【雑感】『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』から見る社会②
こんにちは!エルザスです。
前回に引き続き、
『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』
の著者、三宅香帆さんへのインタビュー記事について、エルザスが感じたことを書いていきます。
前回の記事はこちら↓
三宅さんへのインタビュー記事はこちら↓
本書を書いた理由について、三宅さんは「労働と文化的な行為(読書)をどうすれば両立できるのかを可視化しようと」思ったと語っています。
その処方箋として重視されているのが、「ノイズ」と「半身」の姿勢です。
ノイズと半身の姿勢
「ノイズ」と「半身」の姿勢の効用には大いに共感します。
ノイズの効用
三宅さんの「ノイズ」に関する主張に触れて、私は名著『思考の整理学』のセレンディピティの話を思い出しました。
ある特定のテーマに関心がある場合でも、その周辺部にある別のテーマが視界に飛び込んできた時、両者が予想もしなかった化学反応を起こして、当初の中心テーマにとって重要な気づきを得られる。
そういうことって結構あります。
仕事に煮詰まったとき、思いきって気分転換をすると良いアイデアが浮かぶことがあるのは、決して偶然ではないでしょう。
そういうセレンディピティを起こすためには、四六時中仕事のことばかり考えていてはかえって良くない。「ノイズ」の重要性は、私自身の経験からしてもとても共感できる内容でした。
「半身」の姿勢の提言
全身全霊ではなく「半身」くらいで仕事に臨むこと。かなり思い切った提言だと思います。
しかし、これは最近私が考えたことにかなり近いと思いました。
先日、マンガ『ARIA 完全版』の読書感想文としてこんな事を書きました。
「半身」の姿勢という概念は、私が『ARIA』を読んで感じたこと、つまり「私たちはもっとゆったりするべきだ」という考え方に合致します。「脱成長」と言い換えることもできるでしょう。
そんな「半身」の姿勢を提言する新書が、かなりの部数売れている。特に若い世代に読まれている、というのが驚きです。
若者は映画を早送りで観るのか、それとも「ノイズ」を求めるのか
2022年、『映画を早送りで観る人たち』という新書が話題になりました。
Z世代など若者世代を中心に、「タイパ至上主義」が広がっていることが指摘されました。
社会の変化が広く認識されるきっかけになった本と言ってもよいでしょう。
それから2年。
タイパ至上主義であったはずの若い世代が、今度は「ノイズを求めて読書をしよう」と提言する新書を手にとっている。
これはタイパ至上主義への反動なのか、あるいはそもそも「若い世代」で一括りにすることに無理があって、同じ若い世代の中でも別々のグループの動きに過ぎないのか。
そして、これからの社会全体の方向性は、タイパ至上主義かノイズ尊重主義か、果たしてどちらが優勢になるのか。
社会学や時事考察のテーマとして面白いと思いました。
私個人としては、タイパ至上主義は捨象されるものがあまりにと多すぎると感じます。
もちろん個人として能力を伸ばす努力はするべきだし、社会全体として生産性を上げる取り組みはするべきだとは思います。
しかし、それと切り離された余暇の時間には、あえて一見非効率なことに興じてみるほうが、人生は豊かかもしれません。
私は楽器が趣味で以前はアマチュアオーケストラに所属していました。
しかし、オーケストラ活動はお金も結構かかるし、時間も相当かかる(全体練習のほかに絶対に個人練が必要)ため、「コスパ・タイパが良くない」と感じるようになり、コロナ禍を機に離れてしまいました。
今思えば、演奏が好きでやっていた趣味なのに、そこに「コスパ・タイパ意識」を持ち込んだのはナンセンスだったかもしれません。
余暇の時間にする趣味にまで、経済的合理性を求めてしまっていた。
それは一見正しいようで、実は本当の豊かさから遠ざかる行いだったかもしれない。今はそう感じます。
まあ、いまはnoteが趣味なので当分オーケストラに戻る気はないのですが🥹
皆さんは「コスパ・タイパ至上主義」と「ノイズ尊重主義」、どちらが優勢になっていくと思われますか?
良ければコメントしていってください!
ではまた!