ある日の悪夢の話
その日は、いつもの“今日”の延長線上にあったはずだった。
「タロの散歩のとき、本当変な人居てさ。何と言うか、話は出来てるはずのに、その話の何もかもを崩そうとしているみたいな」
「何それ」
「うーん。うまく言い表せないけど、兎に角、返事が不気味なんだよ」
「ふーん。変なの」
「でしょ? 本当に変だったんだよ。もう怖いぐらいに」
「あんたが可笑しなこと言ったんじゃない?」
私が聞いた息子の話は、確かに変だった。それこそ、もう怖いぐらいに。
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「ね、可愛い犬だと思う。食べるとしたら、お腹からみたいな、そんな感じだよ。悪くないよね、あはは」
タロの散歩はいつもの日課だった。放課後、帰宅したらタロが尻尾を元気に揺らしていて、僕が頭を撫でて、タロが催促するように2回ほど鳴く。それが僕らの合図。
散歩用のリードを目の前で振ってあげると、決まってタロは前足を振り上げ、その意気込みを全身でアピールするのだ。その目の輝きは、本当に眩しいぐらい。こちらも思わず笑顔になる。
いつも通りだった。すべてが。
道端に乱雑に顔を出した緑に構うタロの尻尾を、何となしに視界に映していたその時。
僕は行き会った。そいつに。
「は?」
突然を極め過ぎていて、かすかに息が漏れるようにしか言葉を零すことが出来なかった。
「飲むのは緑だし、夢で逢うなら赤だよね、これって。うん、きっと理想なんだよ」
「え、は?」
「そんなに箱を見せられたら、目が回っちゃうよ。いつか別れるでしょ? だって歩み出しは真ん中からがいいに決まってる」
まるで意味が分からない。
小説からランダムに文章を抜き出したような、継ぎ接ぎだらけの色のない言葉の羅列。掴み所のまるでないそれは、さながら幽霊のようだった。
本能の囁きが自分の中で重く響いた。
この場から、一刻も早く離れるべきである、と。
すぐさまタロを見る。
しかしタロは、まるでそこに僕ら以外居ないかのように、道を行く次の一歩を踏み出そうとしていた。その場に影を留めるリードの引力によって、タロはようやくこちらを向く。その眼には、ただ先を急ごうという催促だけで染まっていた。
「今日こそは交差しようよ。だって、君と僕で完成だもの」
そいつは、夕日を背に笑っていた。
影を纏い、暗く、暗く嗤っていた。
誰だという問い掛けに、名前は記号でしかないという回答をもらった気がする。いや、名前を知っただけで僕を理解できるのか、だったような気もする。
前後の記憶が抜け落ちたように、過去が覚束無い。だから、それを土台とする今がとても不安定だ。証明するように、何故か僕には、こいつが隣にいることをどこか許している状況にある。
「何処までついてくるんだ?」
「別れはないよ。終わりが僕らにはあるけれど、共有されるものもある」
「別れはない?」
「一緒に連れて行ってあげようかな、きっとね」
そいつは自らの喉を指でつつく。
「何やってんの、それ」
「後は吐くだけ。後は吐くだけ」
そして、踊るように歌うんだ。
「刻みましょう。刻みましょう」
●
「世の中、ほんと変な人もいるものね」
そう返事を投げた、私の背中からだった。
「お父さんもそう思う。お父さんもそう思う。お父さんもそう思う。お父さんもそう思う。お父さんもそう思う」
心臓が鼓動を諦めたかと、錯覚した。
急に存在を空間に認められたように、夫が立っていた。
「あ、あなた。急にびっくり――」
「お父さんもそう思う。お父さんもそう思う。お父さんもそう思う。お父さんもそう思う。お父さんもそう思う。お父さんもそう思う」
人間は、理解できない状況を目の前にすると、声が出なくなるのではない。
呼吸が進まなくなるのだ。
足から力がするりと抜け、その場に倒れこんでしまう。
それでも、夫は光の消えた目で私の顔があったであろう座標を目掛けて、うわごとのように口を動かしていた。
世界が安定しない。まるで分からない。何が起こっている。
助けを求めるように、ゆっくりと息子を追った私を、唐突に扇風機が怒鳴りつけた。
羽の回る音が、悪魔の笑い声のように鼓膜を嬲った。
唸るように叫ぶ扇風機から伸びる風が、ただいたずらに私の熱を奪っていく。
夫が動き出す。足取りははっきりとしているのが、余計に恐怖を煽った。
慣れた手つきで、夫は扇風機の羽を露出させる。
そして、手を伸ばす。
「ちょ――」
顔に飛来したのが夫の血液だと気付くのに、時間は掛からなかった。
狂ったように腕を差し出し続けるそれは、もはや同じ人間とは思えなかった。
「刻みましょう。刻みましょう」
扇風機が腕を飲む轟音が飽和した中で、その言葉がやけに大きく響いた。
もう、ここには居られない。
せめて息子だけでもと振り返った私の視界を埋めたのは、タロだった。
「わーん。わーん。わーん」
無機質な人の声が、そこにはあった。
しかも、口の動きとズレてしまっている。
すべてが夢であってほしかった。
何もかもが、覚めてほしかった。
刹那。
肩を掴まれた。
首をそちらに向けると、笑顔の息子がいる。
そして、一枚の紙片を差し出してきた。
「これこれ、この子。これこれ、この子。これこれ、この子」
果たして、それはただの真っ黒に塗りつぶされた紙。
「これこれ、この子。これこれ、この子。これこれ、この子」
息子から笑顔が消えていく。
比例するように、声にノイズが走り、低く、暗くなっていく。
その口が開いたまま、静止する。
そこから、誰かが覗いているのだ。
それは、歌っているように見えた。
「刻みましょう。刻みましょう」
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こんな夢を見た、というお話でした。
悪夢を観るのは大好きなので、起きて忘れないうちに書いたものになります。
また、こんな夢を観たいものです。
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