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炎天下の中学校の運動会。大なわとびの最中、熱中症で倒れたムスリムの少女。そのとき、日本人の中学生たちはどう行動したか? 世界に誇るべき、日本人のユニークスキル。

「みんなで囲んで!」
 こういった教員からの呼びかけがあったのかどうかは分からない。
 女子中学生たちは次々とそこに集まり、内側に背中を向けての大きな何層にもなる円陣を組み始めた。

 これは私がYouTubeで見つけたある動画だ。
「ムスリム 熱中症」
で検索すれば直ぐ出てくるので、興味のある方はご自分で見てみてほしい。
 暑い日。
 日本のある中学校で運動会が行われていた。
 競技は大なわとび。
 何人もの生徒が1列に並び、そろって一斉に長い縄を跳ぶあれである。

 その生徒の中に、ムスリム(イスラム教徒)のインドネシア人の女子生徒がいた。
 知ってのとおり、ムスリムの女性は戒律でヒジャブを着用することが定められている。
 ヒジャブとはアラビア語で「覆う物」を意味する。
 その名のとおり、ムスリムの女性が頭部を覆うために身に付けている頭巾のことだ。
 国や地域によって何歳からヒジャブを着用するかには違いもあるようだが、日本でもムスリムの女子小学生がヒジャブを着用している例がある。

 さて、そのムスリムの女子中学生は、当然この中学校の運動会の最中もヒジャブを着用していた。
 そして大なわとびに参加していたのだが、炎天下でのヒジャブを着用しての激しい運動がたたったのだろう、熱中症を起こして倒れてしまったのである。
 熱中症の応急手当てで第一にすべきは体温は下げることだ。
 そのためにはヒジャブを外す必要がある。
 しかし――

 ムスリムの女性は親族以外の男性の前ではヒジャブを取ってはならない。
 イスラム教の聖典クルアーン(コーラン)に、女性は親族以外の男性に顔と手以外を見せてはならないと定めてあるからだ。

 これは男性が女性の肌を見て興奮し、不適切なことが起きてしまうのを回避するためという意味がある。
 誘惑に弱い男性から自分自身を守るため、ムスリムの女性はヒジャブを着用するのだ。
 
 だが、倒れてしまった熱中症の人への適切な処置が遅れれば、最悪の場合、命にかかわる。
 すみやかにヒジャブを外し、彼女の体温を下げなければならない。
 だが、今は運動会の最中。
 男性教員、男子中学生に加え、参観に来ていた父親、祖父など多くの男性たちが校庭にいた。

 そこで日本人の女子中学生たちは、他の男性たちの視線からムスリムの彼女を守るため、内側に背中を向けての円陣を組み始めたのだ。
 円陣には、当該学級の女子生徒たちはもちろん、他学級の女子生徒たちも駆け寄ってきて加わった。
 中がどうなっているかは外からは確認できない。
 彼女を介抱するためだろう、円陣の中に何人かの女性教員たちが入っていった。
 担架を持った男性教員もやってきた。
 円陣の外側で動向を見守っている。
 やがて――

 女性教員に両肩をかつがれてムスリムの女子生徒が円陣から出てきた。
 体温を下げるためにいったんは外したであろうヒジャブは再び着けられていたが、肩を貸してもらえれば自分で歩けるぐらいまでには回復したようだ。

 この動画を撮影していたのは当該女子生徒の父親だ。
 この動画は、インドネシアのニュースでも取り上げられ、大きな反響を呼んだという。
 ムスリムではない日本の女子中学生たちが、日本ではマイノリティ(少数派)であるムスリムの少女に対し示した思いやりが素晴らしいということでである。
 女子中学生たちは円陣を組むにあたって、みな外側を向いていた。
 同じ女性だから、ルール上はヒジャブを外した当該女子生徒の姿を女子中学生たちが見るのは問題なかったのだろうとは思う。
 しかし、普段ヒジャブを被っているのに、それを外した姿を不特定多数に見られるのは、いくら同じ女子であってもそのムスリムの少女も抵抗があったかもしれない。
 おそらくそれへも配慮しての、日本人女子中学生たちの外を向いての円陣だったのだ。
 そしてまた、男子中学生たちは、一切その円陣に近寄ってこなかった。
 何が起きたのか、どうすべきか、察したのだろう。

 父親からは当該中学校の校長に感謝の言葉が伝えられたそうだが、おそらく校長は
「子どもたちは当然のことをしたまでです」
と返しただろうと思う。

 私は、今の時代の日本の子どもたちなら、これは当然できたことだったろうと思った。
 かつて私が勤務していた小学校でも次のような出来事があったのだ。

 事情で常時ウィッグを着用している子どもがいた。
 ところがある日、何か引っかかるかどうかしたのであろう。
 ウィッグが外れてしまった。
 頭部が露出してしまう。
 その子は頭を押さえてしゃがみこんだ。
 すると、周りの子どもたちが次々とその子の周りに集まり、周囲からその子の姿を隠したのである。
 ある子は、直ぐに教員を呼びに行った。
 呼ばれきた教員は毛布でその子の姿を周囲の目から隠して保健室に連れて行った。

 この出来事が起きたとき、周りに大人は誰もいなかった。
 大人が誰もいなくても、子どもたちは咄嗟に自分たちの判断でその子をかばい、適切な行動を取ったのだ。

 今、日本の学校では常に最新の人権教育が行われている。
 先述の、熱中症のムスリムの少女をかばった件にしろ、ウィッグが外れた子をかばった件にしろ、だからこその行動である。
 というか、人として、そんなの当たり前ではないかと思う読者諸氏は多いかもしれない。

 しかし、日本の常識は世界の非常識と言われるように、日本の当たり前が世界では当たり前ではない。
 水道の水が飲め、夜間でも女性が1人で外を歩くことができ、小学生が1人で電車通学ができ、人々はきちんと並んで順番を守り、落とし物は戻ってくる――というのは、世界では常識ではない。
 外国人たちはこの事実にみな驚く。

 ムスリムのインドネシアの人々にとって、イスラム教圏ではない日本において、日本人の子どもたちからマイノリティであるムスリムの少女へこのような配慮が示されたことは驚嘆すべきことだったのだろう。
 日本人は宗教に関して寛容だが、他国では宗教の違いを理由とした争いも少なくない。
 宗教が異なる場合、それは時として敵となる。
 宗教の異なる相手へ思いやりを示すということなど、考えにくいことなのかもしれない。

 ある調査によれば、「神様は信じているけど、宗教は信じていない」という日本人の割合は6~7割である。
 新年は神道の初詣で、結婚式やクリスマスはキリスト教、盆や葬儀は仏教と、日本人の生活には信仰とは関係なく宗教イベントが根付いている。
 自分は宗教信じていないけど、いろいろな宗教OKという、宗教へ寛容な国民性が、先述のムスリムの少女をかばうようなエピソードを生むのだろう。
 また、学校で憲法の「信教の自由」を学ぶことも大きいだろう。

 さらに、日本人は空気を読む国民でもある。
 空気を読んで団体行動をする。
 2024年1月2日の旅客機事故でも、日本人の団体行動の素晴らしさが発揮された。
 ムスリムの少女をかばうシーンでは、実は状況がよく分かっていなかった生徒たちも多かったと思う。
「よく分からないけれど、女子生徒たちが集まって背中を内側に向けて円陣を組まなければならない状況が起きているらしい、よし自分も行こう」
 こんなふうに空気を読んで、円陣に参加した女子生徒たちもいたことだろう。

「何が起きているのか分からないけど、なんか女子生徒だけが集まって円陣を組んでいる。男の自分は行かないでおこう」
 こんなふうに空気を読んで、円陣を見守った男子生徒たちもいたことだろう。

 他人の気持ちを推し量る「忖度(そんたく)」は、外国人にとっては苦手なものだそうだ。
 最近、「忖度」は良くない意味で使われることも少なくない言葉だが、日本人の忖度能力は、ある面、世界に誇れるユニークスキル(固有の特性)である。

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