【短編】風景画

   カチャ、カチャ…
   指先で茶器が触れ合い、小気味良い音を耳に届ける。細く開いた窓から滑り込む春風。ひらひらと揺らめくカーテンの向こうにはずっと変わらない長閑な田園が広がる。そして、窓枠の世界を塞ぐかのように、その絵画は立ててある。
「カモミールティーです。熱いのでお気をつけて。」
「どうもありがとう。」
   婦人のか細い手がそれを受け取る。入念に吹きかける息が、細やかな波を立てる。そしてひと口啜り、そっと花瓶の隣に置く。
「窓を閉めましょうか?」
「いいえ、結構よ。」
   婦人はまた絵筆を握り、パレットの隅に白を取った。
「夕方からは嵐になるようで。」
「そうみたいね。鳥が騒がしいもの。」
「具合の方はいかがですか?」
「お陰様でだいぶ良くなったわ。」
   それは良かったです、と微笑む。しかし、婦人の目はこちらを捉えていない。表情を変えぬまま、逆光を纏うキャンバスと向かい合っている。婦人が病気を患い、外へ出られなくなってから、もう2年は経つだろうか。婦人はずっと、同じ絵を描いている。何枚も、ではない。1枚の絵を、ずっと描き続けている。何度も色を重ね、描き直している。窓から見える景色を描いている事は、婦人の目の遣り方で理解した。しかし、抽象的でぼんやりとしたその絵は、昨日とどう違うのか、凡愚な目によく分からない。花瓶が揺れ、ふと我に返る。淡く柔らかな空間に、そろそろだと霹靂の気配が兆した。


   カチャ、カチャ…
   昨日の雷鳴が嘘のように、しらばっくれた快晴模様であった。
「今朝はマンダリンを淹れてみました。」
「まあ、ありがとう。」
   溢れないよう、ゆっくりと手渡す。ベッドを回り込み、窓辺から見た外の世界は、変わり果てていた。水路が決壊し、氾濫した濁流の痕跡が町に滲んでいた。草臥れた稲は揃って首を垂れ、溜まっていた土砂が舗装道路を塗り潰す。
「とっても美味しいわ。」
「それは良かったです。」
   外を見たまま答える。
「相当ひどかったみたいね。」
   それだけ言って、婦人はいつものように絵筆を握る。婦人の目線を遮らぬよう、慌てて窓から離れた。
「何かお茶菓子をお持ちします。」
「あら、うれしいわ。」
   婦人は変わらず、声だけを寄越した。


   その夜、婦人が亡くなった。医者は、急性の心不全だと言っていた。キルトにあしらわれた花柄の刺繍が、透明な微笑みを儚げに飾った。病室を囲んだご子息やご友人は、互いの背を摩り啜り泣いた。絵筆とパレットは床に落ちていた。最期の時も、両手に握っていたのだろう。あの絵がないことに気付いた。
「ああ、あれなら隣の部屋に移したよ。この狭い部屋で、誰かがぶつかると困るから。」


   静まり返った部屋の奥に、その絵はあった。本当に不憫だと思った。病床の時間をほとんど捧げ、描き続けた作品を、ついに未完のまま遺したのだ。婦人の柔らかな手を思い出しながら、埃っぽいカーペットの上、絵の側へ近付く。


   絵画を分つように、白く太い線が、右上から強く振り抜かれていた。どう見ても異質だった。倒れた時に描いてしまったのだろう。最期のたった一筆は、それまでの全てを壊していた。そのまま立ち尽くし、絵を見ていた。そして、ようやく気付いた。婦人は昨日、あの氾濫を描いていたのだ。町を飲み込んだ土砂の色が、1日前の世界に描き加えられている。婦人が描いていたのは時間だったのか。全てが腑に落ちた。変わらぬ絵ではなく、変わらぬ毎日を描いていたのか。思えば、婦人はいつも外を見ていた。一面の白銀、舞い散る桜、新緑の目覚めや紅の錦も、このキャンバスに乗っていたのかも知れない。婦人の作品は婦人の記憶なのだ。刻まれた白く深い溝が、今それを完成させた。

雨/溝

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