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信頼も信用もやる気も努力も幸せも不平等である


この文章は極めて心の弱い文章である

この世にいる成功者がこの文章を読んだら
「何をしみったれたことを言っているのか」
と言われるだろうと思うし、普通に生活を営んでいる方からしても、
「行動するしかないじゃないか」
「手近なところから始めるしかないではないか」

とおっしゃられるものと思うし、自分自身、努力によって環境を変えた経験が幾度とあり、実際に支援系の活動をしていたこともあるため、それらの重要性については僕も同意します。

でも、
自分にとっては色々なことが分不相応であり、背伸びし続けると疲れてしまうのです。

そうした不平等は、何の因果か僕の身に降りかかっているし、あなたの身にも降りかかっていることだろうと思います。

僕がこの文章で言いたいことは、そうした疲れる環境からどんどん降りていってみると、最終的に「格差という天秤」の下がっている方にだらりともたれかかっているということです。

解決策がこの文章の中で明かされるかは分かりません。一切皆苦と思って、踏ん張り続けるしかないということになるのかもしれないし、一億総生活保護を目指しましょうというとんでもない結論になるかも分かりません。
ただそういうしみったれた文章を書こうと思い立ってパソコンの前に座っているということをお伝えしないといけないだろうと思ったということです。

不平等

世の中は、極めて不平等であると思います。
それは「できる」ということが偉い世の中だから。
どんなことでも「できる」方が偉い。そして、「できる」ことは極めて不平等です。その原因の中でも最も不平等であるのは身体性だと思います。障害を持っておられる方の場合は言わずもがなであり、他にも病気の影響で「できる」ことは、身体科的でも、精神科的でも制限される。他にも「体力」「ストレス耐性」「性格」「好きなもの」「経済状況」「人間関係」さまざまなものに影響を受けます。人間関係や経済状況は、直接その人の行動を制限するだけでなく、それらがさらに心の体力だとかに影響を与えてしまうのです。

そう考えると、Youtubeでよく見る世の中の成功者たちと自分との違いを探すことは非常に簡単で、
自分にはできないことや耐えられないことが、彼らは屁とも思っていない場合をたくさん見つけることができます。
もう少し視座を下げてみても、ピカピカ就活生の面接動画は僕とは違うし、転職系の動画なんかをみてみても、自分とは違う世界が広がっている。
さらに視座を下げると、失敗談を話した後に、自分はそこから立ち直りましたという人が出てくる。それも、自分にできるかわからないと思ってしまうし。
そこからvlogで鬱屈とした日常を綴っている動画を見てみると、鬱屈としていながらも、自分にはない体力を持っている人もいれば、この生活ならできるかもと思うことも出てくる。しかし、そこまでいくと給料は明確に下がっているし、投稿者も若い人が多いです。そこに映し出されない高齢者や中高年は一体どこにいったのだろうと思う一方で、動画を出してくれている人もいるが、もちろん格差に手をかけてしまっています。

ただ動画を眺めるだけでもこんなふうに、「できないこと」に基づいて勝手に自分の適正年収をはかれてしまうし、そうこうしていると、転職系のチャンネルやらnewspicsやらから、そんな「できない僕」を煽る文言が飛び交ってきます。

信頼、信用、やる気、努力の不平等性

その中でも、勘違いしやすい言葉というのがあるなと思います。
「結局ビジネスは信頼やら信用が大事だよ。」
だとか
「努力」「やる気」
と言った言葉です。
どちらも格差を否定する言葉のように思えます。
弱者でも努力や信頼があれば大丈夫!みたいな。
でも本当は
格差そのものを表す言葉だと思います。

例えば
ビジネス上の信頼や信用は、決してあなたが「いい人」であるかということではありません
あなたが期日までに十分なクオリティの仕事を終わらせているか、もっと言えば、仕事ができる人間かということです。
さらに言えば、こうした信頼や信用は、やる気や努力によっても図られるわけですが、こうしたやる気も努力も、「心のエネルギー」がなければ発生しません。特に、ハードワークや経済的に上位の職種ほど、やる気や努力のハードルが高いと感じます。
やる気がある人というのは、本当にやる気があるし、そのやる気が持続します。努力ができる人は、努力を努力と思わない場合もありますが、努力を努力としてし続けても壊れない体と心を持っています。

多くの人は、これらの言葉「信頼」「信用」「やる気」「努力」を必要なものとしてあげますし、それは結果を出すにはその通りだと思います。ただ、前提として、それが発揮できる人と発揮できない人がいることが勘案されていない場合も多く、そこに思い至るのは、これらの言葉に違和感を抱いた圧倒的な弱者たちなのではないでしょうか。

そう考えてみると、信頼も信用も、やる気も努力もある程度生まれ持ったものや、環境を含めた個性によって規定されると考えざるを得ないと思います。

ワークライフバランスを考えたい人が増える背景

新卒の方の意識調査を3.5万人相手に行ったマイナビのweb調査では
1位 楽しく働きたい
2位 ワークライフバランス

です。しかもこの傾向は10年前からほとんど変わっていないというのも驚きです。では、ワークライフバランスを考える人がどうしてこんなにずっと多いのかということを考えたいと思いますが、個人的には、
「できる」に疲れている人が「できる」人たちが想定するよりとんでもない数いるということではないか
と思います。
1位の楽しく働きたいというのも、非常に抽象的であり、ガツガツ働きたいのか、ホワイトでぬくぬくゆったり楽しくなのかわかりませんから、2位がワークライフバランスであることは大きなデータであると感じます。

マイナビ2023卒対象とした調査

例えば、
「私は、ライフを充実させたいタイプなんですよね」という人がいたとして、その内訳には、ハードワークが無理な人もいれば、心がしんどくなりやすい人も、心のエネルギーが少ない人も、単純にワークが嫌いな人も、ライフが好きな人もいると思います。ここに書いただけでも数パターンありますが、ポジティブな選択は1つだけです。ポジティブな選択も背景にはネガティブな理由があることも忘れてはいけないと思います。

また単純に、ネガティブな理由が多い理由として
別に嫌でないなら稼いだほうが得」だからということが考えられると思います。
ライフとワークが同じくらいの嫌さならワークの方が投下時間も多く、経済的報酬も得られるのだからワークを選んだ方が良いはずです。みんなどこかに嫌さを抱えているからライフを選択するのだと思います。

そう思うと、経済的に生き抜くということが向いていると思う人はそんなに多くないのかなと思ったりします。

元も子もないけど、心が強くて体が強いのが最強

そもそも資本主義の前からそうかもしれませんが、世の中を生き抜くのには、どうしても向いている人と向いていない人が発生してくるでしょうし、僕みたいな人間が急に戦場に放り込まれても、生きて帰れるなどとは思いません。でも戦場で活躍できる人は、今の時代であるならば経済的にもかなり活躍できるという不平等もある気がします。結局体が強くて心が強い人が最強です。

体の出来、心の出来、ここには経済的な格差を生み出す不平等があると思います。
そこからあぶれた僕のような人間は、結局格差の方へと流れていくしかありません。

確かにこれらは先天的な要素と環境的な要素は極めて大きいと思います。疫学的な調査だとそう言ったことが明らかになっていて、それにもとづく前から法制度は社会的弱者を救済するために作られていることを引き合いに出して、環境とか、先天性のせいであるから僕たちを守れと金を配れと言いたいわけではありません。
昔はそう言ったことを思ったこともありましたが、今は疲れました。それで解決する苦しみなのかも正直わかりません。

ただなんというか、「こんなにもできないということは辛いのだ」ということを叫びたくなってしまったのです。

どうしたらいいか超雑案

ではどうしたら良いのでしょうか。
身の丈にあった生活によって幸せに生きること
も大事でしょうし、結局のところ「できる」が偉い世の中では
自分の中で「できる」ことを見つけ出すこと
も大事になってしまうでしょう。
例えば、できないことが多いのならば、できないができるわけですから、できないことを発信してみるとか。とにかく何らかの方策を講じていくしかないように思います。

邪魔になるもの=失敗できないこと

そこで邪魔になることがいくつかあるのかなと思っています。
それは、自分の今の立ち位置です。
これによって失敗が怖くなりますし、年齢による失敗の取り返しのつかなさもまた失敗を怖くさせます。
なんとかなるという言葉もおそらく正しいと思いますが、自分にとってのモデルケースがわからないことも多いです。

失敗が許されるのは起業家だけでは?

今の世の中、失敗恐れずにチャレンジすることが求められていて、失敗はいいことだと受け止められると、ビジネス系メディアでは言われていますが、僕は現状それは「起業」やそれに類するもののみの話になっていると思います。
社長が失敗を恐れずにチャレンジしようと言っているその相手は、僕のような、ここの職場も合わなかった、ここもダメだった。と右往左往する弱者を相手にしているわけではなく、何か良いアイデアを多大な努力によって成し遂げることができる、生気に満ち溢れた若者に対して言っているのです。

社長という人たちは、僕たちのような人間を決して掬い上げるということを考えいないと思います。
できるだけコストのかからない方法で幸せになってもらうということを考えている気がします。
でも僕たちもいっぱしの人間として、いろんな失敗をして、それでもやり直して前に進んでいきたいわけです。そんな労働者のトライアンドエラーを多めにみる世の中になったら良いなと思います。ただ、労働者レベルの失敗を受け止めてくれる優しい企業に巡り会あえるのかが現実的な問題です。

どうしたらいいねん

どうしたらいいんでしょうか。「できるゲーム」は、みんなの機能が同じにならない限りは終わらない気がします。それは、資本主義の終わりよりもよっぽど長続きしそうなルールである気がします。
世の中の皆さんはどう生きているのでしょうか。この不平等の中で資本主義のゲームを戦うほど、僕は心が強くありません。なるべく世界の端で楽しく生きていけたらいいなとは思っていますが、希望も捨てたくないなって思っています。

僕はできない人たちこそ、人生を肯定する営みをたくさんしていると思っています。できないから、カラオケでストレス発散したり、動画をたくさんみたり、タバコを吸ったり色々するわけで。そこには、意味のないものに金を払うという営みがあると思います。意味のないもので笑ったり、落ち着いたり、楽しんだりすることで、僕たちは、意味のあることだけが意味のあることではないんだと思えると思います。できない人たちだからこそ気づけること。できない人たちだから、優しくできること。できない人たちだから作れる世界。できない人たちだから楽しめる娯楽。もっと言えば僕だから生きられる人生を欲しているのだと思います。
僕もできない人間の一人として、どうしたらできない人生を楽しめるのか、できない人生を使ってこの残酷な不平等が愛に変わっていくのか、試行錯誤できたらと思います。




めちゃ雑魚あとがき

文章を書き終わって、なんだか少しだけ頑張ってみようという気持ちになりました。成果というよりも、生活。生活にはたくさん愛があると思います。どこかでどんな形であれ、かけがえのない出会いが、愛が訪れることを本気で信じて、そのために少しずつ表現したり行動したり、していきたいです。




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