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【歴史小説】天昇る火柱(10)「大文字」


この小説について

 この小説の主人公は、赤沢あかざわ新兵衛しんべえ長経ながつねという男です。
 彼は、信州の小城に庶子として生まれ、田舎武士として平凡な一生を送るはずでした。
 しかし彼には、二十歳近くも年の離れた兄がいました。
 兄は早くに出家して家督を放り出すと、諸国を放浪し、唐船からふねに乗って明国にまで渡ってゆきました。
 そして細川京兆家ほそかわけいちょうけ内衆うちしゅとなり、やがて畿内のほとんどを征服することになります。
 神も仏も恐れぬ破壊者、赤沢沢蔵軒たくぞうけん宗益そうえき
 その前に立ちふさがるのは、魔王・細川政元まさもとへの復讐に全てを捧げる驍将ぎょうしょう畠山はたけやま尚慶ひさよし
 弟にして養子の新兵衛とともに、赤沢宗益の運命を追いかけていただければ幸いです。
 どうぞよろしくお願いいたします。

本編(10)

「俺たちにはもう、帰る場所はどこにもない」
 右手にぶら下げた抜き身の刃から、ぼたぼたと鮮血が滴っていた。
 左手には、生首三つのほどけた髪を握りまとめている。手指は血糊でべったりと汚れ、脂っぽくなっていた。
「ならば前へ進むしかない。例え行き着く先が地獄であろうとも」
「いかさま」
 猿丸は事もなげにうなずき、足元の身ぐるみ剥がされた胴体を蹴り飛ばした。
 周囲に這い広がる火柱の中に、新兵衛は立ち尽くしていた。眼裏まなうらに滲んでくる涙は、きっと辺りに立ち込める煙のせいだ。
 ただ、火攻めの煙が目に染みただけのことだ。

 前将軍足利あしかが義尹よしただは、ようやく越前から出立したものの、その手勢はわずか五百ばかりで、朝倉の精鋭は同行していなかった。
 折しも夏の長雨で鴨川かもがわの堤が破れ、京でも洪水に見舞われていた。
 その後一転して厳しい日照りが続き、旱魃かんばつが起こった。不作で年貢の未進も相次ぎ、苦しい戦陣となっていたのである。
 朝倉氏はそれを理由に兵を出さなかったが、義尹はなおも望みをつなぎ、二ヶ月もかけてゆるゆると近江に入った。途中で若狭わかさへも立ち寄ったが、根っからの細川方である武田たけだ氏に追い払われてしまった。
 南方では、畠山はたけやま尚慶ひさよしが着々と戦備を整えていた。
 九月。
 尚慶は若江城わかえじょうを発して摂津欠郡かけのこおりへ出陣し、細川方を蹴散らすと、天王寺てんのうじに布陣し防備を固めた。筒井党も奈良を出て、興福寺領のひしめく南山城へ駒を進めた。
 これに対し細川政元は、巨椋池の西端のよどに薬師寺、香西こうざい内藤ないとうら守護代家の主力を、東端の宇治に赤沢宗益を配した。
 赤沢勢は、要害槇島城まきしまじょう奉公衆ほうこうしゅうが尚慶方に与同したため、池の中島伝いに渡ってこれを攻め落とし、以後本拠とした。
 そこへわずかな供回りを連れて、畠山義英よひひでが入城してきた。弱冠十二歳である。
 かつての河内国主、畠山義豊よしとよの嫡男だった。今は尚慶に居所の高屋城たかやじょうを逐われ、政元の庇護のもとで旧領奪還の機会を窺っている。
 会所の上段を譲って対面したが、猿楽さるがくの面のように表情がなく、一言も発さなかった。取次は全て近習の木沢きざわなる者が務めた。宗益は盛り上がった背中を窮屈そうに丸めながら、その眼前で畏まっていた。
「沢蔵軒、度々の武功まことに珍重。上総介かずさのすけ様のおんため、早く奸賊尚慶を討ち取るよう」
「は」
 両拳を板敷きにつき、きれいに剃り上げた頭を垂れていた。
「父上ほどのお方が、あのような童に伺候せねばならぬとは」
 夕餉ゆうげの席で、宇治川の魚をばりばりと噛み砕きながら、新兵衛はぼやいた。
 宗益の方は、濁酒のひさごを傾けながらへらへらと笑っていた。
「それが武家というものだ。偉いのは別に当人ではなく、血筋そのものというわけだ」
「しかし、我らはあくまで右京兆様の被官のはず。滅びかけた畠山の家になど、何の恩義もありませぬ」
「確かにな。だが、あれがいることで、南山城での戦を楽に進められる面もある。尾張守おわりのかみくみできない者たちの拠りどころとなれる」
 ムウ、と新兵衛はうなった。
「ただ、不思議でもあります。平気で叡山を丸焼きにする父上が、あんな小僧の前で隠忍自重していらっしゃるのは」
「わしは気楽な人間よ。畢竟ひっきょう、全ては今のおのれを利するかどうかだけだ。天台の坊主どもには何もなく、畠山の小わっぱにはそれがある。ただそれだけのことよ」
 大きな体で板間に寝そべり、肘をついてプウ、と甲高く放屁した。
 
 畠山義英を奉じ、槇島城を発向した赤沢勢は、道々で国人衆の参陣を受けつけながら、木津川沿いに南下していった。
 元々この地で自検断じけんだんを行っていた山城惣国一揆は、三十六人衆という土豪の集まりであった。宗益はその者たちに呼びかけ、在地へ戻してやる旨を触れ回って、無用の抵抗に遭わぬようにしたのである。
 木津まで到着すると、稲八妻城いなやづまじょう、鹿背山城に立てこもる筒井党をたやすく打ち破り、これを大和へ追い返した。さらに興福寺の代官である木津執行しぎょうも追放した。
 一度槇島城へ戻ると、返す刀で大山崎おおやまざきを渡り、北から河内十七箇所じゅうななかしょへ侵攻した。
 宗益は細川政元より、山城上三郡かみさんぐん守護代、並びに河内十七箇所代官に任じられていた。それらの所領を実力で当知行すべく、活発に動き回ったのである。
 義尹の南下を待ちわびる畠山尚慶は、守護代薬師寺の子息である元一、長忠ながただの兄弟と対峙し、摂津へ釘づけにされていた。
 赤沢勢はその隙に、尚慶の領国を外側からぐるりと蚕食していく形であった。
 年初まで、曲がりなりにも河内守護であった畠山義豊の嫡男、義英の帰還は、河内の地下人たちに対し、それなりの効験こうけんを発揮した。少なくとも、かつて祖父義就よしひろに恩顧のあった者たちは、尚慶に味方しない由を見出すことができた。
 赤沢勢は、淀川沿いに下りながら諸城を攻め落とし、十七箇所を席捲すると、その西端で欠郡との境にほど近い榎並城えなみじょうまで到達した。
 ここからは、薬師寺兄弟と合流して一気に天王寺へ攻め込むことも、東へ転じて尚慶不在の若江城を襲うこともできる。
 ところがそこで、京の細川政元より召還の命令が届けられた。
「なぜだ、ここまで追いつめておきながら」
 新兵衛は愕然とした。
 その理由は、土一揆つちいっきであった。
 折からの飢饉にもかかわらず、畿内全土を巻き込む戦陣が月をまたいでいた。諸方の軍勢から次々に兵糧を徴発され、民草の怒りが限界を超えたのである。
 京から近江にかけても馬借が蜂起し、入洛して土倉酒屋どそうさかやなどの有徳人うとくにんを襲っているという。またぞろ応仁文明のころの再来のようであった。
 政元は、執事の安富元家やすとみもといえを起用して鎮圧に当たらせたが、あえなく敗走して足元を脅かされていた。
「安富め、御屋形の気まぐれに合わせるのはうまいが、軍働きはいつまで経ってもものにならん」
 八尺に及ぶ巨大な金砕棒を、二人がかりの小者に預けながら宗益は嘆いた。
「一息に決着をつけたかったところだが、こうなっては致し方あるまい」
「河内でもやはり、土一揆勢が平野ひらのの町を襲っているようです」
 新兵衛が報告した。高屋城の守護代遊佐ゆざ順盛のぶもりが、相当手を焼いているという。勝敗の行方は、しばし痛み分けというところだった。
 赤沢勢は畠山義英を十七箇所に残し、急ぎ槇島城へ帰還した。土一揆の武装した甲乙人こうおつにんらは数千を数え、東山山中の如意ヶ嶽にょいがたけに立てこもっているという。
 赤沢勢は直ちに出陣し、まっすぐに醍醐だいごを通り抜けて山科やましなへ入った。山裾に陣を敷いて隙間なく包囲すると、麓の道から大量の油を撒き散らし、ためらいもなく火をかけた。
 炎は風に煽られながら、ゆっくりと尾根を伝い、山腹まで燃え広がっていった。
 紅や黄色の森が火に呑まれ、黒煙に包まれていく。山中には如意寺という古寺の遺構があるはずだが、それも灰になってしまい、一つも残らないだろう。
 やがて一人、また一人と、山頂から燻し出された者たちが駆け下りてきた。ぼろ布のような小袖に炎が燃え移り、火だるまになった者も見える。赤沢勢は彼らを虱潰しに刺し殺していくだけだった。
 その度に、耳の奥へ焼きつくような悲鳴が上がった。
「季節外れの大文字だいもんじ焼きじゃ」
 面白くもなさそうに宗益はつぶやいた。
 
 十一月、前将軍義尹は、近江坂本まで南下していた。そこまで来れば、もはや京の都は指呼しこうちである。
 しかし与党の一角をなすはずの延暦寺は、とっくに比叡山上で灰となっていた。
 頼みの朝倉勢は、待てど暮らせどやって来ない。そこへふいに、数千の兵を率いて襲いかかった者がいた。
 近江守護の六角高頼ろっかくたかよりである。
 八年前、幕閣ばっかく挙げての江州ごうしゅう征伐を受けた本人であった。互いに改名しているものの、それで前将軍に対する恨みまで消えてしまったはずがない。
 かつての復讐とばかりに襲撃し、五百人程度の旗本をたちまち蹴散らした。義尹はまたしても正体なく、行方も知れずに逃亡していった。
 南北から京の政元を挟撃する、という壮大な戦略は、こうして水泡に帰したのである。
 天王寺に陣する畠山尚慶は、前将軍という旗頭を失い、細川方の大軍を前に孤立してしまうことになった。
「鼻垂れの雀踊りもここまでじゃ、畠山尾張守」
 舌なめずりをする義父の横顔を、新兵衛はそっと盗み見たのである。

                           ~(11)へ続く

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