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人生のターニングポイントはその時はわからないもの

私の中学時代とは

幼少期の次は小学校の頃を書こうと思ったけど、フライングして中学校の頃を書こうかなと。

私の人間形成の中で最も影響を受けた中学時代。

家庭環境の変化や3−5になったことが主な要因だけれど。いちご(塾)も強烈だったかな。

今も人間的に欠陥だけど、もっとゴミな人間になっていたか、普通にこの世にいなかったかもしれないレベルかもしれません。


私は中学時代から成長できている気がしないくらい、そこでの出来事が今の私に直結していると感じます。


当時はそんなこと考えず、日々が早く

過ぎ去ってしまえばいいのにって

ずっと思っていました、、、ね



1. いちごゼミナール(塾)

今は亡きいちごゼミナール。(以下いちごに省略)

名前は可愛い塾だけれども、実状は異なりました。


私がいちごに通うきっかけは、新中学1年生になる前の3月、母に「入塾テストを受けてこい」と命令されたからです。

私は小学6年間、サッカー・水泳・ピアノ+(陸上)に明け暮れており、勉強なんぞしたこともなければ、宿題を家でやった記憶がありません。

当時いちごは、入塾テストは難しく、入った後もとても厳しい塾だと聞いていました。

なので、そんな塾に勉強の仕方もわからない私が入塾テストを受けたところで受かるはずがないことは承知だったので、また命令には逆らえないので、しぶしぶ受けに行きました。

そしたら、まぁ

下から2・3番目の点数で受かってしまいました。

予想外の出来事すぎて、意味がわからなかったのですが、受かってしまったので、入塾しました。

そこから地獄の始まりです。

いちごは、週2回授業があり、国・数・社・理・英の授業あり、次の週にそれらのテストがありました。それが毎週毎週続きました。

また、1科目100点満点(全て間違ったらマイナスになるようなテストもあったなぁ)で計算し、400点より下の点数であった場合

部活禁止(部禁)命令が1週間執行され、次のテストまで学校終わった瞬間に自習しに行かなければならい制度がありました。

お察しのように、私は勉強の仕方など知らず、特に英語に触れた記憶がなく、全く英単語を覚えられず、

毎週部禁でした。

そんな私についた最初のあだ名


”部禁女王”


なんと不名誉なあだ名。


また、毎週成績でクラス分けがされ、席順も成績を考慮し、先生が決めていたので、私は部禁の週は一番で、先生の真ん前。

英語の担当であった塾長は、自分の腕時計を毎回毎回私の机の上に置いて授業を行なっていました。(怖)


私が部禁になる主な原因は、英語と数学でした。

そのため、毎回毎回塾長のあたりが強く、問題を解いている間、間違った解答を書いた瞬間、怒鳴られ、プリントで頭を叩かれるのは日常茶飯事。

英語恐怖症の発症ですね。

授業中はいつも死にそうな顔で授業を受けていました。

怒られませんようにと願う日々()

結局1年生の時は、何回部禁になったかわからないくらい部禁をくらいました。

中学1年生にも関わらず、入部した陸上部へ全然通えず、毎回毎回顧問の先生と先輩たちに怒られ、塾に行っても怒られ、

部活と塾の板挟みで死ぬかと思いました。


中1の時に、最もやばかった事件といえば

中学の夏休みの期間、塾は夏期講習。部活は合宿。

私は夏期講習前のテストで、400点を下回り部禁になりました。

しかし、顧問には合宿は絶対に来なさいと言われ、ダメもとで

塾長に「合宿に行ってもいいですか・・・?」と電話で聞いてみたところ

「お前は、バカなのに最もバカになったのか?」

と言われて電話を切られてしまいました。


そうなんです。バカだったのに、バカになったんです。

私は合宿に行きました。(笑)

そして、合宿後塾長に呼び出しをくらい、中学3年生が自習をしている同じ空間で、怒鳴られ、ボコボコにされました(これは本当)

(全部私が悪い)


中学2年生の時は、なんとなくこのぐらいすれば部禁にならないだろうという程度を覚えたため、一度も部禁になることはありませんでした。

(遅い)

中学3年生になって部活を引退した後は、部禁など関係なく、私には


家に帰る権利を剥奪されました。


土日は、塾へ自習しに、平日は学校が終わった瞬間ダッシュでいちごへ。

勉強時間で行ったら、人生で一番勉強しました。(させられました)


まぁ、そんなに勉強をして完璧に頭が良くなることはなく
プレ模試を解いている時間、塾長が私の斜め後ろに立って、
私の答案をみていることを察した瞬間

「葉緑体」という単語がぶっ飛び、かけずにモタモタしていたら
塾長に怒鳴られくらいバカのままでした。(あれは絶対塾長が悪い)


まぁそのくらいバカでも結果福岡ではそこそこの女子校の特進に受かるという快挙を成し遂げたのですが。
(落ちた公立高校より高い偏差値に行くという怪奇体験ですね)



今振り返れば中学の多くの時間をいちごで過ごしたんじゃないかと思います。(怒られてしかいませんでしたが)


でも、勉強をしなさいと血も繋がっていない子供に真剣に向き合ってくれた大人は、塾長が最初で最後のような気がします。


塾長のせいで英語のこと大っ嫌いになりましたが、勉強する大切さや人間的な教えは、間違っていなかったなと今になってわかります。


私の唯一の後悔として、ありがとうございましたと直接伝えることがもう二度とできないということ。


タイミングって本当に残酷だと思う。

2. 陸上部に入ったがなぜか長距離


私は幼稚園生から多分小学4、5年生までサッカーをしており、
また幼稚園生から小6まで水泳を結構本気でしており、同じ期間
ピアノもしていました。
小学5年生の最後らへんから小学6年生まで陸上?をしていました。

サッカーは週2。
水泳は週5。
陸上は週1
ピアノは週1。


小学生の頃サッカーを辞めた理由は、
体格で男子に勝てないことにムカついたからです。

今では身長は162cmと女子の平均ぐらいにはなりましたが、
小学生の頃全く身長が伸びず、背の順ではいつも前にいました。

サッカーは足技もあると思うのですが、やはり体で負けるのはなんか
うーんっとなってしまいました。

(私は基本走り回ることしかしていなかったため、体格で負けると意味がなかったから)


あとサッカーが終わった後、一回家に帰り
水泳に行く生活がとてつもなくきつかったからってのもありました。


でもサッカーを切り捨てて、水泳を選んだにも関わらず
週5もスイミングスクールに通い、死ぬ思いで練習していましたが
中学に上がるタイミングで
私は水泳を続けて何になりたいのだろうか。

と思うようになり

なぜ0コンマ数秒の世界のためにこんなに涙を流しながら練習しているのか
苦しい思いをして水泳を続けているのか

訳がわからなくなり、やめるならこのタイミングであると思い
辞めました。


(さりげにピアノも辞めました)


さて、中学生。


何部に入ろうか。

ワクワクして私は部活動見学に行きました。


・吹奏楽部
→上下関係が激しすぎて、息苦しそう
→却下

・バスケ部
→基本手でやる球技は苦手。
→すぐに突き指をする。
→今までに指を3回折っている。
→色々怖すぎて却下。

・サッカー部
→男子しかいない。
→男子しかいない。
→却下

・バトミントン部
→めっちゃ女子。
→めっちゃ女子。
→却下。

・バレー部
→バスケと同じ、以下同文。

・水泳部
→練習していない。
→ちゃらんぽらん。
→夏、野外でやるため真っ黒になる。
→同じスイミングスクールだった人たちが多数在籍。
→却下

・テニス部
→ガチすぎる。
→え、牢獄?(テニス部に失礼)
→却下

・美術部
→絵とかまともに描いたことない。
→却下

・剣道部
→装備代バカにならない。
→却下



で、考えた上げく
結局陸上部に入ることにしました。

あ、もちろん短距離志望です。できれば200mや高飛び希望です。

これから中学3年間、陸上部短距離として頑張ることに
胸を踊らせ入部しました。


が、残念なことに私は短距離選手として
3年間過ごすことができませんでした。


その原因は、市大会1年生競技決めです。


市大会では、競技ごとの順位にポイントが配分されており、
最終的なポイントが高い中学校が総合優勝できる仕組みです。

中学生の市大会なので、基本競技と学年が別れていました。


そのため、総合優勝するには、1年生も上位に入賞する必要がありました。


よって入部して1ヶ月後、1年生が全ての競技のタイム測定を行い、

上位者からそれぞれ競技が割り振られました。





そこでです。

そこで私は、800mと1500mに割り振られてしまったのです。

ほんとバカなことしたなぁと思いました。

なんで全力疾走をしたのだろうか。本当。



そこで私の陸上競技人生は、長距離になってしまいました。

大会に出場した後、短距離の練習をさせてもらえなくなり
(雰囲気)

結局3年間長距離をしました。(謎に部長もやりました)



私より50m、100m、200mのタイムが遅い子たちが
のんのんと短距離の練習をし、大会に出ているのがとても悔しかったし
今中学生に戻れるのならば、絶対短距離をしたい。


結果がどうであれ、自分の意思表示をはっきりすべきであったなぁと
本当に思います。

まぁ、この出来事があったおかげで
今の私がいるのかもしれないけど。


そして長距離も長距離で、短距離では味わえないことをたくさん経験できたので、今現時点の気持ちは、全然いい思い出です。

(みんなで出場した駅伝の県大会は、本当にプレッシャーで死ぬかと思ったけど、(いや死んだけど)本当にいい経験をさせてもらいました。)

(自分が1500m走っている時、高飛び組がのうのうと笑いながら応援している姿を見て、何にムカついているのかわからないけれど、その怒りを走りで発散させたり)


自分がやりたいことと向いていること。
自分がやりたいことと他の人が望んでいること。
自分がやりたいことと今の自分に必要なこと。


様々な要因で意思決定がなされていること。
また意識して意思決定を行わなければならないこと。


多くのことを学びました。


なんかすごい綺麗ごとで終わりそうなので、
また、私の部活している時のマインドを知っている人がいたら
ちょっとあれなので


大会の走る直前まで、走るのヤダヤダ言いながら横を走ってごめんなさい。

部長なのに練習中運動場で寝てごめんなさい。

塾を理由に練習に行かなくてごめんさい。

生意気な後輩でごめんなさい。

グータラ先輩でごめんなさい。


長距離ちょーキツくて、苦しくて、何回も辞めてやろうと思ったけど
結局みんながいたので辞めませんでした!

成長させてくれたあの瞬間ありがとう。


3. 人の死に遭遇した時のマインド


書こうと思ったのですが、また後日書きたいと思います。


まとめ

この間ある企業の方と面接?面談?おしゃべり?を1時間ぐらいしていたのですが

その時に、昔経験したことでも強烈に覚えていることって
そこから学んだことがあるからきっと覚えているのであって
人格形成には大きく影響しているよね。

と話をしてくださいました。


確かに。

23年間も生きて、様々な経験をしているのに
自分が関わった出来事なんて
全て思い出すことができない。

思い出すことができる記憶は、よっぽどの感情が伴っていたもであると

思います。


中学時代、私にとっては強烈な3年間でした。
ここに書ききれないくらい。
死んでも戻りたくないほど多くの出来事がありました。


けれどあの時代無く、今の私は確実にいません。

あの時代今の私を形成している
重要なターニングポイントが集中していのでしょう。





中学を卒業してから強烈な出来事は、ちょこちょこありましたが
それは私にまつわる出来事です。


最近刺激不足なので

社会人になって、会社に入った時
私の人生のターニングポイントとなる強烈な時間を
過ごしたいなぁと思ってしまいます。


きっと強烈な人生の方が私にあってるのだと今、思えるから。



おーわり




山本の成長の糧になります。 どのように成長したのかは、全てnoteに綴ります。