青い浩

昭和の文学少年くずれではあるけれど、私には必要な時間だつた。いままで本は私をいつも救っ…

青い浩

昭和の文学少年くずれではあるけれど、私には必要な時間だつた。いままで本は私をいつも救ってくれた。

最近の記事

いつかの私とコアとの時間の物語

書き始めているうちに、これは、もしかすると順序が逆ではないかと気づきがあった。 いままでの一連の文章の小船が初めに錨をおろすのは巻頭に序文とするのが、流されやすい小船をとめておく、まっとうな手段だと思われた。なぜなら、題名に「本には交流がある Pー2 戯作」と、うたったが、どこに交流があるか?と思われたでしょう。川の流れと渚の話の何処に本との交流があるのか?と首を傾げたでしよう。 その訳をはつきりさせるためにも、ここに最終話の予定を逆行させました。そして、「本には交

    • いつかの私とコアとの時間の物語

      最終話として書き始めているうちに、これは、もしかすると順序が逆ではないかと気づきがあった。 いままでの一連の文章の小船が初めに錨をおろすのは巻頭に序文とするのが、流されやすい小船をとめておく、まっとうな手段だと思われた。なぜなら、題名に「本には交流がある Pー2 戯作」と、うたったが、どこに交流があるか?と思われたでしょう。川の流れと渚の話の何処に本との交流があるのか?と首を傾げたでしよう。 その訳をはつきりさせるためにも、ここに最終話の予定を逆行させました。そして

      • 「メイク・ア・ウィシュ 夢の実現が人生を変えた」を読んで思います。

        奇跡のようなような本に、出会えました。山元加津子さんのメルマガの紹介で知りました。「最後の大野プロジェクト」「メイク・ア・ウィシュ 夢の実現が人生を変えた」 何か直感がありました。すぐに読むべきだと直感しました。 アワテンボウの私は、本の購入依頼をしたにもかかわらず、Kindleにもあることを知り、そちらでも購入してしまいました。読んでみて、みんなの優しさ、そして子どもたちの夢がそれを動かした奇跡のような記録でした。いや、奇跡なんて安っぽく言ってはならない感動がありました

        • 本には交流がある 戯作Pー13 河口ー2

          川と海が交流する河口、その中でも潮汐で最初に交流がはじまる川口の光景。 海の水平線を見つめているのも想いが広がりますが、私は波打ち際の渚が大好きです。波の寄せ波、返し波のリズムが大好きです。 大好きな浜は汀の手前に小高い砂山がある。砂山を越えると、そこに海がとつぜん映画の場面暗転からのように明け、現れる。 その時、不思議に私は自由になったような解放された気持ちを持つ。ひとりで、げらげら笑ってしまうこともある。おかしいかな、でも本当だから仕方がない。 大潮のときが顕著ですが、

        いつかの私とコアとの時間の物語

          本には交流がある戯作Pー12 河口のことー1

          つぎは、海と繋がりが深い河口のことです。 深山から河口へ。 はじめは、岩石が川の旅を続けながら礫となり、前浜では波によって、砂や泥にまで細かくなり、前浜干潟、川干潟、三角州という生き物の、ゆりかごをつくる。潟は生物の食物連鎖のスタート地点かもしれない。底生生物のゴカイたちが、魚が、鳥がいて、またそれらを食べる私達がいる。 河口付近に点在している川の中の島々に見える中州も、自然の必然の造形として、生物に利用されている。朝でも夕でも薄暗い時間の島々に、なぜか心惹かれる。なぜか、懐

          本には交流がある戯作Pー12 河口のことー1

          山元加津子 著 「宇宙の足跡」を読みました。

          (あきらくんのお兄さん)とは、誰なんだろう?と思ったのです。名字で呼ばれるより、名前で呼ばれるより(あきらくんのお兄さん)と呼ばれるのがうれしかった、という。弟が生まれたことが嬉しかった、というのは、そこに愛おしい、たいせつにしたいつながりだと思いが、わきあがってきたのでしょうか。 それでも、私は思うのです。(あきらくんのお兄さん)は本当は、いったい誰なんだろうと.....。 山元加津子さんの初めての小説のなかの(あきらくんのお兄さん)は、もちろん、モデルは(ゆうきくんの海)

          山元加津子 著 「宇宙の足跡」を読みました。

          本には交流があるPー2 戯作11 縄文海進

          下流部の景色。 一面の田園地帯を大きく蛇行しながら広い河川敷をともないながら河口に向かって流れる川しもの景色です。 高い堤防に守られ辺り一面に田圃が広がっている光景ができる前は、いったい、どんな所だったのだろうと、子どもたちに混じって図書館で学んだ知識を元に老人は空想、夢想する。老人の遊びとしては面白い。 遙か遙か遠い縄文海進のころを想像する。そうだ、ここは黒潮が列島近くをまっすぐに流れていた温暖な縄文の時代の河口や海だったんだ。海辺近くの丘陵に貝塚があることからも、自然から

          本には交流があるPー2 戯作11 縄文海進

          本には交流があるP2ー戯作10

          いよいよ里川に入ってきますが、これは私だけでなくコアの記憶の時間の光景とも言えます。 山渓から平野部に流れていく水勢は川はばを広げ、おおきく蛇行して大淵を作り、さまざまの生き物の住処をつくり、岩を淵に沈め、石たちは更に転がりながら丸く小さくなって下流に河口に向かって旅を続けます。 川原に一休みしている小石は、子どもたちが、ときには石は水よりも軽いことを実験、証明できる遊び道具になります。 水切り。 飽きずに何回でも何回でも集中して実験を続けます。向う岸まで水面を、選んだ石が

          本には交流があるP2ー戯作10

          本には交流があるPー2戯作9 二重人格もOK

          図鑑も絵本のひとつと面白いと楽しんでいる自分に気づいて、思ったこと。 植物のしくみ、動物のしくみ、天気のしくみ、宇宙と地球、生死のしくみも、小学生の素直な好奇心で読めば、知識というより心の風船が元気に膨らむようだ。 しかし、この男がかつては(自分は自分が作るものだ)などと実存主義の一部だけを信条として我利我利に気負っていたなどとは人は想像もできないでしょう。 実際、この男は正直になつてきていた。知識だけでなく、物やことを知らないことばかりだと、素直に認めはじめたのです。でも、

          本には交流があるPー2戯作9 二重人格もOK

          本には交流がある。まとめ

          本には交流があるのPー2を今、綴っていますが、Pー1からの流れで安易にそうしてしまったのですが、どうも違うなと思い始めました。 きれぎれに綴った(本には交流がある)は、ひとつの、まとまりにしたい。というのは、フォローして頂いたり読んでくれている方がいるというのに、少し心配になってきたのです。強気と弱気の振れ幅の大きい二重人格の特徴です。心配というのは、本当に自分の身の丈にあったことを書いたのか?高慢な図々しいことを書いたのではないか、という思いでした。そもそも、自分を振り返る

          本には交流がある。まとめ

          本には交流があるPー2 戯作ー8 山道と満天の星 と霧雲

          ところで、山道やトロッコ列車の単線路を真夜中に歩いた経験をした人は稀だと思いますが、釣人は、目的の渓へ夜明けまでに間に合うように暗闇の道を歩きます。例えば新月で月は見えません。 けれども、心細くありません。街ではとうてい見られない満天の星が光り見守ってくれているように感じられるからです。 初めて、その夜空を見たとき、人は自分の内の何かが澄みわたって心が解放されるような、古代に戻ったような不思議な(時間)を全身で感じる。 二時間三時間歩いて、渓に降り、藪をこぎ、ウエーダにびっし

          本には交流があるPー2 戯作ー8 山道と満天の星 と霧雲

          本には交流があるPー2 戯作一7 渓からの出発

          さあ、渓からの出発ですが、その前に私の想像です。 大昔、山々にとてつもない大雨がふりそそぎ、山のはざまの低地に流れ込んで行った。その激しい流れは低地を山際を削り、落差にしたがって岩を礫を土砂を押し流した。次の洪水は大きな水たまりに溜まった土砂を下流に押し出します。水たまりは深くなって淵となります。 次からは淵の出口、淵尻から押し流された土砂、岩で凸凹の山なりの瀬が生まれる。 川は淵と瀬の繰り返し。激しい流れは内に曲がりながら淵を作り瀬を作り蛇行して下流に水と土と岩と養分を運ん

          本には交流があるPー2 戯作一7 渓からの出発

          本には交流があるPー2 戯作一6 川の道

          コアは川の流れに添ってカワセミの写しの姿で河口まで旅する遊びをニコニコして思いつきました。・・・としましたが、さてさて、ここで、ナレーシヨン(語り)であるべきなのに物語のルール違反をしたい欲が出てきてしまいました。元々エッセイ、散文詩小説、童話、ファンタジーとかジャンルにこだわることは苦手で、自由でいたい我儘な作り手でいたい自分が居ます。 それでも、自己満足して、書き出すまでに多少、迷いました。話の枠を壊す、つまり、逃げていないか、安易に走っていないかと思ったのです。 でも、

          本には交流があるPー2 戯作一6 川の道

          モナ森出版の映画[銀河の雫]を見て思う

          ネパールのバターランプの灯は(はじめはひとつ)の記憶を照らす標に想える。 宗教成立以前の遥か遠い太古のヒトが他を偲ぶ、涙が生まれ、自己以外のために祈る行為が生まれたとき、天とつながることを知ったのではないか。祈りの時、人は真底、優しい自由な時間を持っているのかも知れない。 もつともつと私達は素直にならないといけないのだろう。 銀河の雫のひとつの星の地球の(はじまりはひとつから)の記憶。心の奥に持っている、最初のひとつだった記憶。 山元かっこちゃんは、大切な、でも忘れがちなこ

          モナ森出版の映画[銀河の雫]を見て思う

          本には交流があるP2 戯作1ー5 コアの物語 溪から河口へ

          コアは今は鳥になって遊んでいます。それには、こんな経緯があります。鏡のような川面に空や森の草木が映って、二つの景色があり、水面のそれは少しの漣で、ゆらいで、かたちの変化が面白い。そこへ川下から鳥が飛んで来ました。宙を実際に飛んでいる鳥が水面に映って、うりふたつの鏡の鳥が拵えられました。 コアはこの時を見逃しません。ユカイな遊びを逃しません。 ちゃっかり、映りの鳥になって、水面を飛翔して楽しんでいる。写しの鳥になっているコア、重さという実体はないけれど、コアの無邪気な想いみたい

          本には交流があるP2 戯作1ー5 コアの物語 溪から河口へ

          本には交流があるP2  戯作1-4風船の交流

          カゲロウに見せかけた毛バリをふっている釣り人がいたのです。その釣り人は頻繁にこの沢にやって来ます。 ところが、この日は、どうもいつもとようすが違います。一度も魚を掛けません。けれどもなぜか、残念そうでなく、悔しそうでなく、かえって楽しそうにみえる。水の中から見れば釣れないわけが判ります。釣鉤のフトコロを切ってしまったものを使っていました。その掛かるはずの無い毛バリで竿を振っていたのです。 ときどき、テンカラ竿をふる手を休め、空を見上げ雲の形を面白がり、何かうなづいていた。新緑

          本には交流があるP2  戯作1-4風船の交流