最近の葬式は、業者がすべて手配し、場所も別の葬儀場を使うなど、費用の幅はありますが、楽になっています。
葬式の2か月後の4月には、次女が生まれます。
長女のときは、出産前の健診はほとんど行いませんでしたが、次女のときには定期的に健診に通っています。
最寄りの狭山市駅の次の新狭山駅から歩いて10分ほどの奥平産婦人科を使用することになります。
新居から車で15分ほどの場所にあります。予定日の2週間前から、プーのお母さんが来てくれて、昼頃から夕方まで面倒を見てもらっていました。
次女の時は、夕方頃からお腹が痛くなり始め、そのままお母さんに居てもらいました。
私が帰ったときには、産婦人科に行く準備が整っており、お母さんに長女を頼んで、プーを奥平産婦人科に連れて行きました。
予定日も近かったので、そのまま入院することになり、二人目ということもあって、立ち会う必要はないだろうと言われ、帰宅しました。
夜中の2時頃に、無事女の子が生まれたと病院から電話がありました。その日は会社を休んで、のり子とプーのお母さんを連れて産婦人科に見舞いに行きました。
プーのお母さんには、なついていたので、泊まる準備をしてもらい、そのまま私たちの家でプーが退院するまで、のり子の面倒と家事をしてもらいました。
会話はあまりありませんでしたが、とても助かりました。
退院後、4人暮らしになりましたが、長女、次女とも、プーが一人で面倒を見ていました。次女は、お風呂にも入れたこともなく、最初から粉ミルクを使っていたので、お腹を空かしてぐずることもなく、夜泣きもありませんでした。
次女は、人見知りもせずに泣くこともない、手がかからない子だったと記憶しています。
長女のり子は、おっとりしていて、色々なことをして怒られていました。そのような状況を近くで見ていた次女は、要領よくうまく立ち回り、手がかかりませんでした。
高校、大学、就職先もすべて自分で決め、結婚して二人の男の子を授かっています。
一人目は旦那の親御さんにお世話になりましたが、気を利かせて二人目の時には、私たちの家に来て出産してくれました。
そして、次女が生まれた奥平産婦人科で、親子2代 続けて、自分の子を出産することになります。
しばらくは、二人の孫と共に家にいる予定でしたが、孫が生まれた時に私がインフルエンザにかかってしまい、私の家には戻らず、そのまま自分の家に戻っていきました。
一応、プーが2週間程度、次女の家に通って面倒を見ていました。
インフルエンザが流行っていた時で仕方なかったですが、孫達と一緒に暮らせず残念でした。
また、私が還暦の時も、次女が気を利かせて祝いを開いてくれました。
次女は気が利く性格で、近くのファミレスでバイトしていた時も店長からの評判が良かったですが、パートのおばさん達に妬まれて辞めました。それ以来、次女はそのファミレスには一度も行っていません。
次女は大学を卒業後、ホテル業界に就職し、家を出ました。
接客業に従事し、その八方美人さから常連のお客さんと男女関係になってしまい、辞めさせられました。
その後、美容室に勤め、旦那と出会い結婚し、二人の男子を生んでいます。長男は現在、小学校5年生です。
次女は今でもファミレスでパートをしており、周りへの気遣いは高く、良い評判を得ています。毎年1月には食事会に誘ってくれる気の利く次女です。
それに対して、長女はおっとりしており、優しさが取り柄の娘です。
次女は姉のことを「ノリ」と愛情を込めて呼び、親と同じように親しげに接しています。そのため、6歳下の長男も姉のことを「ノリ」と呼びます。兄弟間では、互いに上の2文字で呼び合っています。
ちなみに長女は高校を卒業後、歯科医院に勤めています。
21歳の時に籍を入れる前に妊娠し、現在は大学1年の長男、高校1年の次男、中学1年の三男を持つ41歳の専業主婦です。
6年前に次女が行ってくれた中華料理店での還暦祝い会では、5人の孫が一同に集まってくれました。
午後2時からのスタートだったので、他にお客さんもおらず、子供たちが走り回ってワイワイしており、本当に楽しかったです。
赤いちゃんちゃんこと頭巾を着て、扇子を持って、みんなで記念写真も撮りましたが、その写真が行方不明になってしまったのは残念です。
また、会社でも還暦祝賀会を行ってもらいました。
ホテルで30名ほどの人が来てくれて、その会も楽しかったです。
還暦の時には、このようにいろんな式典などが目白押しで開催されるので、逆に寂しさが襲ってきます。
定年も近づき、仕事も一線から外されるので、急に忙しさから解放され、そのため目標も失い、鬱状態になってしまいました。
そんな時に、紗倉さんを知り、これまで知らなかった世界を知る事ができ、推し活を始めて新しい楽しみが増え、乗り越えることができました。

当時の思い出に戻ります。
次女が4月に生まれましたが、夏季休暇も四日市の実家に帰省しました。
次女はベビー籠に入れて連れて行きました。
前回と同様に、母と祖母が長女と次女の面倒を見てくれて、私たち夫婦は休暇を楽しむことができました。
長女は3歳になっていましたが、人見知りが激しく、かなり泣いていたようです。
しかし、徐々に慣れてどうにかなりました。次女はまだ1歳前だったので、定期的に粉ミルクを与えておけば静かにしていました。
祖母にとっては、これがひ孫の相手をする最後の機会になり、年末に76歳で他界しました。祖母は12月28日に亡くなり、檀家のお寺で29日に通夜、翌30日に葬儀と火葬を行いました。年末に一連の儀式を終えましたが、埋葬は翌年の2日に檀家の坊さんによって行われました。
家族で帰省し、葬式に出席し、翌年に檀家さんを墓まで連れて行って埋葬しました。
その足で、家族で鈴鹿峠を超えてすぐにある田村神社に初詣に行きました。
納骨の帰りに初詣に行くのは不謹慎だと母に怒られましたが、長女が境内を楽しそうに走り回る姿を見て、祖母があの世から喜んでいるだろうと想像して自己承認しました。
正月に帰省したのはこの1回だけですが、毎年夏休みには1996年までの10年間、四日市に帰省していました。その後も、長女が就職する2002年までは、夏休みに家族旅行をするようになりました。
長男が1歳を過ぎるまでは日帰りでの遊びを楽しみました。
コアラで有名な東山動物園、明治村、鈴鹿サーキット、湯の山温泉、鳥羽水族館、赤目四十八滝など、中京地区の観光地をあちらこちら訪れました。
そして、1991年から1995年の5年間は、長島温泉に2泊して楽しむようになりました。
長島温泉はジャンボ海水プール、連日花火が催される遊園地、種々のショー、大浴場がある温泉施設などがあり、一日中楽しめる中京地域一の大レジャーランドです。ジャンボ海水プールの来場者数は日本一だと聞いたことがあります。
宿泊は、ホテル花水木に2回、ガーデンホテルオリーブに2回、ホテル長島に1回と、それぞれ最高の夏季休暇を過ごしました。
当時は、ビジネスホテルで5千円、2食付きの旅館で1万円で泊まれた時代でした。
その相場に対して、ホテル長島は1.8万円、オリーブは2.2万円、花水木は3.5万円で、大人2名、子供3名の家族で、それぞれ2泊で約13万円、約17万円、約25万円という贅沢な夏季休暇を過ごしました。
特に、花水木の最上階にある専用風呂は最高で、連泊だと上階の部屋で近く、豪華な部屋食になります。
長男が小さい時に、生きたイセエビが出てきて、それを見て泣いていたことを懐かしく思い出します。
今でも、娘たちと飲食すると、この花水木の宿泊の話が楽しい思い出として出てきます。
今では、夏のトップシーズンだと、一人1泊10万円を超えます。
宝くじが当たればまた泊まりたいですが、手が出なくなっています。
オリーブはファミリー向けでリーズナブルでしたが、当時から予約が大変だったと思います。
ネット申し込みも無い時代で、結局は母が裏から手を回して予約してくれていました。
ホテル長島は、お風呂は長島温泉の大浴場を利用する形でしたが、食事は花水木に近く高級でした。ただ、古いので子供たちには人気がありませんでした。
ホテル長島も長島温泉も新しく立て直され、ナガシマリゾートとして生まれ変わっていると聞いています。
帰省の最後となる1996年は、長島温泉の予約が取れなかったため、伊勢志摩にあるホテルに泊まります。プールやさまざまなレストランがある会員制リゾートホテルになります。このホテルは、入会金が500万円もする高級リゾートホテルでしたが、オーナーの紹介で1泊5千円で宿泊できました。ただし、1泊分の食事予約が必須でした。
その際、目の前で牛肉や伊勢海老、アワビなどを焼いてくれる鉄板焼きレストランを予約しました。料金は1万円~2万円で、お子様ランチはありませんでしたが、子供たちも美味しいと言いながら牛肉のステーキを平らげていました。

また、車で30分ほどの場所にある志摩スペイン村にも遊びに行きました。
東京ディズニーランドほどの規模ではありませんが、さまざまなアトラクションがありました。また、当時としては珍しく飲酒が可能で、レストランはディズニーランドよりも充実していたと思います。
伊勢志摩という場所で、日帰りの観光客が多いため、志摩スペイン村では、昼のパレードが終わる4時頃になると急激に人が減ります。
そうなると、アトラクションに並ばずに乗れるようになり、子供たちは気に入ったアトラクションに何度も乗っていました。
今はどうかわかりませんが、アトラクションを楽しみたいのならば、4時過ぎからが狙い目でした。
夏の家族旅行は、年に一度の最大のイベントとなり、毎年楽しみにしていました。
この10年間は、人生で一番充実した楽しい時代だったと思います。


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