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檸檬読書記録 『村山槐多』

今日の本は 

草野心平『村山槐多』


22歳という若さで亡くなった、詩人であり画家「村山槐多」の燃えるように生き尽きるように亡くなった、その生涯を辿るもの。

読もうと思ったきっかけは、村山槐多自身の作品集『村山槐多全集』だった。
最初に『村山槐多全集』をぱらりと読もうとしたが、あまりの難解さに挫折した。異様さは伝わるけれど、全く分からなかった。
もしかしたら、まずは彼自身のことを知った方が、入り込みやすいのかもしれないと思い、一緒に購入していたこの本を読むことにした。

読んでみて驚く。村山槐多のあまりもの魅力に。
そして、印象がガラリと変わった。
天才から鬼才に。
ただの狂気的な人から無邪気すぎる少年に。


村山槐多の人生は、短いながらも濃厚で、燃えて燃えて燃えて、燃え尽きるように逝ってしまう。それはまるでドラマや映画にでもなっても可笑しくないとさえ思えるものだった。
短命ながらも強烈な作品を生み、たくさんの人の心に爪痕を残していった。
詩の面でも絵の面でも、その才能を惜しむ声は多く、本の中にはなんとも豪華な追悼文が載っていた。


槐多の詩は壊れたる魔の楽器なり。その砕片にも破天荒な音あり。愛すべし。怖るべし。

与謝野寛


槐多さんの芸術は偉大なる驚異です。日本の生んだ最初の徹底的頽唐詩人はこの人であると思ひます。

与謝野晶子


途轍もない村山君の詩歌や散文を今度始めて読んで成程此はあの槐多以外の人間から到底生まれない者だと思つた。善悪美醜を超えている程せつぱつまつた者だ。すつぱだかな槐多を眼の前に見るやうだ。精力過剰に苦んでいる此若者から発散する異常な熱気は大抵な貧血性の美術家の魂を沸きたたせるだらう。しかも其間に純真な寂しい祈祷の声がきこえる。たつた二十四で死んだ人の此が生活かと思ふと恐ろしい気がする。

高村光太郎


斯くの如く奔放てなければ、斯くの如く謙虚で有り得ないかも知れない。この人に謙っている作者の心には直に我等を動かすべき芸術の土の尊さがある。(略)この敬虔な牧羊神の歌に同感せざるを得ないものは、あながち我等ばかりであるまい。

芥川龍之介


実に掘り出したやうな新鮮と野蛮と産毛のやうな繊細で美しい神経とを見出しました。実際に驚くべき丸裸の文章です。

室生犀星

(漢字だけ昔の難しいものになっていたので、読みやすいように今のものに変えています)

これらは、村山槐多死後発行された『槐多歌へる』の広告に載せられた文章なのだが、どれも絶賛ばかり。そしてどれも、なんと素晴らしい文章なのだろうか。
個人的には、与謝野寛「槐多の詩は壊れたる魔の楽器なり」というのが好きだ。的を射ている気がする。


絶賛もそのはずで、村山槐多の原型は、12歳から既に出来上がっていたらしい。
12歳で絵も初め、その時期に書いた日記『磯日記』は、子どもらしさの欠片もなかった。
ただ行動自体は子どもらしく、いや子ども以上に自由奔放で悪ガキといった感じ。反して、夢遊病も抱えていたらしく、静と動の危うさが既に垣間見える。


村山槐多の絵に対する猪突猛進と陰性でない天真爛漫な悪戯とには境界線が無かった。(略)
勉強の虫ではなかったが、体操を除いての成績はよかった。と言って秀才タイプではミジンもなかった。言わばケタ外れの鬼才であった。天才と言っても勿論いい。絵が好きで絵にだけ集中する少年でもなかった。絵にも夢中であり、文学にも夢中であり、広範な読書にも夢中になる貪欲な、言わばアンドロメダ的燃焼体であった。


そして、この頃からもう既に、燃えていた。
その上、彼は全てが早かった。歩くことも、最早競歩といった速度で、本を読むのも食べるのも、煙草を吸うのも、そして絵や詩を書くのも早かったらしい。まるで、生き急いでいるように。


燃えるように生きる村山槐多のことを、高村光太郎は詩を残している。
「村山槐多」という題で、その中に「強くて悲しい火だるま槐多」と書かれている。

高村光太郎と村山槐多は、村山槐多が高村光太郎のアトリエに押しかけたことで交流が出来た。お互いに認め合い刺激になっていたようで、何よりも高村光太郎の中では相当に印象的な存在だったようだ。
「村山槐多」という詩が出来たのが、彼の死から20年がたった後だとか。
自分は、高村光太郎の「村山槐多」という詩があるのは知っていたが、それが20年後に書かれたものだとは、知らなかった。でもそれだけ印象的で、消せないほど強烈な炎だったのだろう。


その炎は、好奇心だけでなく、恋をすることでも、一層燃え上がった。
最初は年下であった少年「稲生」、その後は着物モデルだった「お玉さん」、中年女性の「モナリザ」等々。好きになっては燃え、数々の強烈ともいえる詩や絵を残している。

面白いのが、好きになる相手がバラバラというところだ。性別も歳も関係なく、美しいと思った者に想いを寄せて、猛烈にアタックしていく。


槐多が傾倒するのは彼の性格とか正反対の、むしろ静かなで冷たく寂しい女性達だった。


そう、著者も書いている。
そしてそのせいか、どれも成就しない。切ないほど、全て空振り。でもそれがまた憎めない、村山槐多の魅力なのではないかなとも思った。


そして炎は、恋以外でも酒で燃やしていたらしい。
中学を卒業した後、東京に上京するが、その暮らしは貧乏なものだった。


貧乏も相当だったが酒の飲みっぷりも相当だった。酒を味わうよりは酔うことが身上だった。ショゲ返っては飲み、そしては殺伐となり、自信に燃えては飲み、ますます燃え上がる、酒はそのガソリンになった。


それでも、酒は飲んだ。
酒に溺れ、そして体を壊してしまう。短命で天才は、どうしてこうも酒に溺れてしまうのだろうか。
そして村山槐多は、壊しても血を吐いても尚、飲んでしまう。一時は止めたりもするのだが、それも一時的に過ぎず、また飲む日々。読みながら、もうやめてくれと言いたくなった。既に村山槐多の魅力にどっぷりハマりすぎて、お願いだから体を大切にしてくれ、と懇願したくなった。

本当に、魅力的なのだ、村山槐多という人は。
少年のように無邪気で、危なっかしく呆れてしまうほど無鉄砲でどうしようもないことも多いが、どうも憎めない。
村山槐多の周りもおそらく同じだったのだと思う。

異常行動や悪戯も多く何かと問題児ではあったものの、たくさんの人の印象に残り、そして愛されていた。
この本の中には、虜になるエピソードがたくさん載っている。
自分が好きなのは、他人の家で餅を1度に28個食べ、その家の奥さんに「村山さん、これだけのお餅が今あなたのお腹に入っているのですよ!」と、餅28個を目の前に並べて言わる。だが村山槐多は「ふーん」と何食わぬ顔をして横を向いてしまうのだ。
はた迷惑でおいおいという感じだが、想像すると村山槐多らしく、なんとも憎めない。

もう1つは、泥酔して捕まり1晩豚箱に入れられてしまった話。その署長が美術院展に来た際、見つけた槐多は、自分の絵の前まで連れて行って改めて自己紹介したのだとか。
きっと、してやったりというようにニンマリとしたのだろうなと思うと、なんとも堪らない。

豚箱エピソードは他にもあって、お金もないのに遠出して海を見に行った際、帰れなくなって警察に行き、泊めてもらったとか。その上ご飯までご馳走されている。
やることが本当に突拍子もない。

けれど、自分が特に好きなエピソードは、親友が村山槐多の家に遊びに来た際の話。
村山槐多は、人気者であったが、家には滅多に訪ねてくる者はいなかったらしい。だからか嬉しくなった槐多は、自分が書いた詩のノートを引っ張り出すと、突然読み出す。
「穀物のにほひのする女」という艶かしい詩を。
その艶かしい詩を急に目の前で読みはじめてしまう槐多も槐多だが、親友・山本二郎もなかなかの人物だった。
黙って全部聞いた挙句「何だ、プリンス(稲生)に捧げるの詩かと思ってたら…」と言うのだ。流石親友。
そして、その言葉を聞いた村山槐多は「ある、ある」と言って、また読み始めたのだった。

余程嬉しかったのだろう村山槐多の気持ちや、無邪気さが最も伝わるエピソードで、すってんころりんした。
ニコニコしながら読み上げたのだろうなと思うと、微笑ましくなる。

その後も山本二郎とは交流があり、最後まで彼は村山槐多を気にかけている。
山本二郎は、詩人でも画家でもなかったが、それでも離れることのない絆は、村山槐多にとって大きな存在だったのだろうなと思った。


前半は燃えるように駆け抜けていくエピソードや人物像の説明などが多いが、本の後半は、1ページ1ページ、切なく、苦しくなってくる。
村山槐多の死が、近づいているのだ。
そして後半は前半とは違い、どこか物語のような文章で、村山槐多という存在がより近くなり、胸が締め付けられる。結末は知っていて変わることはないのに、死んでほしくないと願ってしまう。まだ終わらないでほしいと思ってしまう。

それでも、刻々と迫る。
後半の方が、読むスピードが上がる。

村山槐多は何度も血を吐き


神よ、神よ、
この夜を平安にすごさせしめたまへ
われをしてこのまま
この腕のままこの心のまま
この夜を越させてください
あす一日このまま置いて下さい
描きかけの画をあすもつづけることの出来ますやうに、


神よ
いましばらく私を生かしておいて下さい


神に懇願し、湧いてくる詩や言葉や遺書をを伏せりながらノートに書く。


「生きる。生きる。俺は死ねない。死なないぞ畜生。」


そう強く、独り言を言って。


読み終わった後、何か大きなものを失ったような消失感を覚えた。
多くの人が惜しむ気持ちが分かるように、自分も惜しくて堪らなくなった。

本当に、村山槐多を浸るのに最適な本だった。
あまり書かなかったが、本の中には村山槐多が描いた絵や詩もたくさん載っていた。正直絵は結局よく分からなかったが、詩は身を削るような強いエネルギーを感じられて、震わされるようなものが多かった。
何よりも個性的で、詩の中に色があったりと、絵を描いていた人ならではなのがまた、面白い。
せっかくだから、1つだけあげておこう。
村山槐多が親友山本二郎に読み上げた詩。


北の美しの村々
幻の様にほのかに
ながめて居る私に
小春の風がそよぐよ

ああこの金と青との
小屋のかげに立つた
たくましい女の肌は
穀物のにほひがする

それを私はにほひだ
いまにほひだ
この美しい霞を通して
一目見たばかりて

美しい金と赤の村々
北山ののどかさに立つて
女をかくして居る
穀物のにほひのする女を
多情のたくましい女を

「穀物のにほひする女」


まるで絵を描いているような、詩と絵が混同して、色彩が浮かび、絵を見ているとさえ思えてくる。
こういう詩を生み出せるのは、村山槐多ただ1人だけなんじゃないかなという気がした。唯一無二な個性であり、魅力なのではないだろうかと。

この本を読む前は、村山槐多の詩や文章を理解することが出来なかった。けれど読んで、背景や彼自身のことが分かったことで、詩は少し飲み込みやすく理解しやすくなった気がする。
彼自身の作品を読むのも勿論いいが、この本だけでも充分堪能出来るくらい濃厚で大満足な内容だった。
1つの物語としても、楽しめるのではないかと思う。村山槐多という人物の、燃えて尽きる人生の物語として。



この本を読んだことで、今なら『村山槐多全集』に挑めるような気がしてきた。今度挑んでみようと思いつつ、村山槐多の魅力が少しでも伝わると良いなと願いつつ、今回は閉じようと思います。
相も変わらずな読みづらい文章にも拘わらず、ここまで読んで頂き、ありがとうございました。
皆様に幸福なことがありますよう、祈っております。
ではでは。




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