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雑感記録(14)

最近、日々忙しくて中々文章を読むということが思うようにいきません。忙しさを理由にしてはいけないのだけれども、好きな作品を読もうとしてもそれらの文章を味わって吟味するほどの余力が無くなっています。

この間、エリック・ホッファーの『現代という時代の気質』を読んでたんですが、ちょっと気になったところだけ引用してみます。


新しいアイデンティティが大衆運動において見いだされるところでは、その事情はあきらかである。つまり、大衆運動は個人をその組織内部に吸収し同化させるが、それは個人の思想や嗜好や価値観を奪いとることによってなされるのだ。それによって彼は幼児の状態にひきもどされてしまう。子供のようになること、これこそが新生が真に意味することである。(中略)さらに、新しいアイデンティティの探求に刺激されて人々がたえざる行動や精力的活動に没入することによって永遠に進行中の状態にとどまるときも、原始化がともなう。成熟するには閑暇が必要なのだ。急いでいる人々は成長することも哀微することもできない、彼らは永遠の幼年期の状態にとどめられているのである。

柄谷行人訳 エリック・ホッファー「未成年の時代」『現代という時代の気質』(ちくま学芸文庫  2015年発行)P.27、28より引用


この最終部ですね。「成熟するには閑暇が必要なのだ。」という1文にどこか救われた気がしたんです。

社会の中で、今はデジタルトランスフォーメーションという名のもとに色々なことが進んでいき、目まぐるしく変化をしつつある時代です。僕の職場でもそういった取り組みが本格化してきて、「事務効率化」という名のもとに推し進められている訳です。

そういった変化の中で既存のやり方から新しい方式へ切り替えるちょうど過渡期で、実際仕事も変化ばかりでその対応で忙しかったというのもありました。

そんな時に「成熟するには閑暇が必要なのだ。」という言葉に出会い、何でか自分でもよく分からないのだけれども、少し本から離れてみようと思った訳なんですよね。いいか悪いかは置いておくとして。

ただ、それでも芸術なり何かそういったものに触れていたいという僕の邪な気持ちがあり、そういった哲学や小説から離れて専ら画集や写真集を眺める時間が多くなりました。


そこで今日はちょっとした写真集(というより写真家なのかな?)の紹介なんかできればなあと思いまして、文章を打っています。

今日ご紹介したいのは

中平卓馬(1938~2015)

中平卓馬です。僕はこの人の写真も好きなのですが、何と言ってもこの人の書く文章に心躍ることが多いです。

以前、こちらでご紹介した『決闘写真論』を書いた写真家です。


僕は元々、写真に対して何か興味があった訳でもないし、正直なこと言うと「写真なんてどれも同じだろ」という感覚でいました。今思えばそう考えていた自分を平手打ちしてやりたい気持ちですが…。

写真に興味を持ち始めたキッカケは『決闘写真論』でした。

大学時代に文芸批評の授業を取っていた時のことです。その時のテーマは「ロシアフォルマリズム」でした。シクロフスキーの『散文の理論』を中心に、所謂「異化作用」についてやっていた訳です。

超簡単に説明すれば、例えば石を描写する際に「石」という言葉を使わずにつまり誰もが簡単に概念化できてしまう言葉を使わずに表現することで石をより石らしくするといったものです。これが「異化作用」。

誰もが語る構文を捨て、自分の言葉で初めてそれを見たもののように語ることで新鮮さを与え、それをよりそれらしく表現できるといった手法です。

その際はベケットだったり、クルチョーヌイフだったり色んな人を援用しながらやっていたんですが、その中でもとりわけ異質を放っていたのが中平卓馬だったんですよね。

「え、写真家がリアリズムについて語る?」
「それって文学とどう関連してくるわけ?」

こんなような混乱が頭を駆け巡っていた気がします。しかし、『決闘写真論』を読んで素直に「おお~」となりました。以下に長いが引用してみたいと思います。


また写真というものがもともと現実の似姿、模写像であるという特性をもっているがために、写実主義という言葉とあいまって、無規定に乱用されることになる。言うまでもなく写実主義とはリアリズムの訳語のひとつである。そうなると写真はすべて写実ということになる。あらゆる写真は写真である限り、写実主義―リアリズムの実践ということになる。リアリズムという言葉のあいまいさは、このあたりにも混乱の原因があると言えるだろう。
だが、リアリズムとはそんなものではない。リアリズムとは「―は―である」という断定、断言を初めから排除するものである。反対に、リアリズムとはあらかじめ設けられた暗号解読格子をあえて崩壊させようという方法的意識のことである。私と世界の間を遮蔽し、私と世界を予定調和の状態におく意識下の解読格子をいま、ここで、世界と出会うことによって崩壊させ、世界と私をまっすぐに向き合わせようという方法としての意識を、その意志をリアリズムと呼ぶべきなのだ。

篠山紀信 中平卓馬「平日」『決闘写真論』(朝日文庫1995年発行)P.224より引用


また、この直後リカルドゥーを引用して以下のようにも述べています。

J・リカルドウがどこかで、おおよそ次のように書いていたのを思い出す。写実主義者たちは現実を見ようとはしない。彼らは意味としての現実を見るにすぎない。だが、リアリズムとは一本の樹木をいま、ここで、眺めることによって、いままで持っていた樹木という意味を眼の前でゆるやかに崩壊させてゆき、一本のいままで見たこともない樹をそこに見出すことだ、と。リカルドウは文学のリアリズム批判としてこの文章を書いた。しかしこの言葉はやはり写真についても多くのことを示唆している。意味としての現実、それは解読格子を通された、濾過された現実である。つまり現実ではない。概念としての現実である。

篠山紀信 中平卓馬「平日」『決闘写真論』(朝日文庫1995年発行)P.224、225より引用


これ凄くないですか?写真家がまさかのリカルドゥーを引用してくるあたり。それなりに文学を学んでいないと中々出てこないと思うんだよな…と感心しながら授業を受けていました。

授業後、アパートへ帰った時にこの余韻に浸りながら泉鏡花を読んだのを何故か鮮明に覚えているんですが(笑)
多分、『ラオコーン』も授業で扱ってたのかな。その関係で読んだのかも…。今となってはいい思い出です。


とまあそんなこんなで中平卓馬との邂逅を果たした訳です。それで遅ればせながら写真集を手に取ってみたんですね。いや今更かいー!って感じなんですがね。

それで『ADIEU A X』を買ってみてみた訳です。

これがまた良かった。上記引用のことがあってバイアスが掛かっていたのかもしれないけれども、「崩壊」というのはどことなく感じることができたと思います。

恐らく、被写体そのものはごくありふれた生活の断片なんですよね。被写体そのものは既に存在しているけれども、不思議とそこにあるものを「僕は知らない」という感覚になったんですよ。

言葉でどう表現していいのか分からないのですが、「知っているのに知らない」という感覚でした。

ここまで書いてきましたけど、やっぱり見ていただくのが1番だと思います。ぜひ手に取って見てもらうといいと思います。


そして、この『ADIEU A X』と出会ったお陰で森山大道にも出会うことが出来ました。

森山大道(1938~)


中平卓馬と親交があったらしいですね。まあ、森山大道の『写真よさようなら』という写真集の巻末には中平卓馬との対談が載っているぐらいですからね…。

この人の写真もすごくいい。個人的には中平卓馬より森山大道の写真が好きかなというのが正直なところです。こんなに紹介しといて…。

森山大道の写真の方がより「リアリズム」を感じられるかなとは思います。


お二方の写真は本当にいいものが多いと思いますので、ぜひ見ていただくといいと思います。

今後も成熟するために、時たま読書を休んで色々と見てみようかなと思います。

次回は画集編でお会いしましょう!


よしなに。

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