【歴史小説】天昇る火柱(11)「亡国」
この小説について
この小説の主人公は、赤沢新兵衛長経という男です。
彼は、信州の小城に庶子として生まれ、田舎武士として平凡な一生を送るはずでした。
しかし彼には、二十歳近くも年の離れた兄がいました。
兄は早くに出家して家督を放り出すと、諸国を放浪し、唐船に乗って明国にまで渡ってゆきました。
そして細川京兆家の内衆となり、やがて畿内のほとんどを征服することになります。
神も仏も恐れぬ破壊者、赤沢沢蔵軒宗益。
その前に立ちふさがるのは、魔王・細川政元への復讐に全てを捧げる驍将、畠山尚慶。
弟にして養子の新兵衛とともに、赤沢宗益の運命を追いかけていただければ幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。
本編(11)
夜が炎上している。
空が赤い。
天昇る火柱だ。
阿鼻叫喚の声が聞こえる。
男が皆殺しにされてからは、女、子ども。
(俺は)
地中に埋められているのか。
目も霞んでいる。
手も足も動かせない。これではまるで、西方胤栄のようではないか。
耳だけがはっきりしている。聞きたくない音ばかりが、脳の裏へ響いてくる。
(藍紗)
はっきりと刻み込まれた、その名前。
キイヤアアアアアーッ
「藍紗」
叫びながら、新兵衛は跳ね起きた。
小袖の裏が、汗でしとどに濡れている。
辺りはただ、静寂と暗闇だ。
連子窓の向こうから、刃文のような月光がこぼれている。
息が荒い。肩を揺らしながら、奔馬のようなそれを鎮めようとする。
自分に帰る場所はもうない。
もはや未来しかないのだ。
そう考えると、ひとりでに涙が溢れ、抑えることができなかった。
新兵衛は、おのれの顔を鷲掴みにするように、たなごころで覆った。
押し殺した泣き声が、絞り込んだ喉の隙間から漏れ出してくる。
それでも夜はただ静かで、何も答えようとはしてくれなかった。
師走、槇島城を珍しい客が訪れた。
筋骨逞しい小柄な僧である。朽葉色の袍裳に、綾錦の加行袈裟を掛け、銀銅蛭巻拵えの太刀を佩いていた。
かつての大和国の覇者、古市澄胤であった。
本丸館の板間の上座に、宗益はどっかりとあぐらをかいていた。その傍らには新兵衛も控えていた。
「澄胤坊、久しいな。ともに遊佐弥六を追い払って以来か」
「いえ、我らはただ、沢蔵軒殿のあとをついて回ったばかりで」
半ばうつむき、口の中でつぶやくように答えた。
「ずいぶんと殊勝な物言いだ。あの時の意気軒昂な播磨律師とも思えぬ」
確かに澄胤の姿からは、かつて溢れていた覇気のようなものがすっかり抜け落ちていた。代々丹精してきた古市の城を失い、筒井党に阻まれて大和へ帰国もできない状況では、それもやむを得ないのかもしれない。
「恥を忍び、あの時と似通ったお願いを申し上げに参った次第」
蒔絵の脇息に頬杖をつきながら、宗益は鼻を鳴らした。
「今度追い払いたいのは、筒井と成身院であろう」
「お察しの通りにございます」
「正直なところ、来るならばそろそろかと思っていた。大和の衆徒国民が一揆を結んだそうだな」
あの国に、未だかつてない事態が訪れようとしていた。
筒井、越智という宿敵同士が和を結び、箸尾や十市もこれに加わった。畠山方、細川方を問わずもはや京勢には一切合力せぬこと、挙げて大和一国の静謐を図ることを申し合わせたというのである。
「さんざ尾張守の走狗となっておきながら、旗色が悪くなれば惣国の美名か。いやはや都合のよいことよ」
「筒井とは、そのような者どもの集まりにございます。後五大院殿もよく仰っておられた」
後五大院殿とは、かつて胤栄と澄胤兄弟の師であったとかいう、大乗院門跡経覚の諡であろう。
「しかし、そなたにとっては存亡にかかわる一大事というわけだ」
宗益は禽獣めいた両目を細めていた。
もはや故地を失った古市氏は、当然ながら今度の一揆にも名を挙げられなかった。大和のはみ出し者の宿命は、ここに極まったと言える。
「寺門は沢蔵軒殿の名を籠め、奈良に高札を掲げております。赤沢なる者、神仏を敬わず、無用の殺生を恣にする大悪人なり。その行いはなべて言語道断、必ず仏罰が下るゆえ、早くその首級を挙げよと」
「必ず仏罰が下るなら、敢えて首を求めずともよさそうなものだ。奈良の坊主とは、よくよく矛盾撞着した生き物よ」
クック、と声を立てて笑う。だがすぐに鋭い眼光を取り戻した。
「わしに、そのような挑発に乗れと言うのか」
「興福寺七百年の支配を終わらせる、よい機会かと」
澄胤の垂れ目の奥は、どす黒く据わっていた。
「衆中の棟梁さえ務めたそなたに、大和一国を焼き尽くすことができるのか」
「できなければ、おめおめとこのようなところまで参っておりませぬ」
「修羅道へ墜ちる覚悟はできておるか。よかろう」
宗益が座を立つと、たちまち見上げるほどの高さとなった。
「尾張守はまだ摂津に居座っている。わしが大和へ侵攻するべきか否かは、御屋形が決めることじゃ。追って返答を待て」
槇島は、巨椋池から宇治川へ流れ出ていく河口の中洲である。周囲が天然の濠になっており、宇治の町場を一望することができる。
新兵衛が城の郭から駆け下りてゆくと、澄胤は小舟の渡し場で、袂を掻き合わせて待ち構えていた。
「播州様」
「その呼び方はよされよ。今の貴殿はもう古市の若党ではなく、赤沢殿の養子だ。澄胤で結構」
「では、澄胤殿。長らくご無音いたしておりました」
「うむ。いや、まるで昨日のことのようだ。胤栄を押し込めたあの夜も、古市を没落した時のことも」
筒井党に大和を放逐されてから、澄胤は南山城に逼塞し、わずかな手勢を率いて南都討ち入りを繰り返していた。やがて畠山義英に属して河内へも出兵したが、大敗して近習もほとんど失ってしまったという。
「西方は、まだ生きているのですか」
「噂によれば、古市の焼け跡で筒井に飼われているらしい。結局は、あれの思い描いた通りになってしまったな。もっとも、自慢の名物の数々まで、根こそぎ奪われるとは思わなんだろうが」
ハハ、という乾いた笑い声も、一際虚しく響く。
胤栄は、かつて語っていたことがある。本貫にも居着かず、京で貴人に伺候し、南山城で合戦ばかり繰り返している弟には、古市は救えぬと。早晩破滅が訪れるであろうと。ただ澄胤を除くために、零落しきった筒井を誘引しようとしていた。それが今の有様を招いたとも言える。
誰もが人の力を当てにし、自らの足で立とうとしない。だが澄胤は少なくとも、どうにかおのれ自身で立とうとは試みていた。それをただ間違っていたとは決めつけられない。
「新右衛門から言伝がある。孫娘を守れなくて申し訳なかったと。その後も力を尽くしたつもりだが、及ばなかったと」
新兵衛の脈が、にわかに激しく打った。
宗益と再会し、その養子となったあとは、戦陣で過ごさない月とてなかった。それで妻の藍紗は、古市の元次のところへずっと残していた。
当時の古市は繁栄の極みにあり、官符衆徒棟梁の膝元でもあって、野伏や土一揆の跋扈する京や南山城より、よほど安穏だと思われていた。
しかし、あとから見ればそうではなかった。畠山尚順の進撃に伴って筒井党が息を吹き返し、二十年ぶりに奈良を制圧するなど、誰が想像できただろう。
木津に兵を置いていた澄胤も元次も、城に火をかけて逃げ出すしかなかった。積年の恨み骨髄に徹した筒井勢は、無防備な古市の町を焼き払い、破壊し尽くした。郷民らは奴婢に落とされて連れ去られた。その中に妻の藍紗もいたのである。
天竺人の血を引く美貌は、野伏たちの垂涎の的になったかもしれない。今となっては、その生死さえ知られなかった。
「カリーム爺い、いや、新右衛門殿は」
「先年の春、瓶原で討ち死にした。七十一の年まで、よう尽くしてくれた」
「左様ですか」
新兵衛は、ぎりぎりと奥歯を噛みしめながら耐えていた。
「澄胤殿、やはりあなたは、古市の郷を守るという、何より大切なことを果たせなかったのだ。父上はあのようなお方ゆえ、あなたを用いられるだろうが、所詮は人の上に立つ器ではない。全てを失った古市の民の苦しみを、あなたにも味わっていただかなくてはならない」
澄胤は驚きに目を見開いていたが、やがて力なく笑みを含んだ。
「いかがいたす。ここで手討ちにでもするか」
「一度きり、渾身の力で殴らせていただく。それでよろしいか」
「よかろう」
うっすらと瞼を閉じた澄胤の顔面めがけて、新兵衛は弓なりに振りかぶった拳を、力任せに叩きつけた。
その小柄な体は三間も後方へ吹き飛び、錐揉みしながら小舟を越えて、巨椋池の水面に小さなしぶきを立てた。
~(12)第一部最終回へ続く