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雑感記録(267)

【僕の恩人】


GWもあと残すところ1日である。ちょうど先程、地元から東京に戻って来た。特急で帰って来たのだが、子連れのお客ばかりで車内は賑わっていた。小さい子は皆大きな声で騒ぐ。僕はヘッドホンから流れる音楽に集中し窓からの景色を1時間30分ほど愉しんでいた。

山下達郎の『希望という名の光』が流れる。僕はベスト盤を聞いていたのでアコースティック版を聞いたのだが、思わずふと涙が零れる。ここ最近、涙腺が弱くなったというか、涙もろくなってしまったというか…。ふとした瞬間のふとした言葉や音楽に感動して涙してしまうことが多い。窓に映し出される自然とこの曲にやられてしまった。

こういう瞬間、つまり何かにやられるという瞬間。これを僕は「感動」と呼んでいるのだが、この「感動」する瞬間が多い。とりわけ、地元に戻って友人と居る時や、家族と過ごしている時、地元を散歩しながらふと見た景色に「感動」することが多い。しかし、人間のメカニズムは不思議だなといつも思わされる。心が動かされる瞬間に身体は涙を流すようになっているらしい。それもふと何気ない日常に突如としてやって来る。


*雲雀について

 雲雀について話した
 死について話したか

 死について話した
 神について話したか

 神について話した
 忘れられた人々について話したか

 忘れられた人々について話した
 偽善について話したか

 偽善について話した
 はにかみについて話したか

 はにかみについて話した
 冗談を云ったか

 冗談を云った 皮肉も
 喜びについて話したか

 喜びについて話した
 沈黙について話したか

 沈黙について話した
 話してる矛盾について話した
 落ちている石ころについて話した

 自分について話したか

 自分について話した
 決意について話したか

 決意について話した
 決意したか

 繊細と論理のあやふやな迷路の中で
 どこまでも話しつづけることを

 そしてなお話せるか
 雲雀について

谷川俊太郎「雲雀について」『谷川俊太郎詩集  続』
(思潮社 1979年)P.384~387

電車が来るまで僕はホームで谷川俊太郎の詩集を読んでいた。僕はこの詩を読んで一昨日のことがふと思い出される。

一昨日、僕は銀行員時代から物凄くお世話になっている社長さんと奥さんとお子さんとご飯を食べに行った。お子さんは最近生まれたばかりで、偶然にも僕の姪っ子と1日違いである。僕の姪っ子と社長さんのお子さんと同級生というのは僕の中では非常に悦ばしき偶然である。僕は1人勝手に舞い上がってしまっている。未だに僕は興奮冷めやらないでいる。

先に社長さんと合流してカフェで色々と話をした。

というよりも、僕が一方的にああでもない、こうでもないと相も変わらず喋りまくってしまった。僕は「つい最近受けたインタビューから何も学んでいないじゃないか!」と今更ながら反省している。だが、どうも社長さんは聞き上手というか、話し上手というか…つい気持ち良くなってしまうのである。毎度毎度、聞いてもらってばかりで本当に申し訳ないなと思う。

カフェで延々と話し続けた。僕の仕事のことだったり、社長さんのお子さんのことだったり様々に話をしていた。僕はいつもこの時間が愉しくて仕方がない。どう言葉に表現していいのかいつも分からなくなるのだが、この時間というのは僕にとって幸せ以外の何物でもない。だが、この幸せの時間は今に始まったことではない。先にも書いたが、銀行員時代から僕は社長さんに救われていたのだと改めて思う。


銀行員時代、僕は足繁く社長さんの所へ通っていた。というよりも、この時間があったからこそ僕は銀行員時代の辛い時期を乗り越えてこられた。これは紛れもない事実である。

大した用事というと少し語弊があるかもしれないが、大体毎週金曜日に電話をして「行っていいですか?」と、今思えば大分失礼だなと思う訳だけれども、それでも毎回快く「いいですよ」と言ってくれる。あの当時の僕にとって社長さんの「いいですよ」という一言が救いの言葉だった。どれだけ苦しいことがあっても、どれだけ嫌な事があっても僕はたったその一言に救われ続けてきた。

その後、僕は社長さんの所でいつも1時間ぐらい話をする。

今だから言えるが、仕事の話は本当に最初の1,2分ぐらいで済ませ、あとは僕の悩みだったり、最近読んだ本だったり美術館の話を沢山した。あの時間は本当に幸せだった。社長さんのお陰で銅版画という新しい分野を開拓することが出来て、美術分野に於ける知見が広がった。僕は常々、清原啓子の話を出しているが、実は社長さんからオススメされ僕もどっぷりとハマったのである。過去に一緒に千葉に美術館へ連れて行って貰ったことがある。詳細は以下参照されたし。

あの1時間はいつも僕の心に潤いを与える。乾ききった心に綺麗な水が徐々に流れ大きなオアシスを形成していく。そんな感じだ。植物は徐々に生え美しくなる。そうして、土日を過ごしオアシスを保ったまま月曜日を迎える。そして木曜日には枯渇しきり砂漠になった心に潤いを与える。そんな銀行員生活だった。言葉にするのは些かこっぱずかしい訳だが、僕には社長さんが必要だった。

転職をする時、実は親よりも先に社長さんに相談していた。

勿論、両親にも話はしたが、あくまで「転職する」というだけ伝えてどこを受けるとか、何をしたいのかということは伝えていなかった。ただ社長さんにだけ全てを打明けて、これまた一方的にのべつ幕無しに話まくってしまったのである。だけれども、振返ってみるとそのお陰で今の自分がある。愉しい毎日を送れているのは実の所、社長さんによるところが大きい。だから感謝してもしきれない。

僕は不動産業か、自身の好きな分野での仕事かで悩んでいた。要するに「お金」を取るか「好き」を取るか。この2択で揺れ動いていた。僕はどちらも良いなと思っていたが、決めきれずにいた。その時に社長さんにその話を聞いてもらった。僕はその時に言われたことが未だに心に残っている。

「好きな事を仕事にした方が良いよ。そっちの方が向いてると思う。」

最後の「そっちの方が向いてると思う」という言葉が僕の心に安心感を与えてくれた。今思うと、僕は誰かに「好き」を選択した方が良いと言って欲しかったのかもしれない。でも、それよりも、何よりも嬉しかったのが「向いてると思うよ」という言葉だった。その当時から僕がnoteを書いていることを知っていらして、読んで頂いていた。この僕のnoteはただ僕の「好き」を追求している場だ。そういうことも認められていたのかなと僕は推測することしか出来ないけれども、そういうことも含めて嬉しかった。

転職が決まったらいの1番に社長さんに伝えに行った。

これも親よりも先にだ。僕は先の記録で自分1人で転職を頑張ってきましたみたいなことを書いている。だが、実際には社長さんのお陰で無事に出来たところがある。本当に頭が上がらない思いだ。僕の人生の転換期を支えてくださった恩人である。


地元に戻るタイミングでいつも声を掛けて下さる。

転職して1,2ヶ月ぐらいに1度地元に戻った時、社長さんがギャラリーに僕を連れて行ってくださった。これも過去の記録に詳細に残している。以下の記録を参照されたし。

こうして色々な所へ連れて行ってくださって、あらゆる刺激をいつも与えてくれる。しかも転職して離れてしまっても、こうして何か展覧会があれば「一緒に行きましょう」と誘っていただけるのはこの上ない幸せである。

それで話は先日のことに戻る訳だが、その後奥さんとお子さんと合流して夜ご飯を食べた。奥さんとも過去に1度一緒にご飯を食べている。奥さんも物凄く聞き上手で、色々と話を引き出してくれる。僕はそれが嬉しくて堪らなくて水を得た魚の如く延々と話をしてしまう。だから僕はただ延々と話続けていた。だが、やはりあまりにも僕だけが話をし過ぎていたような気がしなくもない。

僕も見習うべきだと思った。

「聞き上手」というのは才能か、はたまた後天的に得られるものなのだろうか。何より話している側の僕からすると「興味を持ってもらえているのだ」と感じ、気持ちよく話をすることが出来る。そのお二人の姿勢から学ぶことが多い。これは常に感じていることである。

「読む」と「書く」ということが連携しているのならば、会話に於ける「聞く」と「話す」ということも連携している。「聞く」ことなしに「話す」ことは出来ず、「話す」ことなしに「聞く」ことは出来ない。そのバランス感覚が重要になってくる。僕にはそれが出来ていないんだなと反省する。気を付けて行こうと心に誓った。

それで様々に話をしていく中で、何だか僕は勝手ながら家族の一員なんじゃないのか?と錯覚してしまった。純粋に「ああ、こういう家族っていいな」と思った。僕は未だに伴侶ともなる人を見付けていられない訳だが、でもどことなく家族に憧れを抱いた瞬間がそこにはあった気がする。悦ばしき1日だった。僕は1人でその嬉しさに舞い上がっていたのかもしれない。だが、幸せという瞬間は正しくこれだなと感じた。


それから社長さんに自宅近くのコンビニまで送ってもらった。

煙草を数本蒸かして幸せの余韻に浸り続けていた。

僕の頭の中で『生きる』が流れる。何だかよく分からないけれど、泣きながら煙草を蒸かしていた。

ただ幸せを噛みしめながら帰路に着いた。

この曲を贈りたい。

よしなに。


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