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「新型コロナ時代」のいま、「強い人間」を起点とする世界のあり方を問い直してみる


こんにちは🕊

わたしには、ずっと好きな歌があります。

SALUのTaking a Napという曲です。
2012年の曲ですが、いまの世界の状況をよく描いていると感じます。

We all living in this world I see
どこにいくのかな?
Where we go?
I don't know
If I could know
Wake up slow
We all living in this world I see
いつおきるのかな?
Where we go?
I don't know

いま、このような思いで毎日を送っている人も、少なくないのではないでしょうか。

曲中には、このような歌詞も出てきます。

ある朝何気なく起きる
まだこの世界に自分は居る
死ぬ程幸せだと知る
まだ太陽に照らされてる地球
オゾン層が破れそう
両極の氷が溶けて水溢れそうbut..
Take a nap
We just take a nap
地球の悲鳴が聞こえても誰も起きない


今週は、地球や持続可能性について考える機会がたくさんありました。

20日から26日までの1週間は、サステイナブルなファッションについて問い直す、ファッション・レボリューション・ウィーク
26日は、地球環境について考える日、アースデー
そして24日は、気候変動への対策を求める運動、Fridays for Future のデジタルストライキの日。

とはいえ、新型コロナウイルスの拡大感染が続くいま、とても「それどころではない」というのが現状だと思います。
例年のように、人が対面で集まるイベントを開催することも叶わない状態です。

ですが、ウイルスという人間の太刀打ちできない存在を前にしている「いま」こそ、人間と地球や環境、持続可能について考えなければいけないのではないか、とわたしは考えます。

特に、わたしたちが問いなさなければならないと感じているのは、「強い人間」を起点に作られてきた世界のこと。
そこで今回は、ファッションや環境の話を交えながら、人間と世界、持続可能性について考えてみます。


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パンデミックから人権・環境の問題へ

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新型コロナウイルスのパンデミックが、経済や生活に大きな影響を与えていることは言を待たない。
だがそれらは、全ての人に同じように降りかかるわけではない。

この記事は、パンデミックに対する世界の対応が、既に存在している極端な格差を顕在化させていることを指摘。政府やビジネス界、投資家、そして市民社会が人権や環境について考える必要に迫られていると述べている。


最近、世界がいま直面している格差のほか、環境への負担を見直す時が来ているという主張を目にすることが増えてきた。
特に、英語メディアやアカデミック界からの声が目立つ (日本語で触れられる機会があまり多くないことを残念に思っている)。


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パンデミックと格差の問題は、ファッションの世界にも見ることができる。

先に挙げた記事によると、アジアとラテンアメリカでは現在、ものづくりに関わる多くの労働者が新型コロナの影響で解雇されているそうだ。ファストファッションの洋服を作る労働者、400万人が解雇や仕事の減少に直面しているとも述べられている。

だが大手ブランドの中には、下請けとの契約時に「不可抗力事項」を入れている場合があるという。今回のように予期せぬ事態が起きた際、生産された商品を買い取ることができなくても、企業側には責任がない、とするものだ。
この結果、工場で働く労働者は洋服を作っても、その対価としての賃金を得ることができない、という事態が起こる。


影響が及ぶのは、洋服を作る人たちだけではない。

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*筆者の働いていたお店ではありません。


筆者は約3年間、洋服店でアルバイトをしていたことがある。働いていた先は、全国に17の実店舗を持つブランドだ。
だが緊急事態宣言が全国に拡大された影響で、これらの全店舗は現在、一時的に休業している。オンラインストアのみ営業している状態だ。
1店舗に販売員が6〜7人いると仮定すると、100人以上をオンラインストアだけで養わないといけない計算となる。

一緒に働いていた人たちのなかには、シングルマザーとして一人で子どもを育てていた人もいた。
アパレル販売員の給与は、一般的に決して高くはない。当時、子供を育てながら働くお母さんたちは、普段から決して生活が楽ではなさそうに筆者には見えていた。
特に非正規雇用の場合、シフトがなくなることは収入が断たれることを意味する。

もともと弱い立場にある人たちがいま、さらに困難な状況に置かれている。


静かな地球?

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パンデミックで人びとが家にこもり、経済活動が一部止まることにより、地球は静かになるのではないか。
そんな声も聞こえてくる。

新型コロナが気候変動やその対策に与える影響も議論されている。

一つは、人びとが家にいることでCO2の排出量が削減され、気候変動の進みが遅くなるのではないか、という考え。
実際に中国では2月、都市封鎖などの影響で、CO2の排出量が25%減ったことも分かっている。

だがこれも、効果は限定的だと見られているという。
記事によると、2008年のリーマンショック時にもCO2の排出量は削減されたものの、経済の回復とともに数値は元に戻ったとのこと。気候変動を止めるには、いまのシステムを変えるような政策が必要だ。


ところが政治家にとって新型コロナの流行は、気候変動対策の「隠れ蓑」になりという指摘もある。
「感染拡大防止が最優先」ということを名目に、対策を後回しにできるからだ。

実際に集まって会議ができないことで、気候変動を防ぐための国際協調を阻むことにもつながり得るという。


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一方で、あまり知られていないのは、いまも爆撃によって空が汚されているという事実。

紛争の続くリビアの首都トリポリは、その一例だ
「みんなが家にいる結果、世界中が汚染の減少ときれいな空を喜んでいるなか、トリポリの空はロケット砲によって汚染され続けている


「静かな地球」というのは、自分の見ている世界だけのものなのかもしれない。
そんなことも、念頭に置いておきたい。


「強い人間」を起点とした世界に生きている

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ファッションと気候変動、そして新型コロナウイルス。
これまでの話に共通するのは、わたしたちが「強い人間」を起点とした世界に生きている、ということだ。

生き抜くためには「努力」と「成長」を続け、「競争」に勝ち続けないといけない。
現在のシステムの中で強い立場にいる人間が、政策や経済ルール作りの起点となることを許される。
そこでは簡単に、そのシステムが格差の上に成り立っていることは無視されてしまう。

気候変動も、この延長線上にあると考えられるだろう。
勝ち続けるためには、地球を人間の手で操ることも問題ない。
「強い人間」を前提に作られてきたいまの世界が、環境や人間に与える影響を軽視する姿勢をもたらしてきたのだろうと思う。

弱者ではなく、強者が生きていられる限り、システムは変える必要がない
そのような思想で作られてきた世界のシステムが、新型コロナウイルスのパンデミックでいま、改めて可視化された格好なのではないだろうか。


ここまでの話を遠い世界のものと感じていた人も、新型コロナ対策を巡る日本政府の対応を考えてみて欲しい。

「アベノマスク」は、定まった住所のない人たちのもとには届かない。


政府の支給する10万円は、世帯主へ振り込まれる。
DVの被害者をはじめ、お金の使い方を自分で決めることが許されない人もいる。


投入できる時間や資金に限界があることは理解する。
だが「マジョリティー」念頭に置いた政策を進めることは、そこに当てはまらない人を「いないもの」「考慮しなくて良い存在」として扱っていることと何も変わらない


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困っているならばその都度、声を挙げれば良いのではないか。
そのような考えもあるだろう。

わたしも、社会的に強くない立場にいる人たちに「力がない」と言いたいわけではない。
だがいまの世界では、それではうまくいかない。


ジャーナリズムやマスメディアを研究する林香里は、「Giving Voice to the Voiceless 声なき人たちに声を与える」という文章のなかで、SNSなどで多くの人が発信できるいまの世界でもなぜ、言論や表現空間は不公正なままなのか、と問う。

そしてその理由として、「言論・表現の自由」という権利が「平等で自立した個人」を前提としていると述べている。

近代の主流政治思想であるところの自由主義は, 「理性的で自立した自己」という人間像を規定的価値として強調するあまり, 人間の性の普遍的な脆弱さや依存状態, そしてそれがゆえに誰もが必要とするケアについては, 公的・政治的価値を認めず, (中略) さもなくば, 忘却を決め込んできた。そして, 「平等で自立した個人」といった, 単純でわかりやすい物語のほうを言い値で買い取ってきたのだった。



実際に、パンデミックの中で声を挙げられない人たちがいることが分かっている。
米国のフィラデルフィアで低所得者向けの法的サービスを行っている団体PLAによると、3月16日からDV被害者向けのホットラインへの連絡が半減しているという。
助けを必要としている人が減っているわけではなく、支援を求めること自体ができていないことが背景にあると考えられているとのことだ。


ここから言えるのは、困った人が手を挙げるのを待つシステムでは不十分だということ。
「人間は弱い」ということを出発点にした仕組みが求められている。


いつ、変えるのか

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最後に、「強い人間」が起点のシステムを変えられるのかを少し考えてみたい。
新型コロナという「ピンチ」を、変革の「チャンス」と見る人もいる。

例えばこの記事では、緊縮財政政策の転換を例に、「脅威」を前にすれば迅速にシステムを大きく改革することが可能だと指摘している。


だがわたしは、「新型コロナは社会のあり方を見直す機会だ」という表現を積極的には使わないようにしている。
これまでも困難な状況に置かれてきた人たちにとって、この言葉は「何を今更」としか思えないのではないか、と想像するからだ。

パンデミックが起きてはじめて人権や環境について考えるという行為自体、「強い人間が起点の世界」に生きていることの証左なのだろう。

変わらなければいけない時は、いつだって「いま」この瞬間なのだから



参考

林 香里, 2013,「Giving Voice to the Voiceless 声なき人たちに声を与える」内藤正典; 岡野八代編『グローバル・ジャスティス 新たな正義論への招待』ミネルヴァ書房.

→気候変動自体も影響が一様ではなく、社会的に弱い立場の人により大きな打撃となることを説明した動画です。


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余談ですが、今回のサムネイルで筆者が持っているのは茶封筒。
自分でデザインをして、刺繍をしてみました。

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慣れていないこともありますが、片手で持てるサイズの封筒に刺繍を入れるだけで、所要時間は約8時間。
いまの時代、洋服も多くはミシンで作られているであろうとはいえ、改めて自分が普段着ている洋服を作ってくれる人たちに感謝です。


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Also read:

昨年のファッション・レボリューション・ウィークに書いた記事です。
新型コロナウイルスの感染拡大のなか、戦闘の続くリビアでいま、起きていること。



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