見出し画像

檸檬読書日記 詩のこころを味わう。 7月31日-8月6日

7月31日(月)

『村山槐多全集』の詩をパラパラと見て、難しくて頭を抱えている。そういえば、頭の弱い自分には難解だから、老後に読もうと思ったのだと思い出す。

詩はとりあえず置いておいて、彼の1番有名な小説「悪魔の舌」を見てみる。けれどこれまた難解で、そっと本を閉じた。
読むならまず、全集と一緒に買った、草野心平『村山槐多』からにしようかな。どちらにしても、読むのはもう少し後にしよう。


茨木のり子『詩のこころを読む』を読み始める。

茨木のり子さんによる、児童向けに詩の魅力が書かれた本。
前々から読みたいとは思っていたが、なかなか機会がなく、読めずにいた。けれど先日、初めておすすめをして頂き、せっかくなので(嬉しくて)早速読んでみた。

(略)父と母、男と女、というのは仮の姿で、天地の精気が或る日或る時、凝縮して、自分というものが結晶化されているのだ--と思えば、たとえどのような生まれかたをしたとしても、くよくよするには及ばず、百歳まで生きたとしても、大きな目からみれば、単にきらきら光って消える朝露のごときものかもしれません。

まだ数ページ読んだだけだが、既に惹かれている。
茨木さんの思考の根本が見えた気がした。

生誕を単に、すばらしい輝きとして手ばなしで讃えることはできず、その背後にぴったりはりついている死を見逃せないのが詩人の表現なのかもしれません。

表面だけでなく、裏側まで引っ括めて詩に込めているということだろうか。
だから詩というのは、短い文短い言葉にも拘わらず、広大な世界が広がっているようで、重くのしかかってくるのかもしれない。
反対に、短い文短い言葉に全てを込めているからこそ、詩というのは深く胸に刻まれるのかもしれないな。なんて、思ったり。



8月1日(火)


種から育てたコールラビ。
今年初めて成功した。嬉しい。
キャベツとカブの間の子みたいな野菜。匂いはもろキャベツで、食感は大根みたいな感じで面白い。
普通に生でサラダとか、ピクルスにするのが良さそう。



8月2日(水)

今日はバタバタ。
買い物行って買い物行った。
誕生日のプレゼント探しで巡りに巡った。
結局良いのがなくて、ヘトヘトして終わってしまった。本当に体力ないなあ。
プレゼントは買えず、自分の本を買ってしまったよ。何やっているのだろうか。


茨木のり子『詩のこころを読む』を読み見終わる。

遠くのできこどに
人はやさしい
(略)
近くのできごとに
人はだまりこむ
(略)
近くのできごとに
人はおそろしく
私たちは小さな舟のようにふるえた
(略)
遠くのできごとに
立ち向かうのは遠くの人で
近くのできごとに
立ち向かうのは近くの私たち

石川逸子『風』

目が覚めるようだ。
石川逸子さん、初めて知ったが、なんと端的に刺してくるのだろう。
確かに人は遠くの出来事には関心が深く、感情的だ。それはきっと、余裕の問題なのかもしれない。近くではないから、余裕をもって接することが出来るのかもな。
でもやはり、遠くのことは遠くに任せ、自分たちが生きているのは近くなのだから、近くのことを考えなくてはいけないよなあ。
なんて、思ったり。

他にも『小さな詩の本』を読んで気になっていた金子光晴の詩も載っていた。

どつからしみ出してくるんだ。この寂しさのやつは。
(略)
遂にこの寂しい精神のうぶすなたちが、戦争をもつてきたんだ。
君達のせいぢやない。僕のせゐでも勿論ない。みんな寂しさがなせるわざなんだ。
(略)
誰も彼も、区別はない。死ねばいゝと教へられたのだ。
(略)
だが、銃後ではびくびくもので
あすの白羽の箭(や)を怖れ、
懐疑と不安をむりにおしのけ、
どうせ助からぬ、せめて今日一日を、
ふるまひ酒で酔つてすごさうとする。
(略)
日に日にかなしげになつてゆく人人の表情から
国をかたむけた民族の運命の
これほどさしせまつた、ふかい寂しさを僕はまだ、生まれてからみたことはなかつたの
だ。
しかし、もうどうでもいゝ。僕にとつて、そんな寂しさなんか、今は何でもない。
僕、僕がいま、ほんたうに寂しがつてゐる寂しさは、
この零落の方向とは反対に、
ひとりふみとゞまつて、寂しさの根元をがつきとつきとめようとして、世界といつし
よに歩いてゐるたつた一人の意欲も僕のまはりに感じられない、そのことだ。その
ことだけなのだ。

金子光晴「寂しさの歌」

本当はもっと長いけれど、かなり省略。
この人、本当に凄い。金子さんの詩は、感情を凄く揺さぶられる。
迫ってくるような、何かとてつもないもので、目をこじ開けられたような気がする。
自分とはまるで違う階層に生きているようだ。

この詩の茨木さんの解説も面白い。
詩歌というのは喜怒哀楽の表出にすぎず、日本は「哀」が多く「喜」も「楽」もあるが、「怒」は弱く少ないという。

「寂しさの歌」はその題名にもかかわらず、全体を支えているのは憤怒に近い怒りの感情で、それがきわだった特徴です。金子光晴の詩業ぜんぶにも当てはまることで、いわば彼は、日本の詩に実にがっしりした補強工作をして黙々と去った、信頼のできる職人のようなところがあります。

なるほどなるほど。
だから余計に揺さぶられるのだろうか。
でも確かに、悲しみや嘆きの詩は多けれど、怒りの詩はあまり見ないかもしれない。
そして、茨木さんの詩は何処か他とは違う感じがしていたが、彼女もまた怒りを詩にしているからなのかもしれない。
結構前に読んだから曖昧だが、ピリりとした辛辣さを感じたような。

けれどこの本は、詩には感じられなかった苛烈さはなく、語りかけるような優しい文体で凄く読みやすかった。
詩に対しての愛情を感じ、読んで良かったと思えた。
本当はもっと書き写したいところがあったけれど、長くなってしまうからこのへんで。
けれどもう1つだけ、阪田寛夫「練習問題」が可愛かったからこれだけ。

「ぼく」は主語です
「つよい」は述語です
ぼくは つよい
ぼくは すばらしい
そうじゃないからつらい
(略)
ぼくは だれそれが 好き
ぼくは だれそれを 好き
どの言い方でもかまいません
でもそのひとの名は
言えない

この詩が収められている詩集は『サッちゃん』というらしい。可愛いが過ぎる。

詩というジャンルは、自分自身まだ知識が浅く、正直難しいと思うことが多いから、こうやって解説してくれるととても助かる。こういう本がもっとあればいいのに。

では
このへんで
この小さな本も
さようなら。

余韻を残すような終わり方も素敵な良い本だった。
この機会に、詩の世界ももっと広げられるといいなあ。


コメントにも、センスが必要な気がする。

コメントを貰うといつも思うのだが、皆様コメントにもセンスがありすぎではないだろうか。後、文章力も。
短くも嬉しいことをギュッとまとめていて、余計に破壊力がある。
それなのに、自分は全く上手く返せなくて、いつも悔しい思いをしている。これでも10分以上は考えて返しているのです。

コメントを貰えると凄く嬉しいから、自分もこの溢れる気持ちを伝えたい、と思うのだが、結局上手く書けずに自分の中で沈下してしまう。
それに、凄いとか素敵とか、幼稚なコメントされても返しに困るだけだよなあと思ったり…。そんなコメントされても、そうですか、という感じだよな…。
上手く伝えられない自分がもどかしい。コメントのセンスがほしいこの頃です。

でも送ってみようかな…。うーん、ぐるぐる。



8月3日(木)

朝から足が重い。昨日の影響か。運動不足だなあ。


森下一仁『「希望」という名の船にのって』を読む。児童書。

地球に正体不明の病原体が広まり、病原体のせいで生活できなくなってしまった。その病原体は、人さえもボロボロと崩れさせてしまうことから、ボロボロ病と呼ばれていた。
病原体から逃れるため、複数の家族を乗せて旅に出ることになった。
「希望」と名ずけられた船に乗り、新しい場所を探す。

という内容で、前までのことを考えると、遠い話ではないなと思った。

船の中では、それぞれが役割をもって生活し、病原体から逃れてから15年の月日が経っているところから話は始まる。
そして主人公となるのは、船で産まれ地球を知らない子どもたちで、当然空というものを知らず、人以外の動物を見たこともない状態。

産まれてからずっと、外を知らないというのはどういう感覚なのだろうか。自分には想像出来ないけれど、閉ざされた中で暮らさなくてはいけないのは、辛いだろうなと感じた。でも知らないなら、そういう感覚もないのだろうか。うーん。
どちらにしても、自分は軽い閉所恐怖症だから恐怖を感じる。だからこうならないでほしいなあと願うばかり。

この物語、児童書とは思えぬほど緊張感があった。
名前が「希望」というのに、それに反して絶望が度々襲ってくる。話が進めば進むほど、希望は遠く絶望が濃くなる。「希望」という名であることが皮肉なようで、どうなるのだろうかとそわそわする。

『本当の希望は、本当の知識の上にしか生まれない。(略)』

けれど、本当の知識でもって、絶望を希望に変えていこうとする。絶望の中でも希望を持とうとする姿に、心が揺さぶられた。
知識は希望の源であり、無知では何も生まれない。そう、思い知らされる本だった。
だからこれからも頭が悪いながらも、たくさんのことを知っていこうと、改めて思わされた。



8月4日(金)

暑すぎるせいか、キュウリの苗が1本枯れた。大玉トマトも、大きくなる前に割れてしまう。悲しい。
人も堪えるけど、野菜も堪える暑さなんだなあ。


ジェイムズ・ラヴグローヴ『シャーロック・ホームズとシャドウェルの影』を読む。

いやー、最高だった。シャーロック・ホームズ好きには堪らぬ作品。
シャーロック・ホームズ関係の本は、結構読んでいるのだが、あまり良いなと思えるものが少なかったりする。(個人的には)
こういうのは大概原作とかけ離れていたり、ホームズかワトソンの性格に違和感があったりする。けれど本書は、今までで1番原作に近いように感じた。違和感がなかった。

話は、ワトソンがホームズに出会った頃から始まる。ここがまた上手いところで、原作の出来上がったホームズとの違いも、若さゆえという形で補っている。その他の違和感を生みそうな箇所も、全て上手い具合で対処している。

何よりこの本の魅力は、原作で出てきたことがちょこちょこと出てきたりもして、あぁここは!と思えるのが楽しい。

ただ内容は、クトゥルー神話と絡めたもので、強大なものと立ち向かっていくというような感じで、ミステリーとは少し違う。(いや、ミステリー要素も勿論あるが)どちらかといえばファンタジー。
そして宿敵モリアーティが、原作よりもかなり強敵。
それでも面白く、終始ワクワクドキドキが止まらない。本当に、ワトソンとホームズが出会った頃を書いたものでははないかと思えるほど、出来上がった作品だった。

この本、3部構成になっているらしく、最近2が出た模様。絶対買って読もうと決意。



8月5日(土)


種から育てたトマト!プリプリで愛いなあ。
赤よりオレンジトマトが大量に採れる。でも1番甘くて美味しい。オレンジは何故かミニトマトだと思っていたら、まさかの中玉で大きくてビックリ。食べ応え抜群。
大玉トマトは、これが初収穫。いや、何度も収穫しているのだけれど、こんなに綺麗な物は初めて採れた。もうにっくき暑さよ。


李乾朗『図解 中国の伝統建築 寺院・仏塔・宮殿・民居・庭園・橋』を見る。

図書館で、何となしにパラパラと見たら、圧倒的技術にくらくらした。
写真と絵で中国の伝統的建物を解説している本なのだが、見るだけでも楽しい見応え抜群の本だった。

中国は凄いなと、改めて思った。
この本を見て、日本との差を思い知らされた。日本の建築も技術も素晴らしい。けれどこの本を見てしまうと…。
豪華さだけでなく、とにかく細かい。精密で美しい。お金を詰んだだけでは成しえない技術が集結していて、圧巻も圧巻。何より、今のように便利なものがない時代に、これだけのものを作れるとは…。
こんなに素晴らしいものが自国にあるのに、何故…と思ってしまった。


最近「洒脱」という言葉を知り、かっこいいから使いたい!と思っているのだが、なかなか使えないでいる。
「それ、洒脱だね」
とか、カッコつけながら言いたい。(そもそも使い方あってるのか?)
そもそも何処で使えばいいのか分からぬ。「俗っぽくなく、さっぱりしていること。あかぬけていること」という意味らしいが…。
うーん、いつか使いたいなあ。 



8月6日(日)

嵐山光三郎『追悼の達人』を読む。
「有島武郎」編を読み終わる。

有名なのは『生れ出づる悩み』だろうか。自分の中の文豪ブームの時読んだ気がするが、全く覚えていない。きっと理解できなかったんだろうな。

有島武郎の死は心中によるものだったため、追悼文を悩んだのだとか。どう評価したらいいかと。
その上、心中した相手は人妻。なんてこった。

(略)晶子(与謝野)は、妻を亡くした武郎に言い寄ったひとりで、秋子(心中相手)へはさぞかし口惜しい思いを抱いていただろう。武郎へは神近市子や望月百合子も言いより、花柳界の芸者たちもこぞって近づこうとした。金持ちのお坊ちゃんで、美形で(略)、教養があり、性格が優しい武郎は女性に人気があった。

そしてモテモテだったのか。なんてこった。こういう人は何かとモテるなあ。

有島武郎に対し、世間は冷淡だったが、友人による追悼は彼を庇うものだったらしい。男にもモテるのか。人に好かれる人だったのかもな。

忘れてしまったから、またいつか『生れ出づる悩み』読んでみようかな。


ロイス・ローリー『水平線のかなたに 真珠湾とヒロシマ』を読む。児童書。

ハワイで暮らす少女の視点と、日本に住む少年の視点、それぞれから話は進み、そして最後に繋がっていく。
戦争、そして8月6日の広島の出来事を、実体験に基づいて書かれた本。

話は日本が真珠湾を攻撃したことから始まる。
内容は重く、悲しいというよりかは、苦しい。
誰が、兄弟の片割れが、恋人だった人が、死んだと、それらの事実が淡々と語られている。

時が流れても 変わらないかれら
あの日も今も 若者のまま
生きているわれらは 年老いていくのに
時が流れても 変わらないかれら
立ちどまりなげき 悲しむわれら
記憶はうすれゆく 白髪とともに
時が流れても 変わらないかれら
あの日も今も 若者のまま

亡くなった人には、親がいて兄弟がいて恋人や子どもがいる。けれど奪われてしまった。
だが日本も同じで、何気ないいつもと同じ日常を送っていた時に、突然命を奪われてしまった。

本当に、改めて戦争は何も生まないなと思った。
どちらの側にも家族がいて大切な人がいて、大切な将来がある。やって喜ぶ人も嬉しい人もいないはずで…。
いるとしたら、安全なところで指示する上と、武器商人くらいじゃないだろうか。

この本を読むと、凄く考えさせられる。
人が蒸発するって、どういうことだろう。
被爆者の苦しみは…。体験していない自分には、想像することしか出来ない。けれど想像したとて、実際に比べたら、到底及ばないのだと思う。
それでも、想像することは大事だと思うし、大切なことなのではないかなと思う。
想像しなくなった時が、また始まりだと思うから。

友だちにはなれなかった。あのときはまだ。
雲がすっかり消え去るまで。
たがいが心をもとなおし、忘れる時間が必要だった。
友だちにはなれなかった。あのときはまだ。
長い年月がすぎて出会い、
たがいの心のわだかまりを、理解しあうまで。
友だちにはなれなかった。あのときはまだ。
雲がすっかり消え去るまで。

きっと、どちらの側も忘れることは出来ないだろう。雲がすっかり消えることは難しいと思う。けれど繰り返さず、増やさないことは出来る。
友だちになれなくても、敵にならないことは出来ると思う。
日本だけでなく、世界中がいつまでも平和であれたらいいのに。争いや諍いがなくなればいいのにと、願わずにはいられない。

児童書ながらも深く、短い言葉や文で書かれているからか余計に刺さる。たくさんの人に読んで欲しい、そして長く残ってほしい、そんな本だと思った。



随分と長い…。
今週はどの本も良くて、溢れすぎてしまった。
毎回、こんなに長くて読んでくれる人はいるのだろうかと思う。
なので、ここまで読んで頂けて、本当に有難いです。ありがとうございます。
いつまでも、皆様が日常をおくれますように、良い事が訪れますよう、祈っております。
ではでは。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?