起床時間に棲む魔物

 目覚まし時計が、今日も、煩い。

 恐らく、大勢の意見として、いや、主語を大きくするということは昨今、非常に可燃性が高いと噂なので止めておこう。

 私にとって、目覚まし時計の音がこの世で一番嫌な音である。

 これを口にするとき、「いや、黒板を爪で引っ掻く音はどうであろうか」だとか「人が嘔吐する音であろう」だとかいう、これまた嫌な音を耳が捕まえる。
 
 一旦、心に安寧を座らせて、今一度吟味していただきたい。

 大抵、「この世で一番」だとか「世界で最も」という謳い文句が付随する際は、今から大仰に冗談を纏いながら話しますという合図である。

 いや、これは無粋な説明であろうが、しかし、非難を浴びたのだから致し方あるまい。降り注ぐ火の粉は己で払うものだ。

 また、「それを分かってて、こちらも大仰に非難したのだ」と言われれば、それまで。誠に申し訳ない限りである。
 いちいち無粋な説明をする輩は、そもそも冗談の意を受け取る器が小さい。多目に、孫と接するような感覚で、見ていただきたい。

 さて、本題に立ち返る。

 しかし、本題は目覚まし時計の声の大きさにはない。
 
 それは、起床時間にこそある。

 では、一体何なのだと問われれば、今から話すこの内容を以て、回答とする。
 
 
 
 
 
 私は基本的に、その日行う事柄に間に合うように、起床時間を決める。賛成意見も多いだろう。つまり、逆に見れば、私もその一人である。
 
 問題はそこだ。

 そこ。

 つまり、間に合うような時間とは、具体的にどこだ、という話である。
 
 私は、極限を極めに極めたギリギリまで寝ていたい睡眠愛好家である。
 従って、起床時間は出来る限りの鈍重を求める。
 しかし、寝坊してはいけない。いけないのだ。

 故に、慎重に事を決める必要が出てくる。
 一体、いつまで睡眠を極め込んでいいものか。
 この調整に、魔物が棲むという訳だ。

 一般論的に、人の行動にはルーティーンと呼ばれるものが存在する。つまり、学生ならば、朝になると布団から飛び起きて、学校へ向かうという規定事項がおよそ週に5回程ある。社会人ならば、学校がそのまま会社になるという訳だ。
 
 これによると、起床時間の調整を行う機会が、何度も巡ってくることになる。
 
 「今日は、ここの時間に起きて余裕を以て間に合ったので、明日はもう少し寝ておけるな」という具合である。
 
 これを繰り返して、最適化を図る。
 少なくとも、私はそうしている。

 しかし、ルーティーンとは言えど、そこには差異が生まれる。
 これは仕方のない事、考えてもみれば、当たり前なことである。
 
 その日に限って、寝癖が顔を覗かせていたり、ある時には、財布が見つからなかったりするだろう。
 
 これを勘定に入れる必要があるのだ。

 流石に、その日に限って、何故か部屋の真ん中に生じた落とし穴に落ちるかもしれないという杞憂はしないにしろ、ある程度、起こり得ることは想像出来る。
 
 それらを加味する。
 
 然る後に、起床時間と相談する。
 
 はてさて、あなたはどれぐらいの時間ならば、十分な睡眠を確保することが出来、しかし、最悪のケースを避け得る程の余裕を得ることが出来るのか、と。
 
 日々、この魔物と格闘しているのだ。

 いい加減に、頭が痛くなってくる。

 誰か、完璧な最適解を提示して欲しいと嘆きながら、明日もまた、目覚まし時計への悪意を積もらせつつ、睡眠時間の延長を何処かに請い願う。

 

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