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雑感記録(72)

【定期的自己フィードバック】


小さい頃は無邪気なもので、何かでどこかの誰かが何かをしてくれている感覚を知らぬまま生きている。人は生まれた瞬間は主体的存在であるが、成長していき高校生ぐらいまではその主体性を奪われたままそれに気づかず生活している。僕もご多聞に洩れずそういった人間であり、正直この年齢になってその弊害を感じながら生きている。しかし、今更戻れるかと言われるとそれは無理な訳で。それを軌道修正することは出来るのだろうけれども、染みついてしまったものは中々改善するのは難しいと感じている。

僕は雪を恨めしく思う。それは僕に上記のことをヒシヒシと感じさせるからである。小さい頃、雪が降れば「ああ、雪だ!雪だるま作ろう!」と歌う訳ではないにしろ、そういう気持ちになり元気よく外へ飛び出した。周りで何が起ころうと関係なく、ただその愉しさを味わいに何も気にせず外へ向かう。手袋をせずただ雪に向かって突っ込み、雪合戦やら何やらをして愉しむ。脇では大人たちが必死に雪かきをしているのなんて関係ない。

僕は年齢を重ねて、そうしてそんな雪そのものの美しさや風情ある景色を愉しむ余裕を忘れ、いや否応なく忘れさせられ大人たちの側へまわってしまった。「なんで雪降るんだよ!」ともはや怒りの感情すら湧く。通勤早めなきゃとか、職場の雪かきしなきゃ、帰ったら家の雪かきしなきゃ……とそういったことに煩わされる。しかし、誰かがやらねばならぬ。愉しむ余裕なんてのはない。ただ安全に生活することのみを考えていかなければならない。そこに愉しみの一かけらもない。雪かきも業務だ。

「雪は好きだが、嫌いだ。」多分これが今の僕に1番しっくりくるだろう。雪の降り始めた頃のあの静けさは凄く好きだ。所謂、「場末感」を感じるからだ。この世の終りとまでは行かないが、人があまりおらず聞こえてくるものは限られる。眼に見える雪の降りしきる景色とその降りしきる雪から微かに聞こえてきそうな無音。あれが堪らなく心地が良い。しかし、時間が過ぎて行けば行くほどに「ガリガリ」という音と共に現実に引き戻されてしまう。このもどかしさ。


今日も今日とて午前中、会社の雪かきに行ってきた。上司や先輩たちと必死に雪をかいた。彼らは雪の積もっている危ない雪道を車で1、2時間掛けて支店へやってきていた。僕はその姿を見た時に、これ程までに雪を恨めしく思ったことはない。折角の休日。僕なんかよりもかなり疲弊している訳で、休みたいところを出てきて雪をかく。勿論、給料なんか出る訳もない。雪なんて降らない方がいいんじゃないかとさえ思う。

雪かきをしている間、無心で凍ったところをシャベル?スコップ?を地面にガンガン叩きつけ割り、掬い、そしてぶん投げる。これを続けていた。その間、僕はあまりにも単純作業過ぎて詰まらなかった。そこでnoteに何か書くことでも考えてみようかなと思い、身体と精神の動きを分離させながら1日を過ごした。

僕は雪かきをしている間、頭の中でずっとRage Against The Machineの『Killing In The Name』が流れていた。

この曲を脳内で再生しながら「今日は何書こうかな」と身体を動かしていた訳だが、あまりいいアイデアもないし、むしろ書きたいこと多すぎて整理できんなと結局諦めた。ただ不思議なもんで「書きたい」という欲求はあるらしくて、「書きたいんだけど、何を書いたらいいのか分からない」という状態な訳だ。僕は再三、記録で書いているが「書くことで何か考えが纏まることもあるかもしれない」と信じて疑わない人間なので、こうして何の考えもなしにタイピングを始めた。

ところで、僕はこのnoteを始めてからどれくらいの月日が経ったか知らない。別に気にしていないのもあるのだけれども、今日まで『雑感記録(72)』まで書いている訳だ。そうすると自分が今まで考えてきたことを1度ぐらい整理しなおしても良いんじゃないのかと思い立った訳だ。そこで今回の記録は自己のフィードバックをするための記録とする。こういうのは定期的に行なった方がいいとは常日頃から考えていたのだが、今日は特段のトピックもないのでやってみようかと。


1.僕の根源系

まず以て、僕という人間がどんな感じでこんな風になってしまったのかを考えるときにはこれである。というか、結構自分でも文章にしてみて冷静に読んでみると、本を読むモチベーションに繋がったりする。

元々はこういうところから始まったんだよなと自身のポジションを再確認し、どんな姿勢ではたまた本を読むこと、あらゆる芸術作品に触れ続けることが僕にとってどんな意味があり、効用があるのかを再認識することは重要だ。何事も初心忘れるべからずである。

タイトルは『"共感"について』というものなのだが、僕の考えの根本は実は結構ここが大きいところがある。特に僕の中で影響を与えているのは、やはりニーチェと柄谷行人が大きいのかもしれない。

ニーチェ…というか、クロソウクキーの方なのだが「諸力」という言葉は僕の中でも重要なワードである。人はあらゆる方向に対して力を放出している生き物である。その「諸力」をどうするのかということを考えることは、すなわち僕らの生き方にも関わってくると思っている。これをコントロールしようとするのか、あるいは野放しにするのかというところは考えるところがあるように思われる。

この記事の中では「共感」というところに着目し、さらにシミュラークルを利用し「共感」することはどんなような構造をしているのかについてダラダラと駄文を重ねた。しかし、これは僕の思考のある1つの軸であるように思う。本を読むときもそうだし、何か作品を見るときもそうだし、もっと言ってしまえば人間関係に於いても僕は重要視している点である。とりわけ「アウフヘーベンによる真理の模造の創出」という点に関しては僕自身大切にしていることでもある。

柄谷行人に関しては、『マルクスその可能性の中心』また『世界史の構造』『力と交換様式』ここらあたりが結構影響しているのかなとも思う。とりわけ、マルクスの『資本論』の中に於ける「価値形態論」ここが結構影響しているのかなと自分自身では思っている。そうするとソシュールやらラカンやらと色々と考えることはあるんだけれども、今回は面倒なんで省く。ただ、この「価値形態論」は結構僕の中で「ふむふむ…」となることが多かった。また併せて浅田彰の『構造と力』の中に於ける「クラインの壺」も同様であり、マルクスの「価値形態論」が近代的なものであるとしたら、浅田彰の「クラインの壺」は現代的であると言っていいのではないかと思う。

これも言ってしまえば、「価値形態論」を数字に置き換えて考えてみたものと同じような気がしなくもない。数字というものが絶対的差異を覆い隠してしまうという事情を書いた訳だが、数字が何でもかんでも表せるということは絶対的な価値を相対的価値に無理やり置き換えて、神の視点から価値が付与されるというイメージと無理矢理合致させようという僕なりの試みかもしれない。

貨幣という共通尺度によって価値が付与されていくというイメージなのだが、それぞれの物には差異があるのにも関わらず、貨幣というもので価格によってその価値が示されてしまうことへの反感とでも言えばいいのか。そういったところで通じるところがあるのかな…。上手く言葉で表現できないのがもどかしい所ではあるのだが。結局、貨幣も商品やないかい!っていうね…。


2.文学関連

これは言わずもがななのだが、僕が好きな作品を挙げたものだ。別に大した内容は書いていないが、結構ここにある本は僕を変えてくれた本であることは事実である。とりわけ、ル・クレジオ『物質的恍惚』、保坂和志は今でもかなり影響を受けている。

これは紹介した本の中の1つを取って、文学と病気について考えたものである。これはまあ、言ってしまえば大学の時に学んだことを実はただフィードバックしたかっただけで、大したことは書いていない。ここではとある作品を矢面に挙げて書いている訳だが、それは今でも変わらない。あのフルーチェの比喩は未だに許せない。

これは作品云々という話ではないが、所謂リアリズムとは何ぞ?ということについて視点を変えて書いたものである。お気づきの人が居るか分からないが、僕はリアリズムということを考えるときにはロシアフォルマリズムと中平卓馬、そしてリカルドゥを参考にすることが多い。『決闘写真論』はいつ読んでも色あせない、新しい視点を与えてくれる。

森山大道と中平卓馬の対談集も読んだりしたのだが、この当時の写真家たちはマジで頭良すぎるというか。写真のことを語っているんだけれども、実はそれが文学や美術作品全般に通用する思考性であることに僕は驚かされるばかりだ。一見すると繋がりが見えにくいようなものであっても、紐解いていくと実は深いところで繋がっている、そうシミュラークルのような世界観。これが感じられる。

直近のであれば、これが割と頑張って記録したものである。僕なりに大学で扱った題材に突っ込んで修正を加えたものである。僕がテクスト論に興味を持った1つのキッカケでもある。僕なりのテクスト論というと烏滸がましいことこのうえないのだが、僕なりに考えて書いてみた。最近の中では割と力を入れた記事である。

個人的にうまく出来たと思う点は同時代の作家の作品から考えられたことによる。例えば森鷗外の『今の批評家の詩眼』とか斎藤緑雨『小説八宗』とかを駆使出来たところだ。本当だったらレッシングの『ラオコーン』から直接引用したかったんだけれども…。そこが悔やまれる所だ。

結局のところ、テクスト論が最終辿り着くところは「作家論」にしかならないのではないかと最近、加藤典洋の『テクストから遠く離れて』を読んで、そして小栗風葉について書いてみて感じられた。テクスト論は、バルトの「作者の死」から始まり所謂「テクストから考える」というのがメインとなる。しかし、どうしてその文体はたまた言葉を選択したかというのは、テクストからでは限界があると僕には思われる。

だからと言って、「この時作者はどんな気持ちでこの言葉を選択したのだろうか?」とかクソみたいなことは考えたくはない。あくまでもテクストから考えたいとは僕は思っている。作者がどんな意図があって、どんな気持ちがあってとかは僕らの知る由はない。だって僕らの眼前にあるのはテクストだけだから。


3.美術関連

これは国立近代美術館へゲルハルト・リヒター展へ行って思ったことをこれまた駄文を重ねた記録だ。正直、もっと広い所だったら凄く愉しめたなとは思う。図録を買う時に、財布をロッカーに入れて持っていなかったから友人に金を貸してもらい購入したのはいい思い出。

これはマジで激推ししたい。清原啓子展の想い出だ。もう僕が言葉を尽くすのが申し訳ないほどの作品群の数々であった。今までは図録や画集でしかお目に掛かれなかった作品たちを生で見る貴重な機会だった。これは今思い返しても最高。

地元の文学館で行った展示の中でも群を抜いて面白かった米倉壽仁展。余計な知識がなかったからこそ純粋に愉しめた。

僕は美術関連については知識がないので、結構フラットな目線で愉しめるタイプの人間だ。それこそ「諸力」の散乱が著しく、これが愉しいというか。美術作品を見ている時間はある意味で人間を感じられる時間でもある。作品の良さも勿論あるのだが、それ以上に自分という人間の興味・関心が何処へ向かうのかを辿れる貴重な時間でもある。

こういった時間は確保したいと常に感じている。自身の思考の指向性を認識することも重要であると僕は考えている。


まあ、ざっとこのような感じだろう。こういったフィードバックをすることは重要だ。自分という人間を見つめなおすいい機会になる。

これからも定期的にやっていこうかな。

よしなに。

今日の執筆のお供は15MUSでした。

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