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【短編】鯨落

【龍涎香(英: Ambergris)】…ベアソールの一種で抹香鯨の腸内に不明の原因により生じる結石。病的分泌物。香料として高値で取引される。


  画材屋の匂いはどうしてか、いつも懐かしく鼻を抜ける。時折軋む床の板材には色の剥げた跡がいくつかあり、落書きだらけの塗り壁と共に老舗らしい風情を広げている。店の中央では、まるで脊椎だと言わんばかりにどっしりと構えたブナの樹が天井を貫いており、無数に伸びたその枝から古惚けた灯籠を垂らしている。切れた絵の具を買い足しにきただけであったが、あれこれ物色していたらすっかり時間が経っていた。城下の街角にあるこの店は小ぢんまりとしている割に品揃えがよく、度々足を運んでいるうちに店番の猫にも懐かれた。彼女はちょうど今、筆立てを器用に避けながら玄関口へ歩いている。差し込む日差しで黒い毛並みが暖かく輝く。早くアトリエへ戻って絵を進めなければ。裏にいた長髭の店主にひと声かけて、代金を置き、外へ出た。

  昼前に少しだけ降った雨は、並木通りの裾に水溜りを作り、ひび割れた煉瓦道の凹凸を教えてくれた。雑貨商や宝石屋の品々が細々と煌めく広場をぐるりと回り、客寄せ文句や阿漕な目配せの飛び交う石畳の小道をまっすぐ抜ける。行き交う雑踏を躱しながら、彼らの与太話を少しずつ聴き齧ってみたりする。喧騒の活気が馴染む麗日らしく、足取りも軽やかだ。

  アトリエに着き扉を開けると、集まっていた面々は一斉に顔を上げ、おかえりとか遅かったねとか言った後、また各々の作品をしばらく見つめ直し、それぞれ作業が一区切りしたところでちょろちょろと集まってきた。
「制作は順調かい。」
「まあまあかな。月末の祭典までにはなんとかするよ。」
「いい作品が描けるといいな。お父さんもきっと喜ぶ。」
「ありがとう。お互いにね。」
  このアトリエは集合住宅と併設で、書類上は私の父が所有している。しかし、王室専属の画家として雇われ宮廷に住み込んでいる父は、もうここに顔を出さない。ここ数年は連絡のひとつも届かない。そういう訳で、住民の皆よりも少し若い私が事実上の大家をしている。アトリエの兄姉達はよく、幼かった私の面倒を見てくれた。彼らとはもはや家族にも似た間柄だ。私は当時から父を真似て石膏デッサンをしたり、端材と粘土で馬の人形を作ったりして遊んでいた。物心ついてからは専ら油絵ばかり描いているが、やはり父と同じこの筆を選んでしまうのは憧れの形をした呪いなのかもしれない。父は偉大な画家だ。私はずっと、積み上がったキャンバスのなかに父の背中を見てきた。ここに住む皆もそれは同じだった。若い頃の父の作品は壁面を埋め尽くしてもなお足りず、使われていない倉庫に数多積み上がっているが、それらひとつひとつが確かに、見る者を突き動かすのだ。ここにいるのは誰もが、そうやって父の世界に心臓を掴まれた者達だ。もはや風景と化した埃まみれの父の残り香が、寂しげなアトリエには充満している。寧ろ空間それ自体が、父の痕跡によって作られている心地さえするのだ。新しい絵の具の栓を開け、今日もまた、強く筆を握り込む。

「今度は何を描いているの。」
「骨だよ。」
「それは見れば分かるわ。何の骨かってことよ。」
「鯨の骨。鯨骨生物群集って聞いたことあるかな。」
「ないわ。」
「じゃあ教えてあげる。」
「聞かせて。」
  いつの間にかアトリエには私達だけになっていた。
「死んだ鯨は、深い海の底に落ちるんだ。遠く静かな闇の中だよ。それで、沈降した肉塊は鮫や深海魚なんかに脂肪、筋肉、内臓まで食われて骨だけになる。」
「へえ。」
「すると今度は、骨に含まれる有機物を吸い取る生き物が寄ってくる。そしてこの有機物分解は、更に別の生き物を呼び寄せるんだ。向こう100年もの間、魚や海月、貝といった海洋生物達はここを住処にする。僕たちの知らない遠洋で死に絶えた命の、知る由もない行く末だよ。つまり何が言いたいかっていうと…」
  静寂に気付き不安になったが、彼女の目は真剣に僕を見つめていた。
「鯨は生態系を造るんだ。」
  彼女は少し微笑んだ。
「私達みたいね。」
  お先、とひと言残して、立ち上がった彼女は部屋へ戻っていった。不意に投げられたひと言は、深海に落としたキャンバスを一層黒く見せた。確かにそうだ。この絵は私達そのものだ。弛まぬ脳裏の反芻に為す術のない私の動揺を、壁面に並ぶ絵画の視線が詳らかにしていた。

  楽隊のラッパが枕元に賑やかな朝を伝えた。今日は年に一度の春祭りだ。華々しい踊りや演奏で昨年の恵みに感謝し、また今年の豊作を祈願する。広場には出店が立ち並び、食べ物や装飾品が叩き売りされる。私達のアトリエでも、作品を展示する場をもらっている。並べた絵は時々誰かに気に入られ、そのうちいくつかが買われていく。城下全体が春らしい生彩に包み込まれるこの日が、私は昔から好きだった。パレードは夜まで続き、子供達がはしゃぎ疲れて寝静まった後も、大人達が酒を飲み明かす。夜も消えない街の灯が翌日の朝焼けを迎えるのだ。
「準備を済ませて私達もそろそろ行こうか。」
「ああ、ごめん。もう少し待って。」

  広場の人混みをひと回りして、ちょうど正午を過ぎ、高い太陽を少しの雲が隠した頃、私は確かにその姿を見た。父だった。彼は私の絵に顔を近付けていた。杖をつき、弱々しく丸まった肩は侘しさを纏っていた。
「あの…」
「あなたが作者ですか。」
  柔らかいその声が懐かしいのかも、もはや分からなかった。
「…はい。私の絵です。」
  父は私を私だと分かっていない様子だった。
「絵の具と油は何を使っているのですか。」
「あの二番街の、樹が生えた画材屋のものを。」
「やはりそうですか。」
「分かるのですか。」
「ええ、私も使っていたので。もしかしたら会っていたかもしれませんね。」
  いいえ、一度も会っていませんよ、とは言わなかった。父の眼鏡の奥を垣間見たからだ。
「失礼ですが、その眼…」
「ああ、これですか。実は数年前に盲になりましてね。今はもう視えていません。」
「えっ。じゃあ油絵は…」
  考えるよりも先に、思わず訊ねていた。
「その時に筆は折りました。」
「…そうだったんですか。」
「でもね、変な話ですが、私はこれで良かったと思っているのです。」
「良かった…ですか。」
「ええ。絵描きとは自由な表現者であるべきだ。私はずっとそう思っていました。今でもこの思いは変わりません。しかしこの素直な情熱を乗せ続けられるほど、絵筆は丈夫にできていない。芸術とは生命の発露です。その心の有り様を生々しく抉り出す。類稀なる魂が集まった宮廷という舞台で、嫉妬や羨望といった邪念に色彩を曇らされた日から、私は芸術家として死んでいたのです。」
  父からそんな言葉が出るなんて思いもしなかった。私の中の父はいつだって、才に溢れた画家だった。私はそんな一面しか知らなかった。父という虚像の骨格が崩れていく音が聞こえた。
「私のような矮小な芸術家が自尊心を留めるためには、ある程度曇った眼鏡をかけていないといけないのかもしれません。周りがよく視えすぎると、簡単にそれを手放せてしまう。だから私は、閉じたこの両目を救済とすら感じているのです。」
  私はもう、言葉を返すことができなかった。
「老いぼれのつまらない戯言に付き合わせてしまって、いやはや失礼しました。あなたはどうかのびのびと、屈託のない芸術をしてください。」
「つまらないなんて、そんなこと…」
  私の詰まった声が届くのを待たずして、父は柔和な笑みを浮かべて会釈し、翻って遠くへ歩いていった。記憶よりも小さく、冷えきったその背中は、重たげに影を引き摺っていた。


【鯨骨生物群集(英: Whale falls)】…深海底に沈降した鯨の死骸を中心として形成される生物群集。熱水噴出孔と同様、隔離環境の特殊な生態系として注目される。

鯨/眼鏡

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