世界中のあちこちで今日も行われている「忖度(そんたく)」。それは、誰から誰に対する忖度か? 気持ちを読むのも時には必須。
国語の授業とは言葉の学習である。
言い換えれば日本語の学習だ。
日本語を学ぶのだ。
たとえば、英語に例えてみよう。
英語の授業とは英語の学習だ。
言葉づかいや文法について学ぶ。
ところが日本の国語の授業では、気持ちを読み取る、というか、想像する学習がずっと行われてきた。
おそらく今も、日本各地の国語の授業で行われている。
物語文の授業で
「このときの登場人物はどんな気持ちだったでしょう?」
と先生が発問し、子どもが文章から読み取ったり、文章に書かれていない場合は想像したりして答えるのだ。
だが、考えてみれば、これはおかしいということが分かるだろう。
言語の学習で、教材文に登場する人物の気持ちを推し量る必要があるだろうか。
フランス語の授業で、そういう学習が行われるか?
スペイン語の授業で、そういう学習が行われるか?
中国語の授業で、そういう学習が行われるか?
ちまたの日本語学校で、日本語を学びに来た外国人に対し、教材文に登場した人物の気持ちを推し量らせる授業が行われるだろうか?
行われない。
語学の学習に、気持ちを想像することは不要だからだ。
にも関わらず、日本の学校の国語の授業では気持ちを想像させる授業がずっと続けられてきた。
外国人は、日本人に比べて、人の気持ちを推し量るのが苦手だという。
だが日本では、相手がはっきり言わないその気持ちを想像して行動することが、こちらには求められる。
ご存じ「忖度」だ。
「そんたく」というこの熟語の読み方も、今では日本ですっかりメジャーになった。
外国では自己主張するのが当たり前。
「主張しないこと」は「存在しないこと」に等しいと捉えられる。
言わなきゃ分からない。
相手も自分も、それで納得している。
ところが日本では自己主張は「はしたない」と思われる面がある。
「品格が無い」とされるのだ。
なので、自己主張とまでは至らないような曖昧な表現が使われる場面が少なくない。
そんな曖昧な表現をされた側も、その曖昧な表現の裏にある真意を読み取って--つまり忖度して、対応しなければならない。
その忖度能力に欠ける者は、
「察しの悪い奴」
「一を聴いて十を知ることができない奴」
と、仕事のできない者認定を受けることになる。
外国人にはこれが分からない。
「主張しないこと」は「無いこと」と一緒のはずなのに、それが「あること」になっているのだから。
テレパシーが使えるわけでもないし、一体どうやって相手の心を読む--忖度するのだというわけだ。
体育会系の上下関係において、忖度は、特に上の者にとって非常に便利なものだ。
はっきり言えないこと、あるいは自分でもよく分かっていないことを、下の者に対して「あれ、よろしく」みたいな感じで命じられるからだ。
下の者は「あれ、よろしく」と言われても、何をどうするように言われたのか分からない。
分からなくても、自分なりに想像して、やる。
それが、上の者の意図通りのことであれば、覚えもめでたくなり、自身の出世等にもつながる。
逆に、上の者の意図通りでなければ、「使えない奴」として干される。
また、「あれ、よろしく」が、法律的、人道的、常識的に問題のある内容だった場合。
上の者は、自分は極めて安全な位置にいながら、下の者にリスクのある行いをさせることが可能になる。
もし、それが発覚して問題になっても、上の者は
「自分は『あれ、よろしく』と言っただけで、そんなつもりは無かった。後輩が、部下が、秘書が勝手にやったことだ」
とか何とか言って言い逃れられるからだ。
こんな、いろいろと問題点ばかりが世の中で取り沙汰される忖度。
外国人にはできないこの忖度を、なぜ日本人はできるのだろうと思うが、私はこの、日本全国の学校で行われている、登場人物の気持ちを考えさせる国語の授業が、日本人の忖度能力育成に一役も二役も買っているのではないかと考えるのだ。
さて、そんな忖度能力だが、実は忖度は何も日本人だけの専売特許ではない。
世界中のあちこちで今日も忖度は行われているはずなのだ。
その忖度とは何か?
それは--
赤ちゃんに対する母輩の忖度である。
赤ちゃんは言葉をしゃべれない。
何らかの欲求があっても、泣くことでしか、自分の要望を伝えられない。
おなかが空いた。
おむつが濡れた。
疲れた。
眠い。
痛い。
体調が悪い。
上記全てを、泣くことのみによって母親に伝えようとする。
泣く事しか伝達手段が無いからだ。
赤ちゃんが泣けば、母親は、前にミルクを上げた時間はいつだったっけと確認し、おむつは濡れてないかと中に手を差し入れ、疲れたのか眠いのかと顔色を覗き込み、頭やおなかやどこかが痛かったりするのではないかと心配し、なんか元気が無い感じであれば病院に連れて行く。
とにかく口がきけない相手であるから、忖度しまくる。
1つ目の忖度が外れて赤ちゃんが泣き止まなければ、2つ目の忖度、3つ目の忖度と、次々に忖度を発揮する。
中には、どうやっても赤ちゃんが泣き止まないときがある。
忖度は外れ尽くし、打つ手なし。
いったいどうしていいのか分からない--それで育児ノイローゼになってしまう母親もいる。
今はジェンダーフリー、男女役割分担平等の世の中と言われるが、古来、赤ちゃんの世話は、母親がすることが多かった。
赤ちゃんの世話をするには、先述のように忖度能力が必須だ。
男性より女性のほうが忖度する能力が高いが、それはこういった古来からの生活様式も関係しているのだろう。
忖度できなければ、それは時として赤ちゃんの命に関わるからである。
男女の恋人関係において、女性には自分から言うのではなく、男性の側から、言わなくても、女性がしてほしいように男性が行動してくれることを望む場面がある。
忖度を求めているのだ。
男性にはこれが分からない。
はっきり言ってくれればいいのに、言ってくれないから分からないのだ。
だが、女性からしてみれば、
「言ったら負け」
「それを女性の側から言ったらおしまい」
なのである。
女性からは言わない。
女性の方から言わなくても、男性の方から言ってくれた、やってくれた--これが重要なのである。
だって、女性は何も言えない赤ちゃんの気持ちを忖度して、しっかり対応できるような存在なのだ。
大事な存在に対しては、しっかり忖度を発揮するのだ。
さもなくば、時には生命に関わるのだ。
ならば、男性にだって同じように忖度能力を発揮してほしい。
母親にとっての赤ちゃんのように、自分が男性にとっていかに大切な存在なのかどうか、女性は男性がいかに自分に対して忖度能力を発揮してくれるかで計るのである。
男性としてみれば、いろいろ忖度するのだが、そもそも忖度を求めらていることにすら気付かず、トラブルになることが少なくない。
かといえば、まったく的外れな忖度を行って
「女性はこうしてほしいはずだ」
「自分はこのように行動することを女性から求められている」
と女性から迷惑がられることもある。
それが度を越せば、それはストーカー行為となろう。
いろいろ課題のある忖度だが、上記をまとめると、日本の女性が世界でいちばん忖度が得意なのかもしれない。
世界の母親や、日本の男性(特に体育会系)が、その次に忖度が得意な人たちだろう。
私自身は、忖度するのされるのも好まない。
忖度しなければならないようなめんどくさい存在にはなりたくないものだ。
忖度されて当然みたいな顔の老害高齢者とならないよう気をつけたい。
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