久方ぶりの筆
久方ぶりに筆をとる。
懐かしき感触に、色々な想いが駆け抜けていく。
過去が呼吸を始め、思い出が肩を叩く。
あの日綴られた刹那と目が合い、その時舞い降りた景色が心を暖める。
人には歴史があり、その人と人との歴史の交差点が、また新たな奇跡を生むのだろう。
あぁ、美しきかな、執筆活動。
あぁ、美しきかな、過去の栄光。
…
なんてことはなく。
私に、そんな遥か立派な何かがあった訳でもなく。
私に、過去心弾ませる思い出などなかったのだ。
巡る想いなども、さしてなく。
息衝く命も、まるでない。
あぁ、悲しきかな、執筆活動。
あぁ、悲しきかな、過去の栄光。
…
まぁ、良い。
自ら無色透明の過去に、玉砕覚悟の体当たりを決行する必要はない。
それは亡霊である。
本質として在りもしないのに、自らが信ずるが故に自らを縛る、心に住む鬼である。
つまり、思い出のない過去に「何故、思い出がないのだ」と途方に暮れる必要は皆無だということだ。
思い出がないのも辛い話ではある。
それは分かる。
しかし、それに傷付くことはない。
我らが向かうべきは明日であり、そもそも我らの前には明日しかない。システム、オールグリーン。
語り尽くすのも程々に、単に「久しぶりに何か文章を書いてんなぁ、自分」ということである。
そこで「久しぶり」という単語に引っ掛かりを覚え、また、久しぶりということは、その場にそこそこの時間が流れたという証拠である。
そして回顧してみるに、特に振り替えることもない。
何故なら。
私のnoteは駄文と阿呆によってモノクロに染められている。
むしろ、振り替える方が羞恥に喉を掻きむしるだけである。
故に。
また、ぼちぼちやろうかな、と。
何も推敲せず、何も反省せずに。
これは「またやるよ!」という世間に向けた大声による宣伝ではない。
何となしの自らの意思表示であり、微細な発破みたいなものだ。
これで何か弾けるものがあればよし。
そもそも、何かを成そうとしている訳でもない。
続けることに意味があるのだろう。
この言葉は、それこそ何かを成した人が語るべきなのだろうが。
継続こそ、力なり。
力をつけるため、また、再び。
頑張れ、私。
気合いだ、気合いだ、気合いだ。アニマル浜口。
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