【映画】『戦場記者』須賀川拓が、ニュースに乗らない中東・ウクライナの現実と報道の限界を切り取る
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TBS所属の特派員・須賀川拓が中東の今を現地で切り取るドキュメンタリー映画『戦場記者』
TBS以外の日本のテレビ局に、須賀川拓のような「コンスタントに中東へ足を運び現地取材を行う日本人記者」がいるのかどうか私は知らない。いずれにせよ私は比較的TBSのニュースを見ることが多いので、彼を番組の中で目にする機会が度々ある。またTBSには、ドキュメンタリー系の映像を劇場公開用の映画にするプロジェクトがあるようで、こうして彼の姿を映画館で観ることになったというわけだ。
日本のテレビ局の場合は恐らく、「何かが起こったら、取材のために記者を送る」というスタンスが多いだろう。この記事を書いている今まさに、イスラエルとガザ地区が戦争状態に陥っている。そしてこのようなことが起こった場合に、その様子を伝えるための特派員を送るという感じなのだと思う。
しかし須賀川拓は、拠点こそロンドンだが、世界中が注目するような「何か」が起こっていない時でもコンスタントに中東へと出向き、現地取材を行っている。そしてそこで、「何か」ではない「中東の日常」を切り取っていくというわけだ。もちろん、「中東の日常」は、私たちにとっては「非日常」である。しかし「何か」が起こらなければ取材がなされないのだから、普通にしていたら、その「非日常」が私たちの元へ届くはずがない。そんな「中東の日常」を日々取材し続けているのが須賀川拓なのである。
映画『戦場記者』は、まさに今問題となっている「ハマス」や「ウクライナ侵攻」、「米軍撤退後のアフガニスタンにおける薬物中毒」など、様々な現実が取り上げられる作品だ。そのあまりの「非日常」には、やはり驚かされてしまうだろう。
「報じること」に対して須賀川拓が抱く葛藤
映画の中でどんな現実が描かれるのか書く前に、「報じる」という責務を負っている須賀川拓の葛藤にまずは触れたいと思う。映像から伝わる中東の現実の凄まじさにももちろん圧倒されるのだが、その現実を報じる彼の苦悩みたいなものにも惹かれる作品と言えるからだ。
さて、その前に少し紹介しておきたい本がある。『こうして世界は誤解する』(ヨリス・ライエンダイク)だ。同じく中東の特派員を務めていたオランダ人ジャーナリストが、「報道」全般についての自身の考えをまとめた作品である。
その本に書かれていた非常に印象的なエピソードを、私は映画を観ながら思い返していた。それは「狭い檻に入れられたシロクマ」についての話である。
自然界では広々とした環境で生きているシロクマを、身動きを取るのも難しい狭い檻に入れるとしよう。そのような状況に置かれたら、シロクマは当然、「自然の中で生きている時とはまるで異なる挙動」を示すはずだ。イライラしたり凶暴になったりするかもしれない。
さてここで、そんなシロクマの挙動を「檻」を映さないようにして(あるいはCGで檻を後から消すなどして)カメラに収め、多くの人に見せるとしよう。するとその映像を観た人は、「シロクマというのは、いつもこんな風にイライラしたり、凶暴な振る舞いをする生き物なんだ」と勘違いするはずだ。
まさにこのような状況こそ、ヨリス・ライエンダイクが中東での取材の際に感じていたことなのである。様々な事情から彼は、「中東の現実」を報じる際に、「檻」の存在を伝えることが出来なかった。まさにそれは、「檻を映さずにシロクマを撮影している」ような状況だと言えるし、そこに彼は「報道の限界」を感じていたというわけだ。
そして、同じような葛藤を須賀川拓も抱いているのではないかと、映画を観ながら私は感じた。
彼がこれまでに最も取材に赴いた場所はガザ地区なのだという。まさについ先日、大規模な戦闘が始まった場所である。そして、ガザ地区は以前からずっとイスラエルと緊迫した状況にあったわけだが、そのような「緊迫した状況にあり続けている」という「状況の変化の無さ」こそが報道においては大きな問題になるのだそうだ。
例えば須賀川拓は、「ガザ地区で空爆がありました」というような報道を現地から行うことがある。しかし彼には、そのニュースの重要性や緊迫度が世界に届いているようには感じられない。「世の中はきっと、『またか』と思って終わってしまう」と考えているからだ。
確かに、ニュースの受け手である私の実感としても、「そうかもしれない」と認めざるを得ないところはある。あまりに情報が多すぎる世の中になったため、「新しく刺激的な情報」はいくらでも探せてしまうだろう。だから相対的に、「以前からずっと変わらず同じ状況が続いている」という情報は弱くなってしまうのだ。そのため、どちらかと言えば「同じ悪い状態がずっと続いている」という状況の方がより深刻なはずなのに、なかなかそれを報道に乗せることができなくなる。「変化」こそが「ニュース」なのであり、「変化の無い状態」は、たとえその「変化の無さ」こそが問題なのだとしても、耳目を集めることが難しくなるというわけだ。
須賀川拓がガザ地区で取材をする際、住民たちから最も強く感じるのは「忘れられることの恐怖」なのだという。彼はガザ地区に住むパレスチナ人に、かなり失礼な、あるいは核心を突くような質問もするというのだが、それでも何でも答えてくれるそうだ。やはり「忘れられること」が怖いらしく、直接的にそう口にする者もいるほどである。そういう姿を見ることで彼は、「自分もちゃんと応えないと」という気分にさせられると語っていた。
「自分のしていることに意味などあるのか?」という葛藤
須賀川拓は、また別の葛藤を抱いてもいる。
もちろん、「まったく意味がない」などとは思っていないだろう。彼は別の場面では、
とも語っていた。それが出来る人は多くないのだから、非常に重要なことをやっていると考えていいはずだ。
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