すずめ

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早起き・読書・朗読・ウクレレ・着物が好き。 放課後等デイサービスで小学生〜高校生の子どもたちを支援する仕事をしています。

最近の記事

沸き返る感情

ひとときの中に 凝縮された時間 まるで恋のように 突き動かされる感情 涙も大笑いも寂しさも愚かさも 自分を超えたところから与えられる力を 味わい尽くした時間 事柄を追えば ただの出来事の羅列 そんなものか、、、たちまち 取るに足らないこととなってしまう 伝わりきらないあの感触 自分だけが見た景色 思わされたものがある。 その行間に 空間に あるものをあらわしたい

    • 星野富弘「風の旅」 〜本とのこと③〜

      星野富弘さんの詩画集「風の旅」。 中でもずっと大切にしてきたのが 「二番目に言いたいこと」という詩である。  この詩に出会ったのは二十歳の頃だった。 その頃の私は、見た目には普通に人付き合いをしていたが 自分は人に期待されることを言っているだけなのではないか、 そもそも、私の本当の思いとはどこにあるのだろう・・・と答えの出ない むなしい思いを抱えていた。 そんなときに読んだこの詩は、いつも感じているもどかしさを言い得ているようだった。 私はこれでいいんだ、と思えるように

      • どっちが座っとんねん

        母親から連絡があって、 検査の結果が少しよくなかったようだ、自分は話がよくわからないから詳しいことを聞いてきてほしい、とのこと。 しかしそう言いながらも、結局は自分も行きたい母である。 一緒にかかりつけのお医者さんへ行き、診察室に入る。 話聞く気満々の私は、うっかり先生の正面のマル椅子に。 すかさず先生、 「こら、どっちが座っとんねん!」笑 ほんまや! 病人の母のほうが、立ってるやん。 診察室、大爆笑。 「・・・シューッと来て、さっさと座るから〜。笑うわー。」

        • 私にできることは、もはや正直であることだけ

          facebookやインスタやnote・・・生活の中の、切り離せない一部になっているSNS。 追われてるな〜と思うことも正直ある。 でも! 切り離せないなら、追われるより、ぐん!と走ってみたら、景色が変わる気がして noteの100日チャレンジを始めた。 でも始めてみたら、書けない自分に出会った。 書くことがない。書いても人さまに読んでもらうような内容じゃない。などなど。 人さまって。自分は何様なんだ・笑 さっき、ふわんと出てきたフレーズが、それでも書いて書いて書きまくるってい

        沸き返る感情

          「遺伝子の旅」にふるえた。

          私たちは宇宙のひとかけらなのだ。 この言葉を村上和雄先生の本で読んだときの感動を思い出す。 ああ、「自分も」そうなんだなって。 でも、「私たち」なんだ。 この動画を友だちにシェアしてもらって ブルブルッと私の中のなにかが震えました。 「DNAの旅」(2016年 5分 日本語字幕つき) [制作] モ・モンド旅行社 [日本語字幕] イルコモンズ 「人びとを結びつけているものよりも、人びとを分断しているものを思いうかべることの方が簡単です。でも私たちは、思っているよりも

          「遺伝子の旅」にふるえた。

          50代とnote

          noteを書いている人は20代〜30代の方が多く、40代はぐっと減って50代はさらに少ないだろう。 なぜ年代のことを思ったかというと 今日、たまたまNHK BSをつけたときに 「定年女子」というドラマの再放送をしていて 見るつもりでもなかったのに つい2話連続見てしまい、 しみじみ自分の年齢について考えたからである。 2017年にNHKで放送されていた8話完結のドラマのようで 南果歩演じる53歳の女性が主人公である。 その大学時代の同級生4人組ももちろん同い年、それぞれ

          50代とnote

          真面目が趣味なので。

          なんだかんだ言って、真面目である。 「ま、いいかー」と言いながらも 真面目だから、いつも肩に力が入っていた。 先日、6〜7年ぶりに会った人に 「あれ?こんな感じだったっけ? 軽くなったね?」 と言われた。 私、重かったのか! でもたしかにそうかも。 どんなにニコニコして優しそうな人でも、重い人、いやだなー 笑! だんだん、軽くなっている。 喜びが増している。 真面目なので、まだちょっと重さはあるけど 今は、重いなー、肩に力が入ってるなーと感じられる。 つい深刻になっ

          真面目が趣味なので。

          第一夜を読む

          ■朗読の、次の練習課題を何にするか。 夏目漱石の夢十夜より、「第一夜」か、葉山嘉樹の「セメント樽の中の手紙」か。 下読みしてみたがどちらも読み応えあり、むずかしい。先生と相談し、迷った末夏目漱石のほうにした。7月初旬の朗読会が目標だ。 夢の中であることを感じさせる表現。 息が続かない。練習、練習。 普段の練習できていないのであまり上達しないが、レッスンを受けることだけはサボらずに続けられている。忙しくても続けられているのはオンラインになったおかげでもある。上達しなくても熱

          第一夜を読む

          「1」で生きる。

          数秘術という占いがある。 生年月日をもとに、その人の、生まれながらの魂の方向性を示すようなものだそうだ。 
 人生の終盤には、チャレンジナンバーというのがあるらしく
、それが私の場合は「1」とのこと。 
 「1」は、自我や意思を強く表すリーダーの数字ということで
 「え、私、それはないなあ」と思ったのだが、 
 チャレンジナンバーというのは、私の本質というよりは、
 人生において最後に取り組む課題で
 むしろ苦手と考えていることが多いそうなのだ。 
だから、それはないな〜、

          「1」で生きる。

          母の日に。

          息子が母の日のお花を送ってくれた。 息子が家を出て10年になるが、初めてのことだ。 3月に結婚した息子。お嫁さんをもらうと、こんなことも気がつくようになるんだなー。 お嫁さんが選んでくれたのかしら。 おしゃれなアレンジメントに心がなごむ。 嬉しい。 結婚以来、義母に母の日のお花をずっと送っていた。 義母も、こんなふうに喜んでくれていたんだなあと 初めて義母の気持ちがわかった気がする。 3年前に亡くなった義母。 天国で義父と一緒に、息子の結婚をきっと大喜びしてくれているに

          母の日に。

          振りきってみる。

          「人のことは考えず、自分のことだけ考える練習をする。人の役には立たない・人の期待には応えない、自分だけが喜べることをやっていく、というほうへ振り切っていくこと」 というアドバイスを受けたことがある。 それまでの私は、 「人のお役に立ちたい風に見えるかもしれないけど、これでも案外自分のしたいように、好きに生きているんです。」 と、正直なフリにハマっていて 本当の本当は、本来の自分を生きられていないという二重構造があったんだ!と気付かされた。 周囲の人の目を気にしているとい

          振りきってみる。

          言いきってみる

          ■昨日、「有名になりたい」というタイトルで記事を書いた。 何をしたい、というわけじゃなくて 有名になりたい、なんて 「何言ってんの?」というものであるが そういう思いが自分の中にあって そこを言い切ってみると、抵抗する自分に出会えたり ちょっと気持ちよかったり、おもしろいなあと感じた。 ああも言えるし、こうも言えるし、と色々な見方をしてやんわりグレーにしておくのはラクだが そういうのはもう散々やってきたのだ。 言い切って初めて始まるんだなー。 ■今までバスと電車を乗り継

          言いきってみる

          有名になりたい!?

          社会的に活躍している人に対して 勝手にコンプレックスを持っている。 例えば、○○を経て、現在、○○として活躍。みたいな肩書きのある人に。 自分が何事もなし得ていないというコンプレックス。 社会的に活躍していなくても 私という人間の価値がなくなるわけでもなんでもないのに なぜか、誰と勝負するわけでもない敗北感が 私の胸に広がってくる。 このことは、長年、私がどうしようもなく抱えてきた感情で だからといって 何の新しい一歩を踏み出すわけでもなかった。 子ども二人を育て、

          有名になりたい!?

          本1冊も読み終えないまま連休がおわる

          ■「着物の国のはてな」というエッセイを読んでいる。その中に、飛鳥時代から現代に至るまでの着物の変遷について書かれてあって、興味深かった。服装は時代とともに変わる。ファッションに取り立てて詳しいわけでも、おしゃれなわけでもないが、服装を知ることは、その時代を生きた女性たちの(男性もそうだけど)、日常が伝わってくるようでおもしろい。  著者の着物に対する目線が楽しくて、自由に、どんどん着物を着たい気持ちが湧いてくるエッセイである。 ■夫の何気ない一言に腹をたてている自分がいる。

          本1冊も読み終えないまま連休がおわる

          紅茶を淹れてひと仕事。

          気持ちのいい朝。 どうしても家では仕事ができないので 職場に来てしまった。 リモートワークが増えているが(うちの夫もそう) 仕事に集中できるようになるのは、慣れなのだろうか。 ひとりならまだしも、家族がいると気になってしまう。 夫のためにも、普段私が仕事で留守なのは、いいことなのかも。 誰もいない職場はなんだか快適だ。 いつもは気が付かない、鳥の声が聞こえる。 緊急事態宣言下のGWで、外も静かなんだな。 お湯を沸かしてティーパックの紅茶を淹れて。 ホッとする。ひとりにな

          紅茶を淹れてひと仕事。

          亡き父が見せてくれたもの。

          ふと、ある映像が浮かんだ。 それは、こっちを向いて嬉しそうに笑っている子どもの頃の私、 花嫁衣装を着ている私、 母になって息子を抱いている私。 それは、私を見る父の目線だった。 最愛の父が今年の1月に亡くなった。 1ヶ月以上入院していたのだが 感染予防のため病棟はシャットアウトされていて 一度も会えなかった。 いよいよの時にはご連絡します、と言われていたが 母と妹と私が駆けつけたときには もう息を引き取っていた。 最期のときまでずっとひとりで、寂しかっただろうと 家族で

          亡き父が見せてくれたもの。