山元加津子 著 「宇宙の足跡」を読みました。
(あきらくんのお兄さん)とは、誰なんだろう?と思ったのです。名字で呼ばれるより、名前で呼ばれるより(あきらくんのお兄さん)と呼ばれるのがうれしかった、という。弟が生まれたことが嬉しかった、というのは、そこに愛おしい、たいせつにしたいつながりだと思いが、わきあがってきたのでしょうか。
それでも、私は思うのです。(あきらくんのお兄さん)は本当は、いったい誰なんだろうと.....。
山元加津子さんの初めての小説のなかの(あきらくんのお兄さん)は、もちろん、モデルは(ゆうきくんの海)でしょうが、でも、今度、ゆうきくんではない(あきらくんのお兄さん)とは誰なのか。
コミュニケーションは発達障害があると苦手で強いコダワリがあるというが、障害がないといわれる人でも、社会では得意でない人の方が多い、コダワリが強い人がいっぱいなのにと、73歳の私は、自分の人生を振り返って思うのです。例えば、交流分析でいう[キックミー]などはどう説明するのか。そして、一般的に云われる
(....の不自由な)との表現もヘンな違和感があるのは本当は誰も感じているのではないのか?たとえば高齢になれば、[・・・の不自由な人]になっていくのが当たり前です。遅いか早いかだけ、ということに気づけないか、気づいていないふりをしているのか。
そうして思った。(あきらのお兄さん)は誰でもない、つまり私のことでもあるのだと気がついた。
安易に使われすぎているコミュニケーションという言葉だから、わかりにくくなっているかも知れない。作者のいう「両手を広げてつながっている」というのがコミュニケーションの本質ではないのか。
海にも山にも空にもつながる、キラキラ雪との交流。つながりがあれば、「だから、大丈夫」と(まお)は言う。そして、この物語の(まお)は、将来、学校の教師になって、あきらのお兄さんたちの友達にもなり、自分もひとも、大好きが一番大切と、私達が忘れやすい気づきをうながせてくれるに違いない。
付記
「ゆうきくんの海」は私が15年前に読んだ山元加津子さんのエッセイ集ですが、この本も、読むひとのステージをかえてくれます。たくさん泣いて思うのは、涙は多くの気付きをあたえてくれます。