見出し画像

資格の呪縛と負け戦略で突き進んだ末路


私は作業療法士の国家資格をもっている。

これが私の負け戦略のツボにドはまりした一つの要因だと思っている。


作業療法士の資格は医師の指示のもとリハビリテーションを提供するのに必要な資格だ。この資格を使えば、主に病院や施設、訪問看護等の在宅医療関連の職場で働くことができる。向き合う対象は、病気やケガ、障害等を持っている方々だ。簡易に説明すると、リハビリという訓練等を通して、心身の機能、生活能力の回復改善を図り、社会生活への参加を支援する職業だ。

困っている人、弱い立場にいる人を医療福祉の力で支援する仕事。

障害のある人を支援しなければいけない。心身機能が弱っている人を改善する手助けをしなければいけない。そして、私もそれをやらなければいけない。できないというのは逃げだ。人を見捨てることになる。薄情者だ。

なぜか、そういう思考にはまっていた。なぜなら私は作業療法士だからだ。

・・・それって、本当だろうか。

もちろん、障害の有無にかかわらず、年齢や性別にかかわらず、どんな人にもいきわたる支援は必要だ。そこには専門家の力がある。

そして私はどんな分野の、何の専門家になるのか、どんな支援で人々を支えるのか、どのような状態の人を支えるのか、私が決めることができる。

人には得意不得意がある。長所短所、強み、弱み。
私にもある。私はなんでもこなせる万能な人ではない。

マルチタスク、片づけ、電話対応、雑談やみんなでワイワイ活気のある会話、緊急時の対応、毎回の予定の急な変更に臨機応変に対応することが苦手だ。雑音や人の出入りの多い環境では集中が持続しない。

その代わり、落ち着いた環境で一つのことに集中し始めると、とことん夢中になれる。時間も忘れてどこまでも探求したり、細かくこだわって物事に取り組める。関心を持ったことへの探求心や分析はほとんど妥協がない。
少数の人と、じっくり話しをし、深い話をすることもできる。集中できる環境では、丁寧に取り組むこともできる。決断した後の行動力もある方だ。

だけど、私は、短所の克服に多くの時間を費やした。嫌いなものを好きになることに多くの時間を使った。

医療に関心はなく、むしろ医療従事者にだけはなりたくないとさえ思っていた。
コミュニケーションが苦手だ。特に大勢の中で空気を読みながらテンポよく会話に入ること。

嫌いな事を好きになる努力も、苦手なことを克服する努力も、ある程度のところまでは伸ばせる。だけど、限界が来る。生まれ持った才能のように、自然にできるようにはならない。周りが得意な事の上にさらなる技術や能力を身に着けている時、私は、できない事をひたすら練習する。翼のないウサギが耳をバタつかせて、空を飛ぶ練習をするみたいに。これは明らかに、負け戦略で生きている状態だ。だって、ウサギは白鳥にはなれないから。

私は、障害や病気、怪我による機能低下に対するリハビリは苦手なのかもしれない。好きになれないのかもしれない。
もっと言うと、予防的リハビリの方は興味を持てる。
だけど、作業療法という学問は好きだ。結果として、資格を取ったことも、この学問に出会ったことも、後悔はしていない。むしろ、今となれば出会って良かったと思う。

そして、私は作業療法士ではない。作業療法士の資格をもっている人だ。
資格はただの資格だ。私そのものではないし、持っていても、必ず使わなければいけないわけではない。何か目的を達成する時の手段の一つだ。
その経験と知識を生かして、私なりの方法で人の役に立つこともできる。

だけど、憧れもあった。高度なリスク管理をしながらも、歩けない状態の患者さんに歩く練習を提供するセラピスト。

障害や病気になっても、年をとっても、生きる希望をと情熱をもって向き合い続けるプロの姿。
憧れがあった。かっこいい。

そして自負。努力して手に入れた資格、親の自慢になる、国家資格を持っている自分。

だから、リハビリの仕事に情熱を持ち続けられない自分は、悪い。ダメだ。となってしまう。その気持ちをかき消すかのように、勉強するけど身にならない。

だけど今、自分の長所や短所、好きや嫌い等の自己理解を深め、私の人生について考え始めた時、わかったことがある。
自分の情熱や信念、価値観にそった生き方を実現するとき、手段としてのコミュニケーションであれば、手段としての技術であれば、必要に応じて身に着けていける。
人に認められる為、社会になじむため、嫌われないために身に着けたコミュニケーション能力はすぐに剥がれ落ちる。だけど、他人軸ではじかれないように注意を払いながら生きてきた多くの人たちは、この負け戦略から抜け出す恐怖に勝つことが難しい。
そして、多大な時間をかけた努力と気力は実らないまま燃え尽きる。


あの憧れは、作業療法士への憧れじゃない。情熱や信念をもって、生きる希望を与え続ける為に突き進む、その人達の生き方や姿勢をかっこいいと感じたのだと思う。

何のために、生きるのか。どんな価値観をもって生きるのか。私はどんな方法でどんな価値を社会に提供するのか。
自分の内側の声に従って生きなければ、他人の声ばかり気にして生きていても、結局他人どころか、自分自身さえ救えない。下手をすれば共倒れだ。

資格の呪縛と負け戦略を突き進んだその先には、燃え尽きた自分だけが残るのかもしれない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?