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檸檬読書日記 羅生門に、雨は振るがまま、スイカを食べる。 8月14日-8月20日

8月14日(月)

「井伏鱒二って、スキンヘッドの人だっけ?」

と、突然言われ、そうだったかなと考える。井伏鱒二って、黒とか魚とかの作品書いた人だよなあ(曖昧)と思えど、顔が浮かんでこない。

「そうだっけ?」
「うん。ほら、バイキングの小峠さんに似ている、スキンヘッドの…」

え、小峠さんとスキンヘッドって…その瞬間、1枚の画像が頭に浮かんだ。坊主頭で、横を向いた

「それって、正岡子規じゃない?」
「あ…」

そうだ…。という事があって、ケラケラ笑った。
暫くして調べてみたら、全然坊主ではなかった。短いけど、毛ふさふさしていた。しかも眼鏡かけている。全然違った。
面白いなあ。


森見登美彦『太陽と乙女』を読む。

「かぐや姫は高山の竹から生まれたんだよ」と私が言うと、妻はびっくりして「本当ですか?」と言った。
私はときどきこんなふうにして妻を騙す。
「じつは嘘だよ」
「……本当かと思ったら嘘だった。だまされた」

可愛いなあ。森見夫婦のやり取り好きだなあ。もっと載せてくれないかなあ。



初スイカが採れた!
スイカが作れるなんて感動。
味も結構甘くて、作ってこの甘さなら良き良き。
実になってるのが後3個あるけど、どうかな。上手くいくといいなあ。



8月15日(火)

お盆といえば、思い出すことがある。
江口夏実『鬼灯の冷徹』。何巻かは忘れたけれど、この漫画の中で、お盆最終日に帰らなくてはいけないのに、帰らない霊がいて、鬼灯達が必死にそれを回収していくのいう場面がある。
見えていないけれど、今回も大変なおもいをして回収するのかなと想像すると、なんだか面白い。


芥川龍之介『地獄変・鼻・芋粥』を読む。
「仙人」を読み終わる。

鼠を使って芝居をさせる、見世物師の男の話。

「辛抱しろよ。己(おれ)だって、腹がへるのや、寒いのを辛抱しているのだからな。どうせ生きているからには、苦しいのはあたりまえだと思え。それも、鼠よりは、いくら人間の方が、苦しいか知れないぞ……」

生きている限り、苦しさというものはつきものだ。
でもそれを知っている人と、知らない人では、やはり違う気がする。

話は、苦しさを持ち理解している人と、苦しさを無くした者の話だが…んー、なかなかに深い。
苦しさは辛いものだけれど、たが苦しさがあるからこそ、反対の楽しさを感じることが出来るのかもしれないなあ。

まだ3作目だけれど、芥川龍之介の作品を読んでいると、どれも日本ではなく中国の背景というか映像が浮かぶのだが、芥川龍之介は中国に関心があったのだろうか。


祖母と電話で話をした。
そしたら毎度おなじみ「恋人はできたか?」「結婚はまだか」「早く可愛い孫の顔が見たい」攻撃。
またかーと思えど、笑って「まだ!」と返す。
最初は毎回うんざりしていたけれど、でも近くにいる訳じゃないから良いかと思うようになってからは、はいはい言って、明るく「(出来るように)頑張りまーす!」と言えば、祖母も明るく返してくれるから、楽になった。「本当に?本ばっか読んでちゃ駄目よ」という言葉は少しグサリとくるけれど。まあ、まあ…。

自分も出来たらなあとは思うけど、こんな奴好きになってくれる稀有な人はいないだろうからなあ。いたとしても、子どもはできないんだよなあ。
祖母は典型的な昔の人だからなあ。結婚が幸せという感じ。いつまで頑張りますが通用するかな。



8月16日(水)

ポール・ボウルズ『雨は降るがままにせよ』を読む。

少し前に創作小説を書いた際、同じような感覚を感じたと言われ、気になって読んでみた。

アメリカの銀行に勤めていたダイアーは、その生活に疑問を抱き、タンジールに赴く。
だが、タンジールの生活も輝かしいようなものはなく、寧ろ人に流されるばかりだった。

というもので、終始雨が降っているような作品だった。
とはいえ、ジメジメとした鬱陶しい感じではなく、外から雨を眺めているような、いつ止むのかというような、このまま振り続けたらどうなってしまうのだろうかという不安のような感覚。(説明が下手すぎるな…)

本文中もほとんどに雨が降っていて、余計にそわそわとさせられた。
その雨の使い方が本当に上手く、登場人物の感情を表しているようでもあって(そういう使い方なのかなと自分は思っている)、感情の波と共に物語に引き込んでいく。

頭の弱い自分には、おそらく半分も理解できていないだろうけれど、いつまでも雨の音が響いているような余韻が残る本だった。
自分の作品とは比べ物にならないほど、圧倒的な作品だった。

それにしても、海外文学というのは何処か挑発的な雰囲気がある気がする。
登場人物たちの感情や心情を読ませようとしているような。
この人は今どういう心情でしょう、という問題に、良く目を向ければ答えが分かるような文章になっている気がする。
『雨は降る』は、特にそれが顕著で、頑張って考えれば誰でも分かりますよ、さぁ考えて見てください。と、言われているような気がした。(とはいえ、頭の弱い自分では半分くらいしか分からなかったけど…いや、それ以下かな)

反対に日本文学は、分かる人には分かるというスタンスで、分かる人が分かってくれれば良いですよ。という感じがする。
まあ全て、個人的意見だけれど。勝手な妄想だけれど。
そして、だからどうという話でもないのだけれど。自分はどっちも好きだし、魅力が違うから色々読んでしまうんだよなあ。



8月17日(木)

台風の影響か、最近体がガタガタする。
たまに、健康で丈夫な体と取り替えられたらなあと思ってしまう。


『MONKEY』vol.9(雑誌)を読み終わる。
「短編小説の作り方」という短編集特集だが、半分は村上春樹特集といった感じだった。村上春樹が訳した短編数個とインタビューで、村上春樹好きは堪らんのだろうなあといった感じ。

個人的には「超短篇」という、ほぼ1ページの超短編小説特集が良かった。
一遍ごとに絵もついていて、その絵も非常に魅力的で良かった。ソール・スタインバーグという方らしい。画集とかないかなあ。

「超短篇」は、短編の魅力がぎゅっと詰まっていた。1ページという短さながら、どれも世界観がしっかりしていて、ぐっと惹き込まれた。
長編も、長く物語に浸っていられるから良いけれど、短編は短いからかその分濃さがあって良いなと、短編の魅力に気づけた気がする。

次は何にしよう。
vol.18「猿の旅行記」か、vol.30「渾身の訳業」か。んー、順番で「猿の旅行記」からにしようかな。



8月18日(金)

芥川龍之介『羅生門・鼻・芋粥』を読む。
「羅生門」を読み終わる。

自分は、何故かずっと「羅生門」と「地獄変」をごっちゃい考えていた。混同することが多く、何故だろうと思っていた。
けれど改めて読んでみて、ようやく分かった気がする。「羅生門」は、端々に地獄を感じるのだ。

(略)仏像や仏具を打砕いて、その丹がついたり、金銀の箔がついたりした木を、路ばたにつみ重ねて、薪の料(しろ)に売っていたということである。

「羅生門」の世界では、仏の心も善もなくなっている。
門の中は狐狸や盗人が住み、死人の捨て場所となっている。その死人も、悪いことをされてもいい人間ばかりだという。
そして、老婆がともす火。

地獄を想像出来てならない。
それか「羅生門」ではなく、元々の「今昔物語」にその要素があったのかもしれないけれど。
仮に地獄だとして、羅生門は、地獄の最後の判断材料だったら面白いのになと思った。
悪の中でどちらに傾くか。ただ下人は、悪に傾いた。だから

下人の行方は、誰も知らない。

なんて、妄想してみたり。
それと下人が老婆の弁解を聞いて「きっと、そうか」ここは地獄なのだから、悪行をしても問題ない。となっていたら面白いなあと、また妄想。

まあ全て、自分の勝手な妄想であって、おそらくというか絶対に違うのだけれど。深読みしすぎだな。
はたまは、この世は地獄よりも地獄的ということかな。これまた深読みしすぎだな。

羅生門は授業などで散々やって、有名であるがために解釈も散々されているから、自分の考える余地などないと思っていたけれど、結構膨らんでしまった。(まあ、以前は興味がなかったから、真剣に聞いていなかったせいもあるだろうけど…本当、すみません)
でもこうやって、深く知られて解釈がたくさんあれど、それでも読む人によって解釈が出来、色々と考える余地があるからこそ、ここまで読み継がれているのかもしれないなあ。
余地の多さが、芥川龍之介の魅力でもあるんだろうな。やはり凄いな、芥川龍之介。

それにしても、自分はあまりに芥川龍之介についての知識がない。
背景や人物像を知れば、もっと深く理解出来るのだろうか。
本探してみようなか。多くて見つけるの大変そうだけど…。
探して読む頃には、読み終わってそうだけれど…。


なんと、自分の拙い記事を紹介して貰ってしまった。

自分が紹介した本を読んでくれたのだとか。嬉しい。本と人を繋げる目標が早くも叶って、あまりの嬉しさから、もうnoteを止めてもいいかもと思ってしまった。
即座に鬼のような天使に「後2年続けると言っただろう!」と怒られてしまった。そうだった、そうだった。
でも、続けて本当に良かった。これからも繋げられるよう頑張ろ。



8月19日(土)


祖母からスイカが2個届いた!やったー。
開けてびっくり、凄く大きい。サッカーボールよりも倍大きい。冷蔵庫に入らぬ大きさ。
でもスイカ大好きだから嬉しい。

そして何故かスイカの他にさつまいもが1箱届いた。何故だ…。
自分はパサパサ系の芋は少し苦手で、見た目はもろにパサパサ系だった。でも、大丈夫だろうかと思って蒸してみたら、ムッチリ系ではないものの、しっとりときめが細かくて最高だった。いきなり団子に良さそうな芋だ。
ありがとう、おばあちゃん。
けれど何故に芋なんだろう。1度も好きとか言ったことはないんだけれど…不思議だ。

中には祖母からの手紙が入っていて、手紙に「恋人が出来たという言葉を聞きたかった。けれどあなたの人生だから、好きなように生きるのも幸せなら何も言うことないね」と書かれていた。おばあちゃん…!ありがとう。
祖母自身が結婚して、相当苦労してきたから分かってくれたのかな。

と思って、お礼の電話をしたら
「早く良い人みつけるんだよ」
と言われた。あれ?
まあ、笑いながらだったから半分冗談で言ったのだろうけど。と、思うことにした。

とりあえずスイカは最高に甘くて美味しかった。お腹たぷたぷです。


本当に日本はアメリカのいいなりだなあ。
負けてしまったから仕方ないのだろうけど…。それでも、頼らないで自立していくことは出来ないものだろうか。
今度は何をたくさん買わされてしまうのだろう。



8月20日(日)

浅田弘幸『テガミバチ』(全20巻)を読み終わる。漫画。

夜が明けない世界。手紙として届けられた主人公ラグは、届けてくれたゴーシュに憧れと、攫われた母親を探すために、手紙を届ける機関テガミバチの一員になる。
相棒の不思議な少女・ニッチと不思議生物ステーキと共に、危険から手紙を守りながら大切な「こころ」を届けていく。

とにかく絵が綺麗。見ているだけでうっとりする世界観。
勿論内容も素敵で、1話1話毎回心が震えじんわりさせられる。手紙に込められた想い、心が、こちら側にも届けられたようで、温かくなる。

今は、メールも電話もあるから少なくなってしまったけれど、やはり手紙はいいなと改めて思わされた。
手紙はメールのように、直ぐには届かない。けれどだからこそ、届いた時の喜びはひとしおで、送る時もより相手のことを想って考えて書く。手紙には想いや「こころ」が詰まっている。本当に素敵だ。
そういうことを気づかせてくれた。

相棒のニッチとの関係も見所で、想い合う気持ちに何度も感情を揺さぶられた。

ラ…グ…?
どうした…ニッチがついてるぞ…
(略)
ラグをまもるのがニッチのしごとだ!
ニッチはラグのディンゴなのだぞ!
やくそくしろ
ラグよ
ずっと……いっしょだと!
ずっとずっといっしょだと!!
(略)
さよならはかなしみでいやだ!!
だからいえ!!
ニッチとずっといっしょだと!!!

最後まで、最高のコンビだった。
ニッチだけでなく、どのキャラクターも魅力的で、皆誰かを大切に想う気持ちが強く、人と人との繋がりが素敵な、出会えて良かったと思える作品だった。

なんだか、誰かに手紙を書きたい気分。


嵐山光三郎『追悼の達人』を読む。
「芥川龍之介」編を読み終わる。

タイミング良く芥川龍之介が来た。
芥川龍之介は、自殺が用意周到だったらしい。

芥川の自殺は芝居がかっていて、絶頂期の芸術至上主義的死の仕掛けがあり、「手記」をはじめ(略)遺書は、追悼文へのヒントのようなものだ。追悼文が生き残った者の解答分ならば、芥川は、なみいる作家たちへ追悼という宿題を残して死んだことになる。
その結果、(略)高名小説家は、ほとんどの人が、なんらかの追悼を書き(略)、芥川に対してどう対応するかが、その人の文学的立場の証明であり、かつ力量の尺度となった。

興味深いな。
小説も芸術のような完璧さを求めるなら、自殺も完璧さを求め、残された者を巻き込んでその1部とする。
自殺に対しては思うところはあるけれど、芸術に対するその執着と執念が凄い。
この宿題に答えた追悼も良い。有名な小説家たちが連なっているから、余計に良い。芥川龍之介追悼文集とかほしいな。あるかな。

ただ、最後の追悼が一番重かった。

自殺未遂をくりかえしたはて、やっと自殺した芥川の死顔を見つめながら、文子夫人は「お父さん、よかったですね」ともらした。

ずしり。



暑さが全く衰えない。
いつまで続くのだろうか。早く落ち着いてほしいですね。
どうか皆様、お体をご自愛ください。
ここまで読んで頂き、ありがとうございました。
ではでは。

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