夜好性はもういい、どうか朝を克服させてくれ
私達は結局のところ、朝を征服することが出来ていないのである。
冒頭から、それを正しく証明するように唐突に寝惚けたようなことを述べたのだが、しかし、朝とは私にとって「始まり」である。
物事は、どうやら起承転結から成る。
これが起承転結における「起」として職務を全うするかどうかは、昨今騒がれている多様性の包容力に任せるとして、朝もまた、「起きる」ことによって始まる。
つまり、始まりの始まりがここに成った訳である。
どうか、はっきりと目の覚めるような「起」となることを願おう。
さて、表題の「朝を克服する」とはどういうことか。
私は朝から活力漲る食事を提案していただきたい訳でも、ましてや、すっきりとして目覚めを約束する寝具を観て回りたい訳でもない。
しかし、私達は朝に対して、あまりにも脆弱過ぎやしないだろうか。
朝の魔力に人類が抗えないことは、津々浦々、海すら飛び越えて、地球規模で散々と議論が重ねられてきたことだろう。
私はこれに対して疑いの余地すらなく、むしろ狂信的な信奉者である。朝には勝てまい。蛮勇を繰り返す気力もない。
従って、私の目的とする着陸地点はそこではない。
「夜好性はもういい」この部分にこそある。
「夜好性」とは何ぞや。
これは私が産み落とした単語でもなければ、広辞苑に滔々と語られている言葉でもない。
一般に、「YOASOBI」、「ずっと真夜中でいいのに。」、「ヨルシカ」などの、「夜」の名前を冠するアーティストのファンのことを指すとされている。
「夜を好む者達」、という訳である。
それぞれ異なる魅力に溢れており、また、共通して素晴らしいアーティストであることは、ここで語るまでもないであろう。
この文章の本意は、そこにはない。
むしろ、よくもやってくれたな、ということである。
この3組が代表して描き出した、様々な色を持つ「夜」に私達は魅せられ過ぎてはいないか。
つまり。
「夜」だけが。
「夜」こそが。
私達の側で一緒に歌ってくれる存在だと、そう、感じてきてはいないだろうか。
ここで、はっきりとこの文章の立場を示しておく。
私達は「夜」の鮮やかさをまざまざと見せつけられ、相対的に、朝の魅力が更に分からなくなってきてはいないか、ということである。
あれ、朝には何があるんだっけ、である。
夜は事象の輪郭、また、物と物の、更には者と者の境界線が薄くなる。
故に世界を大きく感じるようになり、自分の小ささに嫌気が差したり、曖昧さが強調され、自分が分からなくなったりする。
しかし、「夜」は手を差しのべた。
暗いだけの「夜」は終焉を迎えたのである。
「夜の夜明け」と評するとしよう。
そうすると、その光は些か眩しすぎた。
眩しすぎて、朝に消極的ながらも立ち向かおうとした気力すら焼き捨てたのである。
それこそ、ずっと真夜中でいいのにってなっちゃったのである。
なっちゃったら、ヨルシカ優しくないじゃんってなって、YOASOBIに奔走しちゃうのである。
おいおい。
誰が朝を救ってくれるんだい。
鼓膜を殴り付ける目覚まし時計。
網膜を焦土へと変えるカーテンから差す日光。
開かない目蓋に、進まない足取り。
昨日の自分からの処理できなかった置き土産。
多勢に無勢。
相手が悪すぎる。
こちら、徒手空拳のみ。
境遇が悪すぎる。
いや、朝とは以前からそういうものだった。
元来、朝とは始動の時間であり、億劫に感じることは往々にして仕方がない。
しかし、「夜」との落差が強調され過ぎた。
これは、「夜」に生きるアーティスト達の輝かしい功績であり、また、朝に影を落とした大罪とも取れよう。
「夜」の讃美歌は絶やさないと誓おう。
だが、どうか。
誰か、どうにか。
夜好性はもういい、どうか朝を克服させてくれ。
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