牢村

文学部/音楽と歴史と夜が好き

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【短編】蜃気楼

どれくらい眠っていただろう。煌々と照りつける太陽を半身に受け、冷やかな夜を潜った肉体に再び血が通い始めた。母の腕は未だ、私を包んでいた。汗の溶けた潮風が砂をべたつかせ、肌に纏わりついている。私は昨夜、罪を犯した。 ほの暗い海辺に微かな月光が垂れていた。皆は寝静まっているようだった。荒屋をひとり抜け出して、漁村の外れにある墓地まで、虫のさざめく泥濘みの雑木林を踏みしめた。 生前の母は美しかった。柔らかく耳をくすぐる声が大好きだった。死体を掘り起こしながら、その

    • 【短編】鯨落

      【龍涎香(英: Ambergris)】…ベアソールの一種で抹香鯨の腸内に不明の原因により生じる結石。病的分泌物。香料として高値で取引される。 画材屋の匂いはどうしてか、いつも懐かしく鼻を抜ける。時折軋む床の板材には色の剥げた跡がいくつかあり、落書きだらけの塗り壁と共に老舗らしい風情を広げている。店の中央では、まるで脊椎だと言わんばかりにどっしりと構えたブナの樹が天井を貫いており、無数に伸びたその枝から古惚けた灯籠を垂らしている。切れた絵の具を買い足しにきただけであった

      • 【手記#5】似非・認知シャッフル睡眠法

        認知シャッフル睡眠法とは、カナダの認知科学者リュック・ボードウィン博士によって考案された、脈絡のない単語の羅列により脳の活動を停止させるという睡眠導入方法です。この記事では、その形に準えつつ、僕の好きな単語を思いついた順に羅列していこうと思います。共通の好きを探しながら読んでいただけたら嬉しいです。 ヒートテック 裏拍 暖房便座 フレンチクルーラー 24時間営業 齧歯類 白スニーカー 掘り炬燵 ピョートル1世 衝動買い 缶ジュース オンデマンド講義

        • 【手記#4】「他己肯定感」から見る「自己」考察

          「自己肯定感」という言葉は、一見すると「自己」+「肯定」+「感」に分解でき、この時「自己」は【似た意味をもつ漢字の組み合わせからなる熟語】と捉えられるように感じる(豊富、禁止、道路等と同様)。しかし、SNS等でしばしば散見される「他己肯定感」という言葉を(単なる「自己肯定感」を捩った言い回しではないと断定して)踏まえると、解釈に不都合が生じる。なぜなら、「他己」は更に「他」+「己」に分解する必要があり、「他」による「己」への「肯定」+「感」と見るほかないからだ。つまり「自

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        【短編】蜃気楼

          【短編】回帰

          灰が舞ったセピアに、墨を引いたような地平線。たった4時間の冷たい夜がまた、その気配を届かせる。貪り尽くした地球を乗り捨て、数ある太陽系コロニーに離散、疎開した人類は、とうとう宇宙人というわけだ。22世紀中葉、米中の熾烈な宇宙開発競争が先導の旗印となり、科学や理工学はその体系の毛細血管まで爆発的な急成長を遂げた。生活や社会はその過程、目紛しく変貌を重ねた。ついに旧時代の痕跡ごと置き去りにした今、ここにある景色は違和感を丸ごと塗り隠すように整然と横たわっている。画一化された管

          【短編】回帰

          【手記#3】徹夜

          微睡む横目で眺める時計の秒針が随分とゆったり廻るだけに、目が醒めた時の感覚はタイムスリップに近い。それゆえ、眠れず明かす夜、窓際がだんだんと白んでゆく様子を見て、毎日当たり前に存在する筈の夜を、どこか新鮮に暴く。そこにある確かな時間を、なぞるように。些細な後悔を携え、次第に重くなる意識とせめぎ合いながら。

          【手記#3】徹夜

          【短編】屈折

          エプロンを纏う時。それは己を偽る時だ。表情筋を吊り上げて、喉のピッチを強く捻る。背筋をぴしゃりと貫く。そして、笑顔の仮面をつける。 褪せた踏切が下り、寒色の空に轟音を運ぶ。風圧に髪が靡く。緩やかな勾配。一歩。また一歩。ひび割れたコンクリートに萎れた雑草を見た。住宅街を抜ける空気は今日も冷たい。安物のイヤホンを強く挿して、主婦がベビーカーを転がす音や、向こうで響く救急車のサイレンから身体を切り離す。雨粒が頬を掠めた気がした。 殺風景な控え室には、上階に出てい

          【短編】屈折

          【短編】6分の街

          【あと5分で着く!】 改札を抜けてくるのに2分。であれば7分か。 いつからここに立っていただろう。 1時間前くらいじゃないか? 随分前に炎を乗せ、じりじりと溶けていた無限の蝋燭に、ようやく寿命が設けられた。火を守りながらゆっくりと折り、燭台に刺し直す手は、このしばらくの静止によってすっかり冷えていた。乾燥した掌と甲を擦るとさらさらと薄い音が鳴る。不思議と待ち遠しさが込み上げた。 そんなもの、ここに立つ前から抱えていた筈だろう? 右から左、左から右、奥から手前、後ろか

          【短編】6分の街

          23,04,01雑感

          日の出から正午の太陽熱をどっぷりと溜め込んだ塒がいい加減蒸し暑く、目が覚め、毛布にも汗を吸わせたくないし、さっさと起き上がった。数日家を空けていたこともあり、換気のために今朝は珍しくカーテンを開けた。網戸を通して窓辺から、向かいの庭に落ちた光を見て、春が来ていると気付いた。ハチ公広場に注ぐ桜や、真新しい制服の子供が母親の袖を追うのを見かけるよりも、それはくっきりと春を告げるのだ。去年越したばかりの一室は、すっかり身に馴染んでしまったらしい。また小春日和は隠れ蓑に、白熱電球

          23,04,01雑感

          【短編】風景画

          カチャ、カチャ… 指先で茶器が触れ合い、小気味良い音を耳に届ける。細く開いた窓から滑り込む春風。ひらひらと揺らめくカーテンの向こうにはずっと変わらない長閑な田園が広がる。そして、窓枠の世界を塞ぐかのように、その絵画は立ててある。 「カモミールティーです。熱いのでお気をつけて。」 「どうもありがとう。」 婦人のか細い手がそれを受け取る。入念に吹きかける息が、細やかな波を立てる。そしてひと口啜り、そっと花瓶の隣に置く。 「窓を閉めましょうか?」 「いいえ、結構よ

          【短編】風景画

          【手記#2】カエルの交尾

          こんにちは、牢村です。 テーマを見て苦手と感じた方はブラウザバックしてください。 カエルの胚を用いた実験はご存知ですか?高校生物の図説を眺めていた時、アフリカツメガエルの初期胚を用いて器官形成の経過を観察する実験が目に留まりました。と言っても僕は理系に暗い上学習熱心でもなかったため、引き付けられたのは実験そのものではなく、その手順説明でした。 ①雌雄のアフリカツメガエルにそれぞれホルモンを注射する。 ②蓋を閉めたバケツに1日放置すると、受精卵ができている。 ③… 初めて

          【手記#2】カエルの交尾

          【短編】酔眼

          月の見えない夜だった。公園を包もうとする静寂を、薄寒い木枯らしが柔らかく破る。飲みかけの缶チューハイで仄かに火照る彼女の頬は、液晶の青白い光を斜めに浴びて、高い鼻筋の影を落としていた。髪をかき上げる仕草に不意を突かれ、僕は明後日へ目線を逃がした。街灯が不規則に点滅し、羽虫の気を引いている。彼女はずっと俯いて、指先を動かしていた。そして時々、口元が緩んだ。それ以外は変化のない景色が、暫く続いた。 「部屋戻ろうよ」 立ち上がって彼女が言った。僅かに残ったハイボールを缶

          【短編】酔眼

          【手記#1】自己紹介と作品

          こんにちは。 普段は短編小説を投稿しているのですが、軽く自己紹介をしてみようと思い、教授の目を盗んで液晶を叩いています。 名前は「牢村」と書きます。音読みで「ロウソン」と呼ばれることが多いですが、苗字っぽくするなら訓読みで「かたむら」ですね。決まった読み方はありません。というのも、この「牢村」という自称は、友人にもらった「ロム」という名前に合わせた重箱読みの当て字だからです。地元の片田舎らしい閉鎖感が割と気に入ったので、ユーザーネームに迷った時はよくこれを使います。「ロウ

          【手記#1】自己紹介と作品

          【短編】夙夜

          鳶が飛んでいる。橙色の空である。土埃臭い畦道を囃す虫たちにも、熱帯夜の気配が訪れていた。俺は来月、二〇歳になる。そんなことを考えた。なつかしさという感情は、不思議なものである。一昨日親指を捻った痣は、馬鹿らしく今も腫れてやがる。昔あんなに痛くて引っこ抜いた奥歯は、今はもうなんともない。昨日の朝何を食ったかもすぐ思い出せやしないのに、妙なことばかり覚えているものだ。流行り歌の薄っぺらい文言や、真っ赤になった親父の形相は、いつも思い出せる。同じ夢を何度も見る。夢のあらすじはぼ

          【短編】夙夜

          【短編】閉扉

          道化のような影を引き摺り、宵街を蠢き歩く男があった。談笑に耽る女郎、路肩で腹を見せる浮浪者や蚤を掻く野良犬などは、嗚呼飲んだくれの千鳥足だと、少しばかりの瞥をくれてやったあとは、なんともない。しかし、この男は頓痴気な酔っ払いでもなければ、道を知らぬ余所者といった具合でもない。ぼんやりとしているが、何処か覚束ない様子で、眩そうに街灯を避け、すれ違う肩を暴れるように躱してゆくのである。程なくして男の姿は、雑踏の奥へと遠のいていった。 独房は心地がよかった。丸めた腰を

          【短編】閉扉

          【短編】断頭台

          歯医者は嫌いだ。薬品めいた空気、胡散臭い小綺麗さ、そして甲高いドリルの音。物腰の柔らかい歯科衛生士が思いがけぬ力強さで顎を抑え、為す術なく子供が泣き喚く。なんとも不憫である。そんな様子をぼんやり眺めているうちに、私の執行猶予が終わったらしい。看守が名前を呼ぶ。幅の広い台座はクッションがやたらと硬く、どうもしっくりこない。そのまま仰向けにされ、私は放置される。真上に構えられた大仰なライトがやや傾いていることも、むず痒い不調和にひと役買っていた。クリーム色の天井には黒い斑点

          【短編】断頭台