オカルトの死

 既に、学校の七不思議は姿を消していた。
 街角を闊歩する都市伝説も朽ち果て、写真の隅に居を構えていた幽霊も虚空へと溶けたのだ。
 
 今となってはロマンは死に絶え、それに取って代わったのは、人間の臭いの激しい由無事である。
 非現実は淘汰され、現実だけがそこにあり続ける。
 
 異界への扉として機能していたものは、その姿の尽くがインターネットに網羅され、また、それによって、闇は好奇心という名の光に照らされ、焼かれた。
 
 オカルトは、発展した科学の力に屈したのである。

 雌伏の時などは最早、無くなり果てた。
 何故ならば、時間が経てば経つほど、天敵の勢いは世の中のあまねくを飲み込み、そして、それを信仰する人々が闇を駆逐して回るからである。
 
 子供の涙を吸い、悲鳴を食べて生きてきたそれは、死んでしまったのである。
 
 
 
 
 
 
 
 冒頭にもあったように、私が学生の頃には、既に学校の七不思議などを語るものは一人として存在しなかった。
 七不思議を解明し、八個目の不思議を付け足すような探求心の果てにある作業は、廃れて久しい。

 まことしやかに受け継がれた人面犬などの類いも、インターネットで検索すればすぐに出逢うことが出来る。
 不思議は不思議として機能しなくなり、話の種の一つに過ぎなくなった。
 
 夜中に神社の前を通る自転車、暗くなった畦道を行く運動靴、すっかり時計の回りきったお留守番の鍵っ子。
 背中を駆け上がるあの雰囲気、思わず唾を飲む気配は、時代と共に薄れた。
 
 死に切った時代である。
 オカルトは死んだ。
 
 幽霊に限るまい。
 
 雪男もネッシーもツチノコも、今はその影すら見当たらない。
 
 インターネットの急速な普及が、他人との境界を狭め、今まではそこにあった「何もないが、何かいるかもしれない」といった空間を消した。
 
 それらは現実を色濃くその画面に映し出し、ありもしない何かに想いを馳せる時間を殺した。
 
 それに飛び込めば、絶えず誰かの影があり、誰かの声が響く。
 最早、この世に無音がやけに心に重くのし掛かる場所は無いのだ。
 
 学校に忍び込んで、いつもは賑やかな場所を「無」が支配し、故に廊下の奥まで足音が走り抜けたあの高揚感も、もう味わうことは出来ない。
 
 お祭りの帰りに、近くの廃墟へと数人の足音が向かうあの手に汗握る好奇心も、もう噛み締められない。
 
 故人に想いを馳せるのは、今を生きる者達にのみ、与えられた行為である。
 
 幽霊はそもそも故人であり、二度も死んだような言い方になってしまったのは、何となくおかしな話である。
 
 そもそも、オカルトはおかしな話だ。
 
 しかし、その「おかしさ」を追い求めるのがロマンなのであり、ロマンの本懐は理解を求めるところにはない。
 
 故に、これも個人で簡潔する独白なのである。

 いつか、また。
 
 オカルトが、街中を歩き、あの角で笑い、心に住み着くことを願って。
 
 死人が生き返るのはオカルトの常である。
 
 ならばこそ。

 
 
 
 
 
 

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