余裕と限界

夏は食欲が失せる。
水分ばかりを体内へと流し込み、固形物に顔をしかめるのだ。
 
 
 
  

連日、灼熱を誇る太陽の視線に殴り付けられ、何処へ行ったかも分からぬそよ風を惜しみつつ、我々は熱さに狂う。

気温が40度を越えている地域もあるらしい。
昔は30度を飛び越えると猛暑の呼び名が掛かると聞いた覚えがある。それを思うと、我々が暑い暑いと呪文のように繰り返すのも、頷ける話ではないか。
さながら呪いのように纏わり付く汗。

勘弁願いたいものである。あっかんべーである。
これを駄洒落とするには少々強引ではあるが、それも夏のせいなのであろう。
 
 
 
 

さて、話題は戻り、食に対する欲求について思いを馳せたい。
しかし、夏場は食欲が線香花火のように儚く、すぐに消え落ちるということをつらつらと申し上げたいのではない。

前述したが、「食欲」とは「食べたいという欲求」である。
今回はその欲求と私との、普段の駆け引きについてとなる。

 
 
 
  
 
 
人間は何も活動していなくとも、エネルギーを消費する。
それは基礎代謝として計算され、各内臓を動かす原動力等として消耗されるものである。

愚かな人間どもは、静止していても弱っていくのである。
ビバ、哀れ。

そうは言ったものの、それは何も人間に限ったことではなく、生物としての宿命である。
更に、そういえば私も人間だったので、愚かと言った手前、より過剰な愚かさを露呈したことにもなる。

恥ずかしさのあまり、エネルギーが霧散していくのを感じる。
補給のための飯をくれ。
これ以上それらが霧散するのを防ぐために、非難の視線を向けないでくれ。

とにかく!

我々人類は、とかく、お腹がすく。
お腹の虫をなだめる必要が度々ある。

その時、我々はどのような行動をとるべきか。

ほとんどの人類は、食物を食らう。
即ち、お腹の虫の奴隷である。

生物は、腸が本体であるという話もある。
腸以外のパーツ、つまり脳や手足、その他諸々の器官は腸が食物を消化・吸収するための道具である、ということである。

大多数の方々は、それを証明してしまっているのだ。
 
 

しかし、私は違う。
そうはならない。

意地という阿呆の舞を、理論と屁理屈を履き違えた靴で踊るのである。
ピエロは笑みを絶やさない。つまり、私がこの拳を下げることは永遠にないのだ。

 
 
 
阿呆に理屈は通らないことを覚えていてほしい。

私は、お腹が減ったという感覚を覚えると、とりあえず余裕を見せるのだ。
 
 

何を言っているのか分からないという方があれば、それは正しい。
文章にするとひどく滑稽に写ったなと、空を見上げる私がいるためである。
 
 

要するに、お腹の虫の言いなりにはならないという仁王立ちなのである。
 
 

要するに、要せていないのかもしれない。
よく分からんけど。

何かよこせとお腹が鳴く。

私はそれをCOOLに「あ、そうなんだ」と一度右から左に流すのだ。「気が向いたら相手してやる」と余裕をかますのだ。

これが私の言う、奴隷からの解放である。

誤魔化すために思考を加速させ、何か作業に没頭するのだ。

それが返ってお腹の虫をバーサーカーへと変貌させるのだが、闘うと一度決めたからには、引くことはできない。

あくまでも、食事は趣味のようなものだと、食物は全て嗜好品なのだと錯覚し、余裕の姿勢を崩さないように振る舞う。

それが私の闘争である。

 
  
 
  
 
その果て。
2時間だとか3時間だとかの死闘の後。

しかして、私は食べ盛りの人間である。
限界を迎え、泣く泣くお腹の虫に投降する。

だが、これは私の勝利なのである。
すぐに屈しないことが勝ちであると、ひたすらに信仰している。

ごくたまに、ではあるが。

空腹が半周して、空腹の感覚が遥か遠くに霞む時がある。

それは、革命の産声である。

その際、しばしの不健康とともに、私は全能感を得る。

人間を、生物としての本能を超越したのである。
これは、一つ上のステージへの切符である。

それを人々は、どうしようもない敗者だと揶揄するが、覚えているだろうか。

阿呆に理屈は通らない。

 
 
  
 
 
これが、私の食欲との付き合い方である。

あくまでも対等、いやそれ以上を望む私である。

いつか、何かが少しでも報われると信じて。

今日も、いただきます。

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