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雑感記録(11)

先日、「自己紹介がてらの10冊」ということで、幾つか本を紹介させて頂きました。

その中で紹介しているうちに、色々と書きたいことが出てきてしまいました。

そこで今日は紹介した本の中から1冊選んで、それに関する話を書いていければいいかなと思っています。

今回、取り上げたいのは

有島武郎(1878~1923)

有島武郎『小さき者へ』についてです。

これを1つの契機として、所謂「文学と病気」の関連について少し考えていることを纏めてみたいと思います。


【文学と病気について】


こう仰々しくタイトルを書いてしまって、自分自身でも気がかなり引けるんですが…。

各種メディア、まあとりわけ映画や漫画、小説に於いて所謂「感動作品」というのが色々とありますよね。

あまり最近のそういった作品に疎いので、具体的な作品名をと言われると正直難しいところがあるのですが…

そうですね、例えば

『四月は君の嘘』
『余命1ヶ月の花嫁』
『君の膵臓をたべたい』

このあたりが所謂、「感動作品」としてまあ何て言うのでしょうか、王道みたいなところがありますよね。

※実際の裏話がどうだったとか、その後がどうだったという背後世界は今回は考えず、作品単体(そのもの)で考えます。

これらの作品の共通する点は、まあこれは僕が恣意的に選んでいることもあるかもしれませんので正確ではございませんが…

病気というものが関連している、あるいは作品の中心点に置かれているということにあります。

作品に於いて、ヒロインともいえる立場の人間が必ず何かを背負っていて、その1つとして病気を抱えて生きているというのがありますよね。

僕はこれらを見たり、読んだりした中で思う訳です。

「別に病気じゃない何かでも代替可能なのでは?」

というより、別に病気にする必要もないんではないのかなと。

さらに、こういった作品の大きな問題として考えなければならない点が1つあります。それは…

これらの作品に触れて「感動した」と涙を流す人々たち

だと僕は思っています。

勿論、感動するポイントは人それぞれによって異なると思います。ですが、最近の感動という言葉の持つ意味が1つに限定されているような気がします。

つまり「感動=涙を流す」という認識が一般的になってしまっていることです。

極端なことを言えば、「涙を流せない感動など、もはや感動ではない。」ということになるのでしょうか。

僕が十分に極端なことを考えているのは承知したうえでですが、このように感じざるを得ないんですよね。

別に「感動→涙を流す」という一連の精神と身体の動きについて僕は否定をしたい訳では微塵もありません。

ただ、これらの、病気を題材としたセンチメンタルお涙頂戴の作品に触れて声高らかに「感動した!」と涙を流すことがちょっとなあ…と思う訳ですね。

ここから具体的に考えていきましょう。


1、病気と美談

病気が作品の中心に据えられていると、それが些細な話であっても美談になってしまうということです。

例えばですけれども、とある女性を助けて、なんやかんやで結婚して。上手くいってるなあと思っていたら5年経った頃に「実は私、結核なんです。」っていう告白されて。

サナトリウムで生活するところに看病しに行くけど、自分のやりたいことや願望が叶わず悶々とした日々を過ごし…そんな中で女性は主人公を遺して先へ…といった感じですかね。

まあ『風立ちぬ』の超絶雑な内容ですが…。

これ、冷静に考えてみて、堀越二郎的には飛行機のことが気になって仕方ない訳ですよね。自分の仕事も優先したいし、かといって愛する妻も放っておくことなどできないし…というある種板挟みの状態ですよね。

これを読んでどう感じるかは人それぞれですが、僕は正直「感動」の「か」の字も沸き起こりませんでした。況してや涙なんぞ…。

いい話ですよ、そりゃ。忙しい中で看病する健気な夫。それを傍で邪魔しないように取り繕う妻。

でも、でもですよ。ここで冷静になって考えてみてください。

自分の愛する人が仮に病気になったとして、これぐらいのこと考えたり、色々と尽くすことってもはや当たり前じゃん?って僕は少なくとも思う訳です。

ハッキリ言ってしまえば、何当たり前のことを脚色つけて美談にするんだよ!って思っちゃうんですよね。

つまりですね、ここで言いたいのは

「病気」を中心に据えられた途端に、只の日常が一瞬にして美談と化す。

ということです。

僕らの普段の何の変哲のない日常だって愛すべき価値はあると思うんです。生きていること自体に美しさを感じてはいけませんか?病気になれば世界が美しくなるんですか?


2、病気と女性

上記の作品を見ていただければわかる人には分かると思いますが、病気になるのは決まって女性なんですよね。

そして、決まってその女性はどこか魅力を感じさせ誘惑してくる。謎の色気を醸し出し、作中人物そして究極、読者まで誘惑してくる。

不思議な現象だとは思いませんか?

例えばですよ、男性が病気になった話で美談になるものありますか?僕は個人的にどこかコミカルな内容になる傾向が多いと思います。

『こんな夜更けにバナナかよ』

これなんか典型的なそれですね。だってもう、この画像に書いてあります。「笑いと涙の感動実話」と。

なんで男性が病気になると途端にコミカルになるんでしょうかね。女性が病気になったらどうしてコミカルな作品が極端に減るのでしょうか。


3、病気と純愛

上記の1,2を見てもらえば分かると思いますが、みんな悉く恋愛してるんですよ。しかも純愛ときたもんだ。

なぜでしょうかね。病気の女性と生活すると恋に落ちやすいんですかね。それっておかしくないですかね?

例えばですよ、一般の生活を送る中で、自分の本当に愛したい人、人生を掛けてでも愛したい人が現れたとしますよね。

何とか苦労して一緒になろうと努力して頑張って結ばれて…。というまあ何ともごく一般?的な話があったとしますよね。

これは……純愛ではない……のか…?

上記のような作品を見ていると、とにもかくにもこういった、所謂「普通」のもの(当事者にとっては最上のもの)であっても「いや、それは違うよ」と否定されている気分になります。


4、病気と差別

ここまで纏めてみましたが、何が言いたいのかというのは畢竟するにこれに尽きます。

僕は常々こういった作品を見ていて思う訳ですよ。

「いや、めちゃくちゃ失礼じゃない?」って。

これはある意味で、当事者じゃない人間の驕り、傲慢だと思うんですよね。

仮にね、当事者が本当にそう思ってこういった作品を描いたり、考えたりしているのなら僕は何も言いません。

ですが、これらの作品を作っているのは当事者でなくて、それを外部から眺めている第三者でしょう。しかも、エンターテイメントとして。

こんな失礼なことがありますか。

それは当事者である人そしてその当事者でない人その双方に対してすごく失礼だと思うし、非常に差別的だなと僕は少なくとも感じてしまいます。

「病気にならないと純愛出来ないの?」とか

「え、病気の人ってこんな感じに考えたりするの?」とか

「女性が病気の方がいいの?」とか

少なくとも考えてしまう人はいると思います。まあ、現に僕はそう考えてしまっていますが…。

例えこれらがフィクションであるからとは言え、限度というものがあるだろうと考えてしまいます。あまりにも度を越しているのではないかと。

これを作者がもし狙って作っているのだとしたら、それは許されざる行為なのではないかと考えてしまうんです。狙って差別を描く訳でしょう。確信犯じゃないですか。例えそれを自覚していなかったとはいえです。

さらに、もっと酷いのはこれらの作品に対して第三者よりも第三者、つまり読者ですよね。外部のさらに外部にいる人たちが感動して、涙を流しちゃう。声高らかにそれを宣言してしまう。

皆で寄って集って差別を肯定してるようなもんじゃないのか…と思ってしまいました。


5、『小さき者へ』の優位性

ここで有島武郎に話は戻りますが、この『小さき者へ』も実は病気の妻が出てくるんですよね。

上記のようなセンチメンタルあふれた作品です。ハッキリ言ってしまえばね。だけれども、やはり上記のものとは一線を画していると思います。

とここまで書いて、勿体ぶった終わり方をします。(嘘です。どう書いていいのか分からないのであとは皆様に委ねます。)

「気になったら読んでみてください。」


 世の中の人は私の述懐を馬鹿々々しいと思うに違いない。何故なら妻の死とはそこにもここにも倦きはてる程夥しくある事柄の一つに過ぎないからだ。そんな事を重大視する程世の中の人も閑散ではない。それは確かにそうだ。然しそれにもかかわらず、私といわず、お前たちも行く行くは母上の死を何物にも代えがたく悲しい口惜しいものに思う時が来るのだ。世の中の人が無頓着だといってそれを恥じてはならない。それは恥ずべきことじゃない。私たちはそのありがちの事柄の中からも人生の淋しさに深くぶつかってみることが出来る。小さなことが小さなことでない。大きなことが大きなことでない。それは心一つだ。

有島武郎『小さき者へ』(新潮社)昭和30年発行P.19より引用


よしなに。





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