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本には交流があるP2  戯作1-4風船の交流

カゲロウに見せかけた毛バリをふっている釣り人がいたのです。その釣り人は頻繁にこの沢にやって来ます。
ところが、この日は、どうもいつもとようすが違います。一度も魚を掛けません。けれどもなぜか、残念そうでなく、悔しそうでなく、かえって楽しそうにみえる。水の中から見れば釣れないわけが判ります。釣鉤のフトコロを切ってしまったものを使っていました。その掛かるはずの無い毛バリで竿を振っていたのです。
ときどき、テンカラ竿をふる手を休め、空を見上げ雲の形を面白がり、何かうなづいていた。新緑の木々を見て微笑みかけて感謝しているようにも見えます。
釣り人という人種は寂しがり屋が多いものです。人恋しさいっぱいなのに、独りになりたい矛盾のひとです。人づきあいが下手なのかも知れない。
川上に滝があります。この滝の裏側にカワガラスの巣がある。
釣り人は滝を越えようと高巻きの必要
から、斜面の岩に足をかけました。その時です。岩は釣り人の体重に耐えかね、釣り人と一緒に滝の深い淵に落下していった。その時、コアは沈んでいく釣り人より早く水底にカワセミのように一直線に移動した。
そして自分のいる水玉を広げてひろげて、大きなウキになって釣り人を支えました。コアはささえながら祈っていました。(思い出して想い出して!)と。
釣り人は泳ぐことはしませんでした。底に石のように沈んでいきたいようにもみえます。その人の中にも風船がありましたが、とても弱って小さく萎んでしまっています。
けれども風船の中からコアに呼びかけるように声がきこえます。
「この人は生きるのに弱くて弱くて、山の奥に消えたいと、今日ここに来ました。これまで生きることに、つきあって応援してくれた水や草木や雲に、ありがとうを言いながら森の奥に去りたいと決めてきた意気地なしの気取り屋さんです。でも、わたしは、この人を大好きなの。このひとの心でいたい」とコアには、はっきりと聞こえました。
コアはその小さく弱った風船に、自分のこころを近づけました。ふたつになった風船からは浮力が増しベクトルが生まれ釣り人を底波から浮き上がる波に乗せました。波の流れは、岸辺に彼を運び、浅瀬の砂にねかせました。釣り人を暖かい陽射しが包み込み、コアは岸辺の蕗の薹に身を変え、見守っていました。「元気になるように元気になるように」
励ましの祈りの時がながれ、先の風船からの声がきこえてきた。
(ありがとう。わたしはこの人が愛おしいんです。わたしのイノチとこの人のイノチがやっと一つになったみたい。この人の心に入れたみたいです。生きていきます。)
コアは嬉しくてうれしくて安心して、蕗の薹の種子になり風に乗って飛び立ちました。
残された釣り人は目覚めて、何かしばらく考えていましたが、起き上がり、空と緑と流れを見つめていましたが、目には溢れるものがいっぱいでした。堰を切ったように大声で泣くじゃくりました。
彼の心を日の光がてらしたように心の囚われの闇から出られたようでした。
それまで彼を暖めていた陽光が彼の心の体温になったのです。暖かい涙の温度に彼自身が気がついたのです。失ってはいけないものに気づきました。自分のなかの風船を大切にすればいいことに気づいたのです。


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