方向音痴の妙味
この記事において、まず皆々様方に御挨拶しておきたいことは、私は自他共に太鼓判まみれの "方向音痴" であるということである。
数多存在する知人の方向音痴診断スタンプラリーを容易くクリアする、妖怪太鼓判まみれ、その正体が私である。
人によって、その基準点は前後するであろうが、そのいずれの柵をもぶっ飛ばして超越する、日常をこの上なく過ごし辛くする自信が私にはある。
スカウターで測定してもらえば、その戦闘力は「53万」と表示され、地球人の度肝をひょいひょいと、もてあそぶことであろう。
いや、この場合は、設置されているその柵にぶつかることなく、どこか別の場所にいる、とした方が私にとっては正しい。
そもそも、方向音痴とは、なりたくてなるものではない。
勿論、それは周知の事実である。
小学生のなりたい職業ランキングに、方向音痴の字面を拝見したことは一度もない。
それは先天性のものであると、私は信仰している。
生まれつき備わった、並外れた才能が、そうさせるのだ。
もしも輪廻転生があったとして、私が前世で犯した罪はいかほどのものだったのか。どのような十字架を背負えば、こうなってしまうのか。
全貌は未だ分からず、何なら、手に握るこの特質のせいで、真実に向かうことが出来ていないのかもしれない。
しかし、人によっては、何故そこまで方向が分からないのか、と私を責めることもある。
知らん。
何故だかは、私にも分からないのだから。
方向音痴は、道だけでなく、答えにも迷う。
侮ってもらっては困る。
こちとら、生まれてからずっと、こいつと苦楽を共にしてきたのだ。隣にこいつが居座る理由など、とうに忘れた。
別に弁解を論じたい訳ではない。
ここでは、方向音痴として。
数多存在するであろう方向音痴の同胞のために。
方向音痴ではない、つまり、道に迷うことがない皆様に。
迷える子羊達の思考の妙味を、自分のこれまでを振り返りつつ、話していきたいと思う。
何処かに、目的地がある。
誰だってそうだ。
方向音痴だって、口を半開きにして宛てもなく流浪するゾンビではない。
何か辿り着きたい場所があって初めて、歩みを始める。
しかし、まず1つ。
ここで学んでいただきたいのは、方向音痴というものは、目的地の字面をなんとなく眺めただけで、何となくスタートする生き物なのだ。
A地点を目指すとして、根拠もなく、何となく「あそこらへんだろう」もしくは「あそこらへんに違いない」と、踊らされるようにふらふらと靴音を響かせるのである。
我々に必要なのは、確実にそこに近付いているという事実ではない。
早くも目的地を目指し始めたぞ、という空虚な、それこそ宛てのない自慢である。
つまり、神速の勢いで既に躓いている。
常人には、理解できまい。
我々は、貴方達の哲学の範疇の外で、目にも止まらぬスピードで、もう迷い始めている。
そして、更に訪れるものがある。
何となく目的地を描いてスタートしたはいいものの、何処で道を曲がればその景色を拝めるのか、まるで分からないのである。
言いたいことは分かる。分かるのだ。
お前が歩いた方向に、それがあって当然じゃないか。
だって、お前が歩き出したんだから。
至極真っ当な意見。耳が痛い。耳が弾ける。
しかし、我々は「何となくあそこらへんだろう」で進んだはいいが、「あそこらへん」の範囲が市の規模で大きすぎる、もしくは道中で「あそこらへん」の位置がハウルの城のように動き出すのである。
更に言えば、「あそこらへん」と描いた景色はこの世にない。
我々は永遠のドリーマーなのかもしれない。
いつまでも子供の頃に夢見た光景を求め続けているのだ。
無駄口はそこまでにして、方向音痴は究極的に、東西南北どちらに行けば良いのか、3回ほど道を曲がれば分からなくなる。
体内コンパスが狂っているとかの次元ではなく、そもそも置かれていないのだ。
無いものをねだってもしょうがない、と達観の表情が、我々のデフォルトである。
そのくせ。
「待てよ、右辺りにそれがある気がする」
と、別名悪魔の囁きの第六感が無駄に活性化し、エンドレス浮浪者。
土地勘に見放されているにも関わらず、自己の歴史に裏打ちされているはずの "魔が指す" って奴にいつまでもすがっているのだ。
そして、我々に退路はない。
我々は、後退のネジを外してしまっているのだ。
つまり、「何か知らない道に出ちゃったから戻ろう」という意識はまるでない。
その発想が、欠けてしまっている。
道は何処かで繋がっている。
という、 "事実ではあるが、そうじゃない" 信条を、四六時中抱き締めて離さない。
たまに、勘違いしている方がいるが、我々は戻るということを敗北と捉えているのではない。
単に、戻るという選択肢がそもそも実装されていないだけなのだ。
故に、知らない景色に出逢ってしまっても、焦ることは微塵もなく。
「これは、目的地までの別ルートだ」
と解釈し、歩みを止めることはない。
道は無限にあるのだから、目的地までの分岐の1つとして、我々は飲み込んでしまう。初見の大食漢なのだ。
むしろ、こんな道もあったんだな、と感心さえ覚える。
それが正解かも分からない。
しかし、我々には関係ない。
何故なら、意識してまたその道を踏むことはないのだから。
一期一会。
それを強く体現する武者。それが方向音痴である。
そして、極めつけであるが、地図は見ない。
「地図を見ながら歩け」
という人がある。方向音痴であれば、一度は耳にする台詞である。私はこの台詞の聞きすぎで、耳はタコで溢れた。
だが、しかし。
我々は地図を手にすることはない。
地図と対話するのは卑怯である、と怒りに燃える訳ではない。地図という文化が、我々に開化していないのである。
前述の言い方を借りれば、その発想がない。
幾度となく積み上げられた台詞が、染み付いていない。
何故なら、文明開化の音がしたことがないからである。
最近の地図は便利である。
目的地までのルートを示すだけでなく、GPSで同期し、今何処にいるかも正確に把握することが可能だ。
しかし、近代技術の発展は、方向音痴を救うことには至らなかった。
方向音痴は差し伸べられた手を認識出来なかったのである。
衛生も呆れているのに違いない。
毎度毎度、同じ目的地にも関わらず、見込みのない道を放浪し、挙げ句の果てにはそれにすら気付かない我々。
道だけではなく。人生に迷っているという言葉も、間違ってはいないのだろう。
だけど。
我々はあまり悲観しない。
鍛え抜かれた方向音痴は、涙を流さない。
涙など、歩いた名も知らぬ道中で全て渇いて果てた。
方向音痴は、もはや目的地に辿り着かない時間を、同じく行く宛ての分からない風と共に過ごしすぎてしまったがために、怒りも悲しみも消えてしまっている。
地団駄はいつぞやの道の上に。
疑問はいつぞやの木々のざわめきに。
焦りはいつぞやの小鳥達の歌に。
すべては、乗り越えた。
迷いに関しては百戦錬磨。
結局辿り着くかもしれないのだから、面持ちは無敗。
無駄を楽しむ天才。
それが、方向音痴。
遅刻を謝ることに関しては百戦錬磨。
何かもう目的を散歩に変えるから、気持ちは無敗。
無駄に時間を過ごさせる人災。
それが、方向音痴。
知人の皆様、どうか、これからもよしなに。
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