見出し画像

雑感記録(283)

【「あそび」の重要性】


些か唐突な話だが、僕はポジティヴな人間ではない。

最近は皆が皆、どこか精神を病んでいる。何というか僕の個人的な肌感だけれども、病み過ぎて麻痺している時代。そんな印象を僕は持っている。ネットニュースを見れば、どうでも良い些細なことで芸能人がSNS上で叩かれ炎上。ネット上の誹謗中傷の嵐。そして実社会に於いては顕在化するいじめよりも、秘匿化されたクローズドないじめが横行する。個人単体で見るのならば、うつ病患者は増加傾向にある。各種メディアでそういった情報が流される。

実際、僕はうつ病ではないと思う。多分。確証は全く以てない。

と言うのも簡単な話で、僕だってこの現代社会に生きている人間である。多少なりとも落ち込んだり、気に病んでしまうということは毎日ではないにしろ感じるところはある。だが、それで私生活に多大なる影響が出ていない、テレビやインターネットに流れるうつ病に罹患した人々の状況とは程遠い状況である。まだまだ身体が動けるうちは健康なのだと思いもしたが、そもそも「身体が動けるうちは健康だ」と考えてしまうその状況こそが不健康そのものを示しているような気がしてならない。

僕等はみんな病んでいる。


いきなりこんなネガティヴな話を書こうと思った訳ではない。

僕は毎朝、「無名人インタビュー」を読むのが日課である。実際、僕も参加させていただいた。それについては過去の記録で纏めてあるので読んでいただきたい。それはともかくとして、今日もいつも通りに記事を読んでいたんだけれども、個人的に凄く面白かった。内容についても僕がここで書くよりも読んでもらう方が良いだろうと思う。

これを読んだ時に、純粋に「凄いな」と思った。それで、この方がカウンセラーもしているということだった。その話を読んでいると、純粋に言葉にその人が没入している感じという表現になるのだろうか。そんな印象を受けた。この人の経験に裏付けられた言葉…と書いたが「裏付けられた」と書くとエビデンス主義みたいになるので何だか嫌だな…。いずれにしろ、この人の話す言葉には重みみたいなものがあった。

だから、「明るく生きよう」というようなニュアンスで語られるその殆どに僕は苦しくなってしまった。些か言い方は失礼になるが、この人が語る「明るくなろうよ」と純粋に何も考えない馬鹿が「明るくなろうよ」と言うのでは雲泥の差がある。同じ言葉でも語られ方や、そこに至るまでのプロセスによって変容をいくらでも遂げてしまう。その言葉自体、語られる言葉に僕は恐ろしくなってしまった。

何だか恐ろしく僕が些細なことで悩んでいて、気に病んだり、悩んでいることがどことなく「あたしに比べれば」みたいな感覚を受けてしまった。だが、この記事にもある通り、カウンセラーはそもそも病んでいる人を救う人な立場な訳である。言葉に自己を没入させて語ることは必要不可欠なことなのだと思う。カウンセラーという人は凄いが、しかし健康と不健康の狭間を揺蕩っている僕にとっては苦しいものがある。


これも最近の記録で少し触れたが、僕は二項対立が好きではない。

僕はここが肝心だと思っている。「あそび」が無いなと僕は感じている。実はこの「あそび」という言葉は、先日の記録で引用した谷川俊太郎『ことばを中心に』の中に収められている「ことばあそびをめぐって」というエッセーからの請売りである。この「あそび」というものは、工学などでしばしば使われる用語でもある。簡単に、別の言葉に置き換えてしまうのならば「隙間」「緩み」のことを指す訳だが、その前提が大切になるのでそこも書いておくことにしよう。

 *言語は大変複雑な構造をもっていて、簡単にわりきることはできないんですが、かりにそれを実用的なことばと非実用的なことばという軸で分けてみたとすると、たとえば法律の条文、商売のほうの契約書、自然科学の論文、新聞記事、器具の説明書など、ふだんの生活の中で耳にしたり目にふれたりすることばの多くは、いわば実用的なことばですね、私たちの日常会話の大部分も、そうだといえる。だけどたとえば、そういう日常会話の中でも、ちょっとした冗談を言って人を笑わせたり、その場の雰囲気をやわらげたりということもあるでしょ。
 そういう冗談はべつに実のあることを伝えているわけじゃないんだけど、建具屋さんがふすまと敷居の間に適当な〈あそび〉をつくるように、人間の心と心の間にゆとりをつくる働きをするんだと思います。これはすでに広い意味での〈ことばあそび〉と言ってもいいんじゃないでしょうか。考えてみると、赤ちゃんが初めて聞くことばは、決して実用的なことばじゃありませんね、〈いないいない、ばぁ〉とか、〈ちょちちょち、あばば〉とか、母親は意味のない〈あそびことば〉で我が子に話しかける。

谷川俊太郎「ことばあそびをめぐって」
『ことばを中心に』(1985年 草思社)
P.238

 *基本的にはあらゆる言語に内在しているあそびの部分を、できるだけ裾野ひろげてとらえてゆくべきじゃないでしょうか。作品というより、ことばの働きかたの重要な一面とでも言えばいいのか。その裾野の上のほうに文学作品を、ことに詩をすえてみることも可能でしょうね。私自身は主として音韻の面から、現代詩の世界でもうひとつの道(オルターナティヴ)を手さぐりしながら、〈ことばあそび〉にぶつかったのですが、その道のむかうところは意外に広く深いということに、だんだん気づいてきています。
 個性とか自己表現を重視する、近代芸術の考えかたが唯一のものではなく、自分の内なることばが、自分の外にあることばと交流するところに言語の働きがあり、ことばはむしろせまい自我を他者にむかって解き放ってゆくもので、そう考えると自分の貧しさにくらべて日本語の宇宙が歴史的にも地理的にも実に豊かだということが分かってきますし、また印刷メディアだけがメディアではなく、肉声による交流が、特にことばあそびにとって、欠くことができないということもあきらかになってきます。

谷川俊太郎「ことばあそびをめぐって」
『ことばを中心に』(1985年 草思社)
P.240

具体例を出すと鉄道のレールなんかがそれだ。寒暖差によってレールの金属が伸縮する。つなぎ目の部分に意図的に「あそび」を入れておくことでレール同士が衝突し湾曲してしまうことを避け、脱線しないようにしているのである。あるいは木材なんかもそうだ。熱で膨張した際に素材が衝突しあって生まれることの歪みや破損の防止を目的として「あそび」という「隙間」「緩み」というものを意図的に作っているのである。

それで話は戻る訳だが、二項対立ともなるとこの「あそび」という空間が存在しない。全てが二分のうえで物事は語られてしまう。善か悪か。正解か不正解か。白か黒か。彼らは常に「あそび」が無いから衝突し、どちらか一方が破滅あるいは敗北するまで徹底的にしなければならない。そうして膨張したものは1本の論理として君臨してしまうのである。

だから、僕は先程から何度も書いているように「あそび」が肝心なのである。意図的に「隙間」を作ること。これが実は今の社会に求められていることであって、これを容認できない社会であるからこそ、病める社会になっていったのではないか。我々は日本語という多言語に比べ曖昧な表現を多く持つという特性を持ちながらも、それを排斥しようとする感覚が僕にはある。個人的な感覚だけれども、病める社会というのは現代に於いて考えてみるならば、言葉の危機に直結するのではないかと先の無名人インタビューの記事を読んで考えてしまったのである。


僕は先日SF小説を読んで、所謂「エビデンス主義」みたいなことを書いた。ああいう傾向が言葉の「あそび」というものを急激に激減させているのではないかと考えているのである。もう少しこれについては話をしよう。

evidenceとは証拠、根拠といった具合だろうか。何か物事を語る際には重要なファクターとなる。ある意味でこれに裏打ちされてこそ語ることに説得性を持たせるのである。例えば「今、日本は高齢社会だ!」と言うけれど大概それに対して「その根拠は?」と口癖のように言う。ある種のこの手のやり取りは紋切型であると言ってもいいだろう。

更に、昨今はテレビでのメディアによる偏向報道や、SNSなどでの過剰な投稿、所謂「フェイクニュース」とか言われるもの。そういう不確かなものが溢れる中で、確かなものを求める方法としてエビデンス、つまり「その根拠は?」という問いが常に僕らの背後には隠れているのである。

しかも、そのエビデンスの中で、「数字」が重宝される。これはいつだったかの過去の記録でも触れたが、数字と言うものは簡単に言えば「相対的差異」を生み出し、「絶対的差異」を隠ぺいするものであるということである。これは具体例を挙げると容易に理解できる。偏差値の問題である。恐らく皆さんも高校生の時分に経験したのではないだろうか。「○○大学に合格するには偏差値があといくつ足りない」とか「おれの偏差値60だ。凄いだろ。」とか、ある種、偏差値至上主義みたいな部分がある。

だが、何でもかんでも偏差値で物事の全ての優劣が決まる訳では決してない。当たり前だ。それに偏差値だけでは測れない学力と言うものだって当然ある訳だ。だが、それを一旦「数字」を利用して更地の状態にして、そこで差を作ろうというのが偏差値であり、「相対的差異」である。この「絶対的差異」というのはここまでの流れでどことなく推測できるように、「数字」では還元できないその何かである。

つまり、「数字」というものはそういったある種の個別性みたいなものを「数字」と言う場に於いて平面的に並べて差をつけるものである。

それで、エビデンスとしてグラフであったり、○○人とか、○○gとか色々と表現される。それを見ると僕等は無意識のうちにだけれども、明確に眼に見えていると錯覚してしまうのである。目に見えない事象ですらもどこか具体性を以て眼前に現れる。それが正しくSFの世界である訳だ。まあ、SFの話はまた本を読み終えてから書いてみようと思う。

ここで言いたいことは、つまり眼に見えないものを可視化したいという欲求があり、エビデンス主義というのは正しくその二項対立の所産であると僕は考えている。所産であり、二項対立を強化する装置みたいなものだと思っている。だからそこには数字でなくとも、言葉でも何よりも正確性や正当性が求められる。そしてお互いがお互いに、お互いの論理で話をし続ける。そこに「あそび」など入る余地もない。


そう言えば、今はどうか知らないがAbemaTVだったろうか。論破しあう番組が人気を博していたような記憶がある。また、「ディベート」という言葉が一時期至る所で散見されていた記憶がある。僕もAbemaTVのそういう番組を見て正直に言えば「これの何が面白いんだろう」と思った。何というか、そんなに言い合って愉しいのかと僕は思ってしまった。

それでふと、「ディベート」って今まで生きてきた僕の生活圏には一切なくて、どこかから輸入してきたんだろうとずっと思っていた。案の定、それは間違いではなく、そういった形式自体は西洋発祥というか、まあ、アメリカなんだろうな。そこで盛んにどうやら行われているらしい。最近はYouTubeなどでも色々とそういう映像が眼に入るので、分からないでもない。

僕はその土壌をあくまで言葉に全て担わせるつもりはないけれども、それでもこれは日本には合わないだろうと思っていたし、その気持ちは今でも変わらない。英語と日本語の構造というか、その担ってるものが違う訳で、それを「西洋は進んでいる。だからそのスタンダードに合わせよう!さ、みんな!ディベートをしようじゃないか!」と言っている人を見ると呆れるを通り越して、哀しくなる。

それで、僕が実は注目しているのが「対談」「対話」というものである。

「座談会」と言った方が良いのかな。実際、これは東浩紀の『新対話篇』を読んで本人も言っていたし、僕もそれを読んでそう思ったとうことだ。それに國分功一郎との対談の最後がそんなような感じで、僕には凄く響いた。

別にお互いが仲良しこよしでやっている、という訳では無い。ある意味でクローズドな世界観になってしまいがちなのかもしれないけれども、それでもこの輪を広げていけば、それは大きな共同体にはなる訳だ。こういう「座談会」というのは明治頃から文学の界隈では普通に行われてきていて、外国には見ない日本特有の現象であるらしいということを初めてこの本で知る。そうしてふと自分も、「そういえば、外国の作品ってインタビュー集が専らなんだよな」とどこか納得してしまった。

そんな話はさておき、僕はこの「座談会」「対話」というものこそ「あそび」を作る格好の場所であり、この場そのものが「あそび」になるのではないか。そう考えるようになった。言ってしまえば別のコミュニティみたいなものだ。サークル活動?いや、ゆる~いサークル活動みたいなものだ。「相田みつを」マインドと言ってしまうと、些か陳腐な気がしなくもないが、でも実際そういう土壌を持った場所であることにこそ「あそび」があるのではないか。

僕は個人的にだけれども、ディベートなんかよりもこっちの「座談会」スタイルの方が日本人には性に合っている気がする。西洋は最初から二項対立にする。つまり、ハナっから正面衝突する気満々で議論をするのである。言ってしまえば「喧嘩上等!」な感じだ。しかし、「座談会」はどちらがどちらのスタンスであるかはある程度取ってはいるものの、「まあ、おまえさんのそういう気持ちも分からんではないよね」という曖昧な感じが漂う。

僕は個人的に日本語というのは至極曖昧な言葉で、その曖昧なニュアンスを多用に表現できるから好きなんだけれども、正しくその言葉性という意味でも「座談会」って確かに日本的なんだなと思う。僕が対談集とかが好きな理由ってやっぱりそこなのかなとも思ってみたりする。


それで、延々と話が遠回りしてしまったのでそろそろ話を戻そう。

今、社会というのは全体的に病んでいると思う。それは経済的にとかでも勿論そうなのかもしれないが、とかく皆が皆、精神的に病み過ぎているのだと思えて仕方がない。それは僕は単純に「あそび」をしてこなかったのかなとやっぱり感じてしまう。ここでの「あそび」はplayの「あそび」も含蓄している。

いずれにしろ、今の世の中は僕が思うにだけれども二項対立がどんどん進んでいる社会だと思う。貧困/裕福、善/悪、正解/不正解…と言ったように僕等はこの二軸で生きている。だが、その2つの間には「あそび」がある訳で、そこをないがしろにしてしまうから、皆病んでしまうのではないかと僕は考えている。とりわけ、言葉という観点。奇しくもどこかの国のフロイトという人が『精神分析学入門』という本でノイローゼ患者の言葉から精神を分析することを書いたように、言葉と精神性というのは密接に関わり合っているはずだ。

だから、二項対立の中では常に言葉は乱暴で、自分たちの論理の中の言葉で、それが「正しい」と思って発しているのだからこれがまた苦しい。サディスティックな言葉が溢れている。それで充満している社会である。直截的な社会。僕はここ最近物凄く感じている。言ってしまえば、自分の経験から学んで来た言葉というのもある意味では暴力っちゃ暴力だ。さっきの無名人インタビューで「どん底だったけど、私も精神疾患を抱えていたけれども、ここまで出来るようになるから」という旨のことを仰っていた。

確かに凄い。僕も本当に凄いと思った。だけれども、僕は同時にその凄さに僕はなれないという現実を突きつけられている訳だ。「貴方は私じゃない」と間接的に言われているようなもんだ。憔悴しきっているならば僕ももしかしたら救われるかもしれない。しかし、この状態ではそれは僕には暴力にしかならない訳だ(別にその人が決して、全く以て悪い訳ではないし、先に何度も書いているが凄い人だということはしっかり断っておく)。

今ここまで書いていて、自分自身の経験「から」語るというのは、それこそエビデンス主義だと気付く。そうして、これが正しく目下、僕の敵である自己啓発本へと接続していくことになるのだが…それはまた、後日にでも書くことにしようではないか。

とかく、僕らはそういう二項対立、しかも意識のその奥底に横たわっている物が顕在化する為に病む。そうして、そこから逃げようにも同じ構造がより鮮明に目の前に現れる。余計に病む。では、どうしようか。

僕の今のところ目指しているのは、「あそび」を持つこと。

さあ、皆「あそび」を持とう!

疲れました。

よしなに。

この記事が参加している募集

#スキしてみて

526,955件

#読書感想文

189,460件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?