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檸檬読書日記 芥川龍之介よ、さようなら。 11月13日-11月19日

11月13日(月)

酒井順子『鉄道無常 内田百閒と宮脇俊三を読む』
ずっと気になっていて欲しいなと思っていたら、12月に文庫が発売されると知って、飛び上がっている。やったー!
絶対買わねば。



(雑誌)『MONKEY』vol.6「音楽の聞こえる話」を読み始める。
小川洋子「少年少女」を読む。

まさかの小川洋子さんで、小川洋子さん好きの身としては嬉しい驚き。
内容は、少年少女友好クラブなるものがあり、そのイベントである遠足に、病気になってしまった姉の変わりに行くことになった弟。
その少年少女と弟が森林公園に行って帰ってくるまでの話。

これだけだと、ありきたりな、何気ない日常的な話に思える。実際、少しのハプニングは起きるものの、それさえも日常の延長線上みたいなもので、別段不思議はない。
ただ、小川洋子さんの凄いのは、その日常が彼女にかかると、とても異質なものへと変わってしまうのだ。
例えるなら、遊園地の乗り物のような、もう少し絞ると、ディズニーランドにある「イッツ・ア・スモールワールド」のような…。

あれは、次々と来る乗り物に、お客たちはベルトコンベヤーのように運ばれ、様々な国の歌と踊りと景色を楽しむ。
歌、踊り、音楽。全てが一定で、終わりはなく、グルグルと回り繰り返される。機械だから、違うことをすることはない。それが正常で、でもふと振り返ると、何だかそれが異様に感じる。
その同じような異様さを、この作品には感じた。いや、小川洋子さんの作品は、全てにおいてその異様さがある気がする。

そして、雑誌の「音楽の聞こえる話」というテーマの通り、読んでいて音楽までも聞こえてくる。楽器や作られたものではなく、もっと自然な人が生み出す音。
少年少女たちが森の中で生んだ音、笑い声や歌声、足音、風、小鳥、それらから生まれる音楽が流れてくるようだった。
相変わらず言葉選び、文章が素敵で、短い話なものの、惹き込まれて、いつまでも浸っていたいと思える作品だった。




11月14日(火)

久々の遠出で、古本屋が2箇所あったから、ルンルンしながら見たけれど、2箇所とも結構渋めのラインナップで、残念ながら何も買わずに終わってしまった。
1人ではかったから、短時間で見たのもあるかもだけれど。

ゆっくりで大丈夫とは言われたけれど、待たせていると思うと焦ってしまう。自分が買い物に付き合ったり待つのは平気だけれど、待たすのは凄く苦手だ。急がねばとせいてしまう。大丈夫と言ってくれているのだから、ゆっくり見ればいいのに。勿体なかったかもなあ。

ただ1冊だけ、土門拳『筑豊のこどもたち』という写真集が売っていて、ググッと来た。けれど、3000円だったから諦めてしまった。少し高すぎた…。



奈倉有里『ことばの白地図を歩く 翻訳と魔法のあいだ』を読む。

ロシア語の翻訳家である著者が、語学や翻訳を学ぶにあたってのアドバイスが書かれている。冒険ゲームのよう形で進んでいくから、子供向けのような、大人でも読める本。

やはり語学を学ぶのに1番良いのは、その言語を好きになる、もしくは好きな言語を探して学ぶことが大事なのだと分かった。
少し前に読んだ『ムラブリ』もそうだっだが、好きだと知りたいと思うから覚えられるし、学ぶことも楽しくなる。
必要だから、やらなくてはいけないからだと、入ってこない。確かに自分も、何かと役に立つだろうとは分かってはいても、義務感からやっていた英語は、まるでダメダメだった。
(そもそもアジア以外の言語は、日本と違って曲がったりするから、難しい。なんであんなにぐにゃりとするのだろうか。でもそれも、好きだったら問題はないのだろうなあ)

そして、ただ単語を覚えようとするのではなく、時には回り道をして、耳で聞いたり、文化を知ったり、方法は様々なのだなとか。
翻訳の仕事についてのエピソードも興味深く、著者自身が読書家だからか、本に関することも多く、とても読み応えがあった。

自分も何か、好きになれそうな、第二の言語を探してみようかな。




11月15日(水)

芥川龍之介『羅生門・鼻・芋粥』を読み終わる。
「葬儀記」を読み終わる。

ようやく、「葬儀記」に辿り着いた。これが読みたくて買ったのに、随分時間が掛かってしまった。

夏目漱石の葬式での話。
最初、芥川龍之介は何処か落ち着がなく、夏目漱石の死を現実として受け入れていないような心持ちで、ぼんやりとしていた。本当は分かってはいるのに、受け入れ難いような、子供が親に取り残されてしまったような頼りなさが滲んでいる。


(略)「これは先生じゃない」そんな気が、強くした。(これは始めから、そうであった。現に今でも僕は誇張なしに先生が生きているような気がして仕方がない)


だが、夏目漱石の顔を見てから、次第に現実が押し寄せる。


(略)急にまた先生の顔が見たくなった。何だかよく見て来るのを忘れたような心もちがする。そうして、それが取り返しのつかない、馬鹿な事だったような心もちがする。


式が進むにつれて、無感動だった心は、崩壊する。

もう堪らなくなった。読んでいて、芥川龍之介と共に目頭が熱くなった。
凄く短く、周囲のことを細かく捉えていて、冷静で遠くに感じるのに、感情だけが押し寄せるような、散々に振り回されるようだった。
夏目漱石への敬愛が凄く伝わってきた。
最初からこの『葬儀記』目当てでこの本を買ったが、これだけでも買う価値は十分にあった。

それにしても、とうとう読み終わった。いや、読み終わってしまった。長かった。
本当は書くことがなければ書かないつもりだったが、どの短編も良くて、ついつい感想を書いてしまった。(ただ、1つだけ「尾形了斎覚え書」だけは、江戸時代の文章のようで分からなくて書かなかったけど)

特に、やはり最初に衝撃を受けた『老年』は良かった。最近知ったが、この作品が芥川龍之介の処女作らしく、あれが最初と思うと余計に凄い。23歳で老いをテーマに書くとは。早熟とそのための孤独が、芥川龍之介の作品を特別なものとしているのだろうなあ。

読み終わったから、次はどうしようかな。本当は読み終わる前に次の芥川龍之介の本を見つけて読もうと思っていたけれど、結局見つからなかった…。だから次は、うーん。




11月16日(木)

なんでそうなったのかは覚えていないけれど、カフカの話になった時「カフカって誰?」と言われ、衝撃を受けた。
カフカを知らない人がいようとは。

「カフカって、シシド・カフカ?」

「誰!?違うけど」

その上そんなことを言われ、よくよく考えたら名前は聞いたことあったのに、驚きすぎて知らないと言ってしまった。
1番有名な『変身』の内容を説明しても、全くピンと来ないようで、完全に知らない模様。
確かに本を全く読まない人だけれど、カフカは日本の文豪で言うなら、夏目漱石や森鴎外のような、誰もが知っている有名な作家だと思っていたから、驚きが大きかった。違ったのか。
いやぁ、衝撃的事実だった。

個人的に、カフカの『変身』凄く好きなんだよなあ。自分には珍しく2回くらい読んでいる。機械的で異常な日常と、冷徹で不条理な現実。最後まで何とも言えない感情に苛まれるけれど、それがまた良い。
自分もカフカの不条理感を真似して、小説とか書きたいと思ったこともあるけれど、あの見事な不条理さは、とてもじゃないけれど真似出来なかった。

カフカといえば映画の『審判』を昔昔に観て良かったような。モノクロで、相変わらずの不条理さで、男が追いかけられたり、裁判所みたいな所で糾弾されていた話だったような。あやふや。
いや、城みたいなところに迷い込む話だったかな?そしたら『審判』ではなく『城』かな。
『審判』はとりあえず図書館に置いてあるみたいだから、今度観てみようかな。

カフカといえば(まだ続くのか)、少し前に『変身』が角川文庫から新たに出ていて、気になっている。

表紙が、ハンマースホイ(ずっとハマスホイだと思っていたら違って驚いた)の絵になっているから(おそらく)、凄く欲しいんだよなあ。新潮社のやつは持っているけれど、表紙が良すぎて凄く欲しい。

北欧の画家で、殆どが室内を描き、人物は必ず背を向けている。灰色と薄い光。暖房がついていない部屋に入って壁に触れ、じわりと冷たさが浸透するような、曇った空にぱらりと雪が降っているような、ほの暗く少し影のあるような感じ。ほんのりとした寒さ。それが堪らなく良いんだよなあ。
訳者も違うから、買おうかなあ。読み比べてみるのも面白いかもしれない。

それにしても、ハンマースホイ展とかまたやらないかな。少し前に、日本で初めてやるといった時、見に行きたかったけれど、行けなかったんだよなあ。見て、図録とかポストカードとか書いたかった…。
またやってほしい。やったら、今度こそは行きたい。



竹山道雄『ビルマの竪琴』を読み始める。

ビルマ戦線で捕虜となった日本軍。
歌うことであらゆることを乗り越え、日々を過ごしていた。そんなある日、ようやく日本に帰れることになる。
けれど、1人の兵士だけ帰ろうとしない。仲間たちの合唱に答えるように竪琴を奏でながらも、何故彼は共に行くことなく見送るのか。


ビルマは宗教国です。男は若いころにかならず一度は僧侶になって修行します。(略)
われらの国では若い人はみな軍服をきたのに、ビルマでは袈裟(けさ)をつけるのです。
(略)若いころに袈裟をきてくらせば、その人は自然とも人間ともとけあって生きるようなおだやかな心となり、いかなる障害をも自分の力できりひらいて戦っていこうという気はなるのでしょう。
われわれ日本人は前には袈裟にちかい和服をきていましたが、近頃では大てい軍服にちかい洋服をきるようになりました。それも当然です。日本人はむかしはすべてと、とけあったしずかな生活を好んでいたのですが、(略)もっとも活動的な能率の上がる国民の一となったのですから。つまり、こんなところにも、世界をそのままにうけいれてそれに従うか、または自分の思いのままにつくりかえていこうとするか--という、人間が世界に対する態度の根本的な差異があらわれていて、すべてはそれによってきまっているのです。


窮屈なものは、やる気を生むけれど、その代償として人を窮屈にさせてしまったのだろうか。
でも確かに、何かやる時は必ず正装をしている。武器を持つと人が変わるように、窮屈な服も同じ効果があるのかもなあ。

それなら、ビルマ人のようになればいいのかと、誰かが言う。


「そんなことはできないことだ。原子爆弾までできた時代に、それを作った人間がビルマ人のようにのんきになれるかい」
「原子爆弾までできた時代だからこそ、人間がもっと落ちついて深く考えるようにならなくてはだめだ。あんなあぶないものは、ビルマの坊さんにでもあずけておくのが一番いいだろう」


やったものは、取り戻すことは出来ない。だから、深く考えなくては。深く深く。そして、繰り返さないように。




11月17日(金)

髪を洗っていた時、結構髪が抜けて、もしやハゲ…?と戦慄した。けれど、よくよく思い返してみたら、この時期は毎年よく抜けていたなあと気づき、安堵した。
ただ、分かっていても少しホラー。



『暮しの手帖』25号を読む。
「愛されている自覚」桂宮治

落語家の桂さんは、なるべく家に帰り、家族と関わる時間を大切にしているらしい。みんなで「いただきます」や他愛ない話をするために。
過干渉も愛情だけど、それよりも「パパとママはいつも君の味方だよ、愛しているよ」ということを感じてもらうこもを大事にしているのだとか。


そして何より言葉にして伝え続けたら、「自分は愛されている」って絶対自覚してくれますから。今流行り(?)の自己肯定感を満たしてあげるのって大事だと思います。それが功を奏してか、うちの子供達は「私達のこと大好きでしょ、愛してるでしょ」と平気な顔して言ってきます。可愛い。


可愛い。
家族の時間て大切だよなあ。




11月18日(土)


「あゆピー」なる、柿の種みたいな煎餅が美味しい。
柿の種より少し甘め。
でも化学調味料不使用で、米は国産ピーナッツは有機なのがまた良い。
止まらなくなる。
何より魚の形が可愛いな。



竹山道雄『ビルマの竪琴』を読み終わる。


どこに行ってもビルマ人は楽しげです。生きるのも、死ぬのも、いつもにこにことしています。(略)寡欲に、淡白に、耕して、うたって、おどって、その日その日をすごしています。
ビルマは平和な国です。弱くまずしいけれども、ここにあるのは、花と、音楽と、あきらめと、日光と、仏様と、微笑と…。


いったいこの世には、何故(なにゆえ)にこのような悲惨があるのだろうか。
(略)
この「何故に」ということは、所詮人間に考えても分からないことだ。われらはただ、この苦しみの多い世界にすこしでも救いをもたらす者として行動せよ。その勇気をもて。そうして、いかなる苦悩・背理・不合理に面しても、なおそれにめげずに、より高き平安を身をもって証しする者たる力を示せ、と。
(略)
わが国は戦争をして、敗けて、くるしんでいます。それはむだな欲をだしたからです。思いあがったあまり、人間としてのもっとも大切なものを忘れたからです。
(略)
気力はありながら、もっと欲がすくなくなるようにつとめなくてはならないのではないでしょうか。それでなくては、ただ日本ばかりでなく、人間全体が、この先もとうてい救われないのではないでしょうか?


ビルマ人にならなくてもいい。でも皆が彼と同じ答えに辿り着けたなら、どれだけ世界は変わるのだろうか。
もう少し違う未来になっていたのではないだろうかと、思わずにはいられない。

また素晴らしい本に出会ってしまった。
この物語は、実際の出来事でなく、作者が空想のものとしてえがいたものらしい。
それでも、これが空想だとは思えないくらいリアルで、出来事は実際になかったとしても、思考や言葉、語られてきた全ては現実のものだったとではないかと感じた。

そしてこの話は、児童書として書かれたらしく、確かに言葉や文章は丁寧で優しい。そのおかげか、読みやすい。
けれども、戦争の意義が問われていたりと、内容はとても深くて重い。悲惨さもきちんと書かれ、短い話ながらも、考えさせられることがたくさんあった。
それでも子供向きというものもあって、重すぎず、友や仲間に対しての想いや絆は微笑ましく、彼らの歌う歌が聞こえるような愉快さもある。何より、人に対しての愛情に溢れていた。

日本に帰らなかった理由と決意を知った時、胸が締め付けられ目頭が熱くなった。鳥の声(悲痛な叫び)に辛くなりながらも、最後は希望や救いを感じる、とても素晴らしい作品だった。
まるで、真っ暗な闇の中にある、一筋の光のような。

ああ、もどかしいくらいに、自分の語彙力ではこの素晴らしさを伝えることが出来ない。悔しい。
それでも、たくさんの人に手に取っ読んでほしい、これからもずっと長く読み継がれて欲しと願ってならない。

そういえば、この本で竹山道雄さんの他の作品も読みたいと思ったが、この1冊きりなのが残念。
ただ『竹山道雄セレクション』という論考なるものを集めた全集(全4巻)が出ているらしく、凄く気になる。いつか読んでみたいな。




11月19日(日)

今日は芋堀。
手で掘りまくったから、肩が痛い。というか、重い。でも掘っても掘っても次々出てくるから、楽しい。
去年は結構小さくて量もまあまあだったけれど、今年は大収穫でウハウハです。
少し置きすぎてしまったからなのか、結構巨大化もしていた。一番大きいのは、マッチョの二の腕くらい太くて、ビックリ。
さつま芋は置かないと美味しくないから、食べられるのはもう少し後だなあ。



嵐山光三郎『追悼の達人』を読む。
「中原中也」編を読み終わる。

ゆあゆよーんの人だ。
中原中也の特集は、大概に問題行動といか議論のふっかけによる喧嘩とかが多いなあ。
喧嘩っ早いけど弱いから負けるというのが、まあ憎めないところではあるけれど。

中原中也の追悼は、やはり小林秀雄だよなあ。その中の追悼詩「死んだ中原」が好き。


あゝ、死んだ中原!
僕にどんなお別れの言葉が言えようか
君に取返しのつかぬ事をして了(しま)ったあの日から
僕は君を慰める一切の言葉をうっちゃった


嘆きが聞こえそう。
他の追悼詩も追悼文も良かった。


中也の死を人一倍悲しみ、全身全霊で中也を救済しようとしているのは小林秀雄ぐらいのものである。中也にとって、追悼は小林ひとりで十分であった。


確かに。



サザンオールスターズ「Relay~杜の詩」という曲の歌詞が結構深い。
最初は気づかなかったけれど、よくよく歌を聴いて歌詞を見ると、メーセージ生の高さに驚く。


地球が病んで
未来を憂う時代に
身近な場所で何が起こってるんだ?
(略)
麗しいオアシスが
アスファルト・ジャングルに変わっちゃうの?
(略)
未来の都市が空を塞いで良いの?


あの森のことを言っているのだろう。
でもそれだけでなく、他の森や木でも言えることな気がする。
本当に、それで良いのだろうか?人の勝手な都合で、と。


いつもいつも思ってた
知らないうちに
決まってる


本当にそう思う。暮らしている、最も身近にいる人達を差し置いて、意見も聞かず、いつの間にか決まってしまっている。森のことも、他のことも。
歌詞の中でも、コミュニケーションしようと言っている。全ての人に関わりあることなのだから、話し合おうよ。
大切なことは、急いではいけない。急いでも、良いことはない気がする。回り回って、それが近道だったりもする。だから大事なことは、ゆっくり慎重に決めていこうよ。

そして、最初のフレーズ。


誰かが悲嘆(なげ)いていた
美しい杜が消滅(き)えるのを


これはもしかしたら、坂本龍一さんのことを言っているのではないかなと思った。「月」や「ピアノ」、歌詞の端々に、坂本さんを感じる。
坂本さんの意志を受け継いで、訴えている気がする。
森を壊して良いのだろうか。人の勝手な都合で。
今まで自然と共に生き、たくさん助けられてきたというのに、消してしまって良いのだろうか。自然がなければ、人は生きていけないのに。
でも、気づけない。自然よりも人を、人よりもお金を、大事にしてしまっているから。


馬鹿で馬鹿でごめんなさい





また申し訳ないくらい長くなってしまった。
本当は『ビルマの竪琴』を「読書記録」でまとめようと思っていたけれど、まとめるのが難しいプラス思ったより短かったから、結局こっちに入れてしまった。

ビルマを記録にしようと思ったから、『村山槐多』を慌ててまとめたのに、それならもっとゆっくり書けば良かったなあ。急いでまとめたからグダグダに拍車がかかってしまった。
まあでも、ゆっくり書いても結局グダグダだったかな。本自体は良い本で、村山槐多を知るのには一番良い参考書なんだけどなあ。
悔しいなあ。

こうやってグダグダ書いてるとまた長くなるから、終わりにしよう。
ここまで読んで頂き、ありがとうございました。
皆様に素敵なことがありますよう、願っております。
ではでは。


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