【短編】屈折

  エプロンを纏う時。それは己を偽る時だ。表情筋を吊り上げて、喉のピッチを強く捻る。背筋をぴしゃりと貫く。そして、笑顔の仮面をつける。

  褪せた踏切が下り、寒色の空に轟音を運ぶ。風圧に髪が靡く。緩やかな勾配。一歩。また一歩。ひび割れたコンクリートに萎れた雑草を見た。住宅街を抜ける空気は今日も冷たい。安物のイヤホンを強く挿して、主婦がベビーカーを転がす音や、向こうで響く救急車のサイレンから身体を切り離す。雨粒が頬を掠めた気がした。

  殺風景な控え室には、上階に出ている同僚達が置き去りにした憂鬱が充満している。インクの切れたボールペン。凹んだ煙草の空箱。散らばった新商品のビラ。絡み合った黒いケーブル。それらを見下す電灯の微かな点滅さえ、どこかニヒルだ。ドア越しに届く籠った声には、喧しさと侘しさとが併存している。けしかけるように長針が、悪戯な寝返りを打った。深呼吸を泳がせると、軽快な音楽が私を手招く。

  ご注文をどうぞ、と高い声を投げる。身体に染み付いた、マニュアル通りの所作。いつかの新人研修で、錆のような年季を感じた店長の笑い皺に、違和感をなくしたのはいつだろう。粘ついた粗悪な油の匂いも、幾度も鼻を抜けるうちに中毒じみてきた。そんなことを考えていると、どうやら客の列が途切れた。どこか草臥れつつも賑やかな店内で、私はひとりになる。大きな水彩画の一面に、突然ぽつんと空白があるように。身体から切り離された魂だけの自分に、見下されているような心地がする。いや寧ろ、見下しているような。ぼんやりと外を見る。水滴の張り付いたガラスの向こうで、橙色の蛍光灯が、柔らかく路地を照らしていた。自然と目を奪われ、私は暫くそれを見つめた。

  「そろそろゴミ出してきて。」
  分かりました、と答えると、すぐに店長は行ってしまった。私のシフトでは、この仕事はいつも20時頃だ。ビニール手袋をはめ、カウンターの端を通り、店内のゴミ箱を回る。それらを縛って、袋を取り替える。纏めたゴミをいくつか抱え、外に置いてくるだけの仕事。案外嫌いではない。立っているだけでは疲れてしまうから。階段を降りて少し歩く。店の裏にあるゴミ置き場も、雨の露でまた黒ずんでいるようだ。街を眺める。傘を差す人、差さない人。楽器を担いだ人、電話をしている人。他愛ないような光景。蛍光灯はやはり柔らかく、彼らを包んでいる。降り頻る雨粒の線を白く確かめながら。

  エプロンを外す時、私はまた日常に還る。パイプ椅子に腰掛け、労いを込めて四肢を弛緩させる。夕方とは味の違う溜息をつき、ひと通りスマホを見る。どうやら、雨足は強まる一方のようだ。傘もないし、帰るとしよう。

  自動ドアを出ると、音は遠くなる。嘲笑のように注ぐ雨が髪を濡らす。何故だか心地良い気もする。遣る瀬ない歩みは、水を纏って重い。水溜りに映った蛍光灯の橙を、冷たい爪先で弾き上げる。見上げても濡れたまつ毛が邪魔をした。ふと、振り返る。そして、吸い込まれるように見入ってしまった。際立って見えたのだ。柔らかく光るあの店内が、袖に温もりを溢しながら、私の背を見送るように。

エプロン/橙

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