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雑感記録(117)

【年々薄れゆく熱】


ここ数日、仕事を早めに切り上げていることもあり時間が確保出来ている。また蔵書整理のお陰もあってか、本棚の奥底に沈んでいた本たちを読む機会が増え、久々に纏まった読書が出来ている。これは非常に嬉しいことだ。しかし、本を読むことばかりに時間を取っていられない。色々と準備もしつつというところではある。

それで最近は大澤真幸さんの『経済の起源』を読んでいる。あと、この間神保町で購入したサイードの『ペンと剣』、ハイデガーの『ニーチェ』、吉増剛造さんの『詩とは何か』を読んでいる。しかし、乱読は愉しい。繋がっていないようで、実はどこか繋がっているということを探り当てるこの途方もない作業が面白かったりする。

実際に大澤真幸さんの『経済の起源』を読んでいるのだが、読んでみてまず感じたのは「いや、これ柄谷行人の『世界史の構造』の延長やん!?」だった。だから結構すんなり自分の中で腑に落ちることも多かったし、色んなコミュニティの交換様式であったりとか、「互酬性」という言葉もすんなりと受け入れることが出来た。あとは近内悠太さんの『世界は贈与でできている』という本を読んでいたことも結構すんなり入る足掛かりとなったことは間違いないだろう。


些か唐突ではあるが、僕はこの1年で小説が読めなくなった。厳密には「読まなくなった」という方が正しいだろう。読みたい気持ちはあるのだけれども、中々手が小説に向かない。無論、自身が持っている本で好きな小説であれば読むことが出来るのだけれども、いざ新しい小説となると中々自発的に読もうとはならない。大学の友人のオススメやInstagramでのフォロワーさん、noteのフォロワーさんが紹介している作品で「これ読みたいな」と思ったものしか読まない。

しかも、最近の作品ではなくて昔の作品が中心である。要するにオススメされている作品でも、とりわけ昔の作品を好んで読む傾向にどうやらあるらしい。……こんな書き方をしてしまうと「昔の方がよかったわ…」とほざいている嫌な奴みたいな感じがする。ただ、僕にはそれが真理である。僕は小説に於いてはある意味で老害(という言葉は嫌いだが、ここでは便宜的に使用する)なのかもしれない。

ハッキリ言ってしまえば僕は天邪鬼で、所謂「読まず嫌い」なだけなのだ。これは過去にも書いた気がするが、変なバイアスが常に僕に纏わりついている。言い訳じみた、というかもはや言い訳なんだが、非常に脂の乗った時期の文学にどっぷりと触れ続けていたからこその弊害であるというように思われて仕方がない。うん、只の言い訳だ。

冷静に思い返して見て、僕はいつ頃からそういう風になってしまったのだろうと考えてみる。1つの大きなキッカケは大学時代、そしてもう1つの大きなキッカケは村田沙耶香の『コンビニ人間』を読んでからだった。これは鮮明に覚えている。あの何とも言えない感覚。


丁度今日、芥川賞と直木賞の発表があった。みんなこぞって注目する訳だが、正直な話をすれば僕はもうそういったものに興味関心が薄れてしまった。勿論、賞に選ばれることは凄いことだとは承知している。僕も過去に自分で小説を書いたり詩作をしてみたりしていた訳だから、創作することの難しさは重々承知しているつもりである。ただ、それでも何だか小説に対する熱というのが薄れているような気がしてならない。

もうこの際だから書いてしまうが、僕は今、この時代に於いてこの時代の小説を読むことの意味というのがよく分からなくなっている。これも前に書いたが、どこか商品性を帯びた小説に興味関心が薄れてしまった。

万人に読まれる小説というのは確かに凄い。それ程までに数多くの人たちを魅了し、読者の心を捉え、彼らの何かを変え得る何かを与えているのだから素晴らしいものがある。だけれども、何だか僕はそういう小説に飽き飽きしてしまったというか。これも何て表現したらいいのか分からなくて、こうしてタイピングしながら悶々としている訳なのだが…。

こういう風に書くと「お前は斜に構えている」「ただカッコつけたいだけだろ」と思われても仕方がない。僕は芸術は独善的であっていいと思っている。だから、こう思われても別に構わないというのが本音である。認めよう。僕は「斜に構えている」し「カッコつけたいだけ」なのだ。通ぶっていたいのだ。だから、僕は僕のやり方で小説に対する熱を持っていればいいと思うようになってきた…いや、しているといった方が正しいだろう。


僕の小説に対する熱は年々、減少傾向にある。それは厳密に言えば「最近の小説に対する熱」は年々減少傾向にあるということだ。どれを読んでも満足出来なくなっている。それは少なくとも社会の何かを変え得るような力を持っていない、どこか商品性を帯びてしまったことによることなのかもしれない。

烏滸がましくも苦言を呈するなら、作品そのものが良くて読まれるのではなく、賞を取ったからその作品が「良いものである」と判断されて読まれるという傾向に今はあるのかもしれない。何というか「賞」というものが権威性を持ってしまい、それが1つの中心点となってそこに全諸力が集中しているような気がしてならない。

無論、小説家になりたいということであれば書くことが職業としてなってしまう訳で(これは当事者がそれを意識してもしなくても、"印税"というもので不可避的にそうなってしまう)、そうすると書きたいという欲望がどんどんすり替わっていく。そうすると面白みもへったくれも無くなる。

だから僕はいつも感じているが、自身が書きたいことを書き続けるためにも技術が必要だし大切であると思われて仕方がない。この技術というのは、何もリカルドゥーやジュネット、あるいはロシア・フォルマリズムのようなテクスト論的なものだけではなく、それは創作者自身の思考の技術ということである。常に目の前にある日常をどう捉えているか、そしてそれに対しどう向き合い、考え続けているのか。これもまた小説の技術である。

小説という媒体の脱商品化。これが僕にとっての近々の課題なのかもしれない。極論言ってしまえば、こういう場、例えばnoteとかでも実際に小説を投稿している人も居るし、他のサイトで投稿している人も現にいる訳で、こういった場所での作品と言うのは脱商品化された生の小説のような気がする。

そこから書籍化されるとなると、それはまた別の話になってしまうのだろうが…。


貨幣を持ってしまったが故に、何だかややこしいことになっているような気がしてならない。元々は高貴な人たちの究極の暇つぶしであった文学というものが、商品化されてしまった。仲間内でワイワイやっていた世界から広がり、社会全体を巻き込んでしまった訳だ。

そうなってしまったやいなや、必然的に社会と関わらなければならなくなる。そもそも言葉を使っている時点で関わらざるを得ないと思うのだけれども、最近の小説の関わり方が何だか露骨で嫌らしく感じてしまう。何というか何か事件を起こさないと気が済まない。それがちょっと特殊であればあるほどいい。そして「分かる人にだけ伝われ」と言うのがもはや見え見えで。多様性が叫ばれる昨今には持って来いの土壌となっている。

無理矢理に合わせるぐらいなら、自分の書きたいこと書けばいいじゃんって思う。別に僕が偉そうに言えた義理は全く以てないんだが。

年々薄れゆく小説熱の中で、僕は何のために小説を読むのか。まだ批評を読む方が表現に富んでいて示唆にも富んでいる。ニーチェの『ツァラトストラはかく語りき』を読んだことがあるか?あれは何を言っているかよく分からないことがあるが、あの表現に心奪われることはある。なまじ変な小説を読んでうんざりするぐらいなら、批評やら哲学やらを読んで頭を抱えながら、それでも表現の美しさに心奪われる時間の方が有意義だ。

それでも、僕は僕の愛した小説はこれからも読み続けるだろう。

この年々薄れゆく熱に歯止めをかけてくれる小説に出会いたい。

人任せもいいところだが。

よしなに。




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