2023年。 新年を今年も迎えることが出来た。ありがたい限りである。 一年、再び日常の繰り返しに浸る。 しかし一方で、何事もなく「いつも」を咀嚼し続けることが出来るということは、最上の幸せであることに疑いの余地はない。 幸せとは、思い出の数ではなく、思い出を振り返る毎日にこそあるのだ。 何となくそれっぽいことを言えた気がするので、ここで筆を置くべきという悪魔と天使のまさかの共同声明が胸中に響く。 しかし。 それだと、表題が報われぬ。 呼び出された挙句、集合場所には人
私達は結局のところ、朝を征服することが出来ていないのである。 冒頭から、それを正しく証明するように唐突に寝惚けたようなことを述べたのだが、しかし、朝とは私にとって「始まり」である。 物事は、どうやら起承転結から成る。 これが起承転結における「起」として職務を全うするかどうかは、昨今騒がれている多様性の包容力に任せるとして、朝もまた、「起きる」ことによって始まる。 つまり、始まりの始まりがここに成った訳である。 どうか、はっきりと目の覚めるような「起」となることを願お
就寝。 違和感。 起床。 寝苦しい。 暑い。 汗。 カレンダーが10月を数えて久しい。 四季に準えるならば、既に秋も半ばであるところ。 例年であれば、虫の調べを背景に、食欲だのスポーツだののそれぞれの秋の定義に忙しい時期である。 しかし、巷を行き交う袖は腕を半分だけ隠すのに留まり、未だ太陽の主張は衰えるところを知らない。 勿論、秋の日は釣瓶落とし、また、日が落ちてしまえば、どこか物悲しい風が街中を吹き抜けることはある。 あるのだが。 表
くしゃみには、それぞれ独特の構えがある。 「それぞれ」とは、一人一人特有の型があり、決してそれは一子相伝ではなく、完全に個として成り立っているものであるように感じる、ということである。 即ち、独特という言葉を完全に体現した存在こそがくしゃみであり、また、それ故に、くしゃみを観察すれば究極的に個人に根差した面白い発見が待っていることであろう。 しかし、「くしゃみの観察」とは、何とも言い表しようのない滑稽さがのし掛かっているように見えるのは、私だけであろうか。
既に、学校の七不思議は姿を消していた。 街角を闊歩する都市伝説も朽ち果て、写真の隅に居を構えていた幽霊も虚空へと溶けたのだ。 今となってはロマンは死に絶え、それに取って代わったのは、人間の臭いの激しい由無事である。 非現実は淘汰され、現実だけがそこにあり続ける。 異界への扉として機能していたものは、その姿の尽くがインターネットに網羅され、また、それによって、闇は好奇心という名の光に照らされ、焼かれた。 オカルトは、発展した科学の力に屈したのである。
ふと、何かが手に触れた感覚で、現実に戻された。 私は、寝返りを頻繁に打つ。それに伴い、布団や枕、壁などが手に触れるのは珍しいことではない。 しかし、その日は妙に違和感を覚えた。 何が、手に触れたのだろう。 確認しようと身体を起こそうと力を込めるが、身体は言うことをまるで聞こうとはしない。むしろ、そこに留まるように命令を受けたかのように、身体はその状態を維持し続けた。 私は金縛りを両手の数程度経験している。 この日もまた、それが起こったのだろうと達観
別れは音もなく、唐突に行き逢うという誰かの達観した経験則は、私達には無縁だった。 私達のそこには、いつだって鼓膜を刺す波が空気を泳いでいたのだ。 私は物事に向き合う際、いつも彼に手を握ってもらっていた。心強い、なんて彼の存在を過小評価するつもりは毛頭ない。文字通り、私は彼が居なくては何も出来なかった。 彼は常に、私を支え、私の望みを叶えてくれた。軌跡を振り返らせることも、彼は忘れない。 彼が全てだった。 彼しか居ないと思っていた。 でも、一つだけ、彼に対する不
目覚まし時計が、今日も、煩い。 恐らく、大勢の意見として、いや、主語を大きくするということは昨今、非常に可燃性が高いと噂なので止めておこう。 私にとって、目覚まし時計の音がこの世で一番嫌な音である。 これを口にするとき、「いや、黒板を爪で引っ掻く音はどうであろうか」だとか「人が嘔吐する音であろう」だとかいう、これまた嫌な音を耳が捕まえる。 一旦、心に安寧を座らせて、今一度吟味していただきたい。 大抵、「この世で一番」だとか「世界で最も」という謳い文句が
この記事において、まず皆々様方に御挨拶しておきたいことは、私は自他共に太鼓判まみれの "方向音痴" であるということである。 数多存在する知人の方向音痴診断スタンプラリーを容易くクリアする、妖怪太鼓判まみれ、その正体が私である。 人によって、その基準点は前後するであろうが、そのいずれの柵をもぶっ飛ばして超越する、日常をこの上なく過ごし辛くする自信が私にはある。 スカウターで測定してもらえば、その戦闘力は「53万」と表示され、地球人の度肝をひょいひょいと、もてあそぶこ
その日は、いつもの“今日”の延長線上にあったはずだった。 「タロの散歩のとき、本当変な人居てさ。何と言うか、話は出来てるはずのに、その話の何もかもを崩そうとしているみたいな」 「何それ」 「うーん。うまく言い表せないけど、兎に角、返事が不気味なんだよ」 「ふーん。変なの」 「でしょ? 本当に変だったんだよ。もう怖いぐらいに」 「あんたが可笑しなこと言ったんじゃない?」 私が聞いた息子の話は、確かに変だった。それこそ、もう怖いぐらいに。
夏は食欲が失せる。 水分ばかりを体内へと流し込み、固形物に顔をしかめるのだ。 連日、灼熱を誇る太陽の視線に殴り付けられ、何処へ行ったかも分からぬそよ風を惜しみつつ、我々は熱さに狂う。 気温が40度を越えている地域もあるらしい。 昔は30度を飛び越えると猛暑の呼び名が掛かると聞いた覚えがある。それを思うと、我々が暑い暑いと呪文のように繰り返すのも、頷ける話ではないか。 さながら呪いのように纏わり付く汗。 勘弁願いたいものである。あっかんべーである。 これ
久方ぶりに筆をとる。 懐かしき感触に、色々な想いが駆け抜けていく。 過去が呼吸を始め、思い出が肩を叩く。 あの日綴られた刹那と目が合い、その時舞い降りた景色が心を暖める。 人には歴史があり、その人と人との歴史の交差点が、また新たな奇跡を生むのだろう。 あぁ、美しきかな、執筆活動。 あぁ、美しきかな、過去の栄光。 … なんてことはなく。 私に、そんな遥か立派な何かがあった訳でもなく。 私に、過去心弾ませる思い出などなかったのだ。 巡る想
「あー、なんだっけ。 あれ、あれあれ。あれよ、あれあれ。 あー、出そう。出る出る。もう出る。 もう、そこまで来てる。 ほら、あれあれ。あれだってば」 出せ。早く出せ。疾く出せ。 どれだ。どれなんだ。 私の顔に、死に切った表情が浮かんでいるのは言うまでもない。 「あ、浮かんでたけど、過ぎ去ったな」 お前も吹き飛ばしてやろうか。 皆の記憶から過ぎ去れ。 「ほら、あれだってば。 あれだってばよ」 私の手に、螺旋丸が唸る。 祈る
私にとってそれは、健康のために必要なことであるし、お気に入りの時間でもある。 私にとってそれは、底を知らぬ欲望が形を成したものであり、ささやかな個人の楽しみが思わぬ功を奏したものでもある。 一般に、習慣と呼ぶには些か役者不足ではあるが、やはり、私にとってそれは繰り返すべき習慣であった。 私は、ホラー映画が大好きである。 いや、特に映画というジャンルに縛られる必要はない。 私にとって、メディアはどれだって良い。 好き嫌いのない体質だと言えば健康的で
ソイツは、もはや手のつけられなくなった、飽くことなき暴力である。人を傷付けることを厭わず、むしろ楽しんでいる。 以前、私のノートパソコンについてのお話をさせていただいた。 それは、唐突な暴挙だった。 突然、キーボードの「E」と「O」の心臓が止まったのだ。 つまり、それは私の文章作成能力が死に絶えたに等しい。 せめて「Q」などが逝ってくれればまだ私は戦えたのだが、しかし、母音という主力を2つも失ってしまえば、私は戦場に転がる赤子のようである。 相手の慈悲
非常によろしくない状況は誰にだって訪れるものだろう。 緊急事態の足音を聞いたことがない人は、恐らく存在しない。 所謂この、"ヤバい、ナウ" であるが、昨今の「ヤバい」の八面六臂っぷりは頭が上がらない程である。それは、日常のあらゆる場面で跋扈しており、もはや、これだけで会話が完了する。 「ヤバくない?」 「ヤバい、ヤバい!」 これは、ヤバい。 何がヤバいとかじゃなく、ヤバい。ヤバ沢さんである。 ヤバい、ヤバい。 兎に角、程度が激しいときにはこれを使って