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檸檬読書日記 月に砂漠を、リルケに手紙を、短歌にパラダイスを。 8月26日-9月1日

8月26日(月)

北村薫『月の砂漠をさばさばと』を読む。

作家の母親と、9歳の女の子・サキちゃん、2人の何気ない日常を描いた作品。

仲良し親子の会話にはほっこりとさせられるし、読んでいてとても心地よい気持ちになった。


「あのね、聞きまちがいだと、こんなこともあったんだよ。--幼稚園の時、先生がみんなに昔話を読んでくれたの」
「ふうん」
「そうしたら、お話の中に大蛇が出て来たの。先生はそこで本から顔を上げて、聞いたの。《--大蛇って知ってる?》。みんな、声をそろえて、いった。《知ってるー、ありさちゃんのおとうとー》」
お母さんは、びっくりしました。
「亜理沙ちゃんの弟って--」
さきちゃんは答えました。
「だいちゃん」


クスリと笑えるところも多く、楽しい。

2人が作り出す物語も魅力的で、夢を見ているようなフワフワ感がある。
挿絵もフワフワと優しい色合いと描き方だから、余計に心地よい夢のよう。
ただ、基本的に何か大きな事件がある訳でもなく穏やかで、親子の何気ない日常の連続。けれどもその何気なさが凄く良い。
この方は、日常を書かせたらピカイチな気がする。この方の日常、やはり好きだなあと思った。何処かで繋がってそうな、繋がりそうな感覚になる。

この方の作品、色々読みたくなってしまった。『円紫さんと私』シリーズと共に、色々集めよう。決意。



コストコってアメリカの会社なんだよなあ。
少し皮肉。
知ってるのかな。知らないのか気にしないのか無関心なのか。うーん。






8月27日(火)


お土産で八つ橋をもらった。ニッキと抹茶味。
久しぶりに食べたけれど、美味しいな。
アイスティーとも合いまする。餡子と紅茶、良い。
いやぁ、それにしても京都、羨ましいなあ。行きたい。

いやでも、京都も良いけど奈良も行きたいんだよなあ。京都は有名どころは一応大体行っているから、今度は奈良限定の旅。良いなぁ。
奈良だとゆったりできそう。この先何があるか分からないから、近いうちに行けたら良いなあ。



おぉ、待ちに待った本が出た!

ジーン・パスリー『黒い蜻蛉: 小説 小泉八雲』

『暮しの手帖』で、この本を翻訳した方のエッセイが載っていて、その中に今小泉八雲のことを書いた本を訳しているといったことが書かれていた。だから発売前から楽しみにしていた。今か今かと待っていたけれど、ようやく!単行本だから少し高いけど、見つけたら買いたいなあ。

それにしても小泉八雲、没後120年経っているのか。ほぅ。


そういえば、小泉八雲の『明治日本の面影』買ってあるのにまだ読めていないな。この機会に読もうかな。






8月28日(水)

毎日暑いは暑いけど、風が少しずつ秋になってきている気がする。
日陰は多少心地よい。
秋が待ち遠しい。栗、早く出ないかなあ。剥きたい。



『ブレヒト全書簡』を読む。


私が死んだ場合、どこであれ遺体が安置され展示されることを私は望みません。墓畔での演説は無用です。埋葬地はショセー街の、私の住居に隣接する墓地を望みます。

ドイツ芸術院あて


とうとう死を匂わせる手紙が出てきた。終わりが近いということか。



ライナー・マリア・リルケ/リザ・ハイゼ『若き女性への手紙 若き女性リザ・ハイゼからの手紙16通を含む』を読む。

リルケ『若き女性への手紙』と、未収録の1通、そしてその若き女性・リザ・ハイゼの返事が収録された1冊。

リザの生涯、かなり壮絶だ。
反対を押し切ってまで結婚した男性は、貧乏画家でなかなか売れず、彼女がピアノを生徒に教えることでどうにか生活をしていた。
だが夫は外に愛人を作り、離婚することに。その上夫は子どもの養育費を拒絶し、リザは子どもを抱えたまま、2人の苦しい生活が始まる。
その後友人が出来、その友人と共に農業をしながらの生活が始まる。貧しく、水不足の影響などで大変なことも多いが、ようやく「完全に満たされた生活」を手に入れる。
しかしその後、1人の男性と出会うが…。

何故こんなにも…と思うほど、彼女の身には色々なことが起きる。
それでも、強く強く生きようとする。
それはリルケとの手紙があった、というのも大きいように見える。支えであり、光。リルケの手紙が、彼女にとっての希望のようだった。
けれど反対に、リルケにとってもハイゼは希望のよに見えた。様々なことが起こる世の中、不条理なことが多いリゼの人生、それでも挫けずに進み続けてほしい、打ち勝ってほしいと。
きっと彼女ならそれが出来ると思って。そうであってほしいと望んで。

リゼの手紙を読んで、進もうとする意思、そして思慮深さに、とても心を惹かれた。


イースターの日は少し歩きました。そして何時間かは、今わたしたちを脅かしているもののことを忘れました。ああ、人ってこんなに簡単に忘れることができるのですね!世の中の悲惨な現実は変わらないのに、それを常に意識し続けることはできないのですね。ひょっとしたら、世の中がそれほど悪い状況でなくなるようにするためにわたしたちに欠けているのは、それを意識し続けることなのかもしれません。


おそらく、だからこそリルケも惹かれ、助けになりたいと思ったのではないかなあと思った。
リルケの手紙自体も初めて読んだが、彼の優しさにも同じくらい惹かれた。


(略)この二十三年というもの、さまざまな国や境偶のもとで、私はいつでも一人で自分の身体の不調をなんとかしてきました。自分の身体との関係は概ね緊密なので、医者というのは私と身体のしっくりと慣れ親しんだ組織に打ち込まれなければならない楔のように思えるのです。助けてくれるとはいえ、やはり闖入者なのです!それはともかく、幸運なことに、友人のように話し合える救い手に出会えたのは幸運でした。私たちは出来るだけあらゆる薬を排除するという点で一致しました。私の場合何十年も自然に任せてうまく行っていたのですから、この動揺した状態の中で、新たにバランスを取ろうと必死なことが明らかに自然に、ほんのすこしだけ手を差し伸べることにしたのです。


そして思考。
こういう医者に出会えたら幸せだろうな。でもきっと、リルケ自身が良い人だから呼んだ幸福な気がする。

改めて思った。手紙とは、やはり両面があってこそだなと。
一方だけでも勿論興味深いけれど、この手紙は特に両面あってこそな気がした。

今まで公開されていなかったリルケの最後の一通、そして相手のリゼの手紙。そして解説があるのも理解しやすく、とても満足できる1冊だった。






8月29日(木)

温度はそこまでてもないのに、湿度でムシムシするなあ。本がボヨボヨにならないか心配。

湿度にて 整列された 本たちが 乱さぬかしら 年を取られて

いや

湿度にて 整列された 本たちが 年を取らぬか 心配なりや

こっちの方が良いかな。「て」が2つは少し気持ち悪いか。んー、でも「乱さぬ」を使いたいのだけれど…。使うと乱れてしまうんだよなあ。「乱れる」言葉の呪いかな。



『カフカ短編集』を読む。
「断食芸人」を読み終わる。

断食を芸にする男の話。
最初の頃、断食芸人が行う見世物は、観衆の興味の的だった。老若男女関係なく、誰もが興味をもち、檻の中でひっそりと断食を続ける男を見物した。
40日の断食が終われば、祭りのように騒ぎ盛り上がる。
だがそれも次第に廃れ、誰もが断食芸人から興味をなくし…。

この作品が、カフカが病気で亡くなる少し前、食事も水も取れなくなった時に書かれたと思うと、芸人の心情がより切なく感じた。最後の言葉など特に…。

それにしても、深堀する題材が面白い。小川洋子作品と近い匂いを感じた。そこにフォーカスするのか、という驚きと個性溢れる魅力的世界観。小川洋子好きとしては、とても惹かれた。
ただカフカの場合は、自分自身と作品が密接だから、裏を知るとずっしりとくるけど。


(略)あるとき、一人ののらくら者が立ち止まり(略)ペテンだと言ったことがあったが、それはそれなりに、無関心と生来の悪意とが作り出すことのできた、もっとも愚かな嘘というものだった。なぜなら欺いたのは断食芸人ではなかったのだから。彼は正直に働いた。けれども世間が彼を欺いて、彼の報酬を奪ってしまったのだった。


作品の中で妙に興味を引かれた箇所。
何か見えてきそうだけれど、頭が弱すぎてぼやけていつまでたっても見えてこないからモヤモヤ。






8月30日(金)


最近雨続きで濡れて腐ってしまうのが心配だから、慌てて収穫。
オレンジは後3個くらい(見える限り)あったけれど、流石にまだだから放置。そのまま大丈夫だと良いなあ。

それにしても、オレンジのカボチャ「栗南瓜」初収穫だから、凄く嬉しい!
去年は葉を虫にやられて全滅し、もう一度作り直したらおおきくはなったけれどやはり遅かったのか、後暑さのせいか1つも出来なかった。だから余計に…考え深きなり。


この鮮やかさよ。惚れ惚れするくらい綺麗なオレンジ色。
食べるの楽しみだあ。置いた方が美味しくなるから、もう少し置いてから食べよ。

夏野菜、そろそろ終わりだなあ。
秋・冬に向けて種蒔を始めねば…。

そういえば、畑に巨大カマキリがいて驚いた。定規くらいと感じたから、おそらく15cm…いや、それは言い過ぎかな。でも10cm以上はあった。あんな巨大なの初めて見たよ。しかも2匹も。夫婦かな。



小林恭二『短歌パラダイス -歌合 二十四番勝負-』を読む。

Blueskyで知った本。


(略)短歌の中にはわたしたちの美意識の原点があるのです。


チーム戦。有名な歌人たちがお題に沿って1名ずつ短歌を出し合い、討論し勝敗を決める。

とても熱い。とにかく熱い。
勝負事だからか、皆熱を入れて批判をしてくる。まさに戦い。それがまた鋭く、言い合いのような喧嘩のようでもあるのに、短歌のことだからかただただ興味深く、熱さだけを感じる。不快さはなく、お互いもっとやったれとさえ思ってしまう。こちらまで熱くなってくる。

歌合とはこんなにも面白いものだったのかと思わされた。俳句の勝負事を描いた森谷明子『春や春』もそうだったけれど、1つの歌であらゆる見方考え方が見れるのも、一人で読んで鑑賞するのとは違う楽しさがある。

ただ批判するだけでなく、説得力もあるからより見ていて面白い。それでも同じチーム内で意見がバラバラだとどんなに鋭くても削がれてしまうなど、チーム戦ならではなところも見所。
弁護側の受け止め方も深く、歌を理解しているのが分かって、それもまた良い。
批判されるのはきっと悔しいだろうけれど、それだけきちんと見ているということで。それだけ理解してくれているということで、作者としては悪い気はしないだろうな。多分。
自分が仕掛けた仕掛けや、拘りポイントを分かってもらったら、きっと嬉しいだろうなあ。
自分もたまに短歌を作るけど、結構どれも拘りがあったりするから、自分だったらそれを気づいてもらえたら凄く嬉しい。


もし、短歌や俳句が危機に陥っているとするなら、それは創作面が危機に陥っているからではない。むしろこれを味わい、評価する機能が危機に陥っているからだと、わたしは考える。
実際、今や短歌にせよ俳句にせよ、創作する側の論理だけが大手を振ってまかり通り、鑑賞する側の論理はほとんど顧みられなくなっている。
その結果、歌作り、句作りに関しては相当な腕を有する人間が、こと味わうとなるとからきしだめにというケースが見られるようになった。
(略)
わたしは、文芸作品が語られ、味わわれる場が、今ほど求められているときはないと思う。ことに短詩形はそういった場が絶対的に不足していると思うのだ。


作品は、作者の手から離れ世に出たら、もう作者だけのものでないのではないかと思う。
作者が解説し、それを理解するのも良いけれど、作者自身も気づいていない新たな魅力が、他人の目で見て語られるからこそ見えてくるものもある気がする。それに作者だけだと、作者自身は分かっているからか、解説としては足りない部分もあったり。
だからこそ余計に他人の目、解釈はとても大事な気がする。それが作者の意図と合っていても合っていなくても。それでも考えるきっかけ、理解を深めるきっかけになるのではないかなと。
特に短歌や俳句は、慣れない人には掴みにくく取っ掛りが分からないから余計にあってほしい。と、頭の弱い自分は思うのです。

歌合は、1日目が2チーム「くれない」と「紫」に分かれてやり、2日目は3チーム「一郎次郎」「七福猫」「ぐるぐる」で行われる。
個人的には1日目の戦いが良かった。熱さも1日目の方が熱い。そして自分は「紫」チームが好みだった。
その中で特に良いなと思ったものを1つ。


富士額恥づるが如く学帽をふかくかむりて少年われは

小池光


「富士額」とは本来、美しい女性の額のことを言うのだとか。それを「少年」に絡めている。だが単純にそれを恥じている訳ではない。そのなんともいえない複雑さ、一筋縄ではないところにとても惹かれた。

解説は、穂村弘さんのものが抜きん出ているように見えた。目の付け所が見事。だからこそ『短歌ください』シリーズを長年やり、尚且つ面白さを維持したまま出来るのだろうなあとも感じた。

歌合を1冊の本にするのは、凄く珍しい気がする。尚且つ臨場感そのままに仕上げるのは。
短歌の知識がなくても、歌合を知らなくても、楽しめる作品ではないかなと思った。

んー、良いと思った本ほど言葉がまとまらない。悔しい。
とにかく、良い。






8月31日(土)

金曜日に観れなかった『天空の城ラピュタ』を観る。
んー、深い。
やはり壊すのはいつだって人なんだろうなあ。
人は地に足ついていないとね。揺れてしまうよ。



愛は地球を救うのか?だって。何故疑問形なのだろう。ここは断言しなくては駄目ではないかい。






9月1日(日)

夏子には 届かないのは 誰のせい 由紀夫が我に 冬をもたらす

三島由紀夫『夏子の冒険』を買いに本屋に行ったら、売ってなくてショック…。夏なのに…夏子がないなんて、と思ったけれどもう9月だった。なるほど。
それに夏小説でもなかった。なるほどなるほど。



しおたにまみこ『ねやうらべやのおばけ』を読む。絵本。

折角の夏に夏本をまだ読めていないから、駆け込みで読んでみる。間に合ってはいないけど。オバケだから夏だろうという安直さで読んだものの、結局夏っぽくはなかったけれど。まあ、まあ…ね。

屋根裏部屋に住むオバケは、一人屋根裏部屋で暮らしていた。けれどある日その家に住む女の子が、毎日屋根裏部屋に現れるようになり…。
オバケは女の子を屋根裏部屋から追出そうと、必死に怖がらせるのだが。

和む。内容も絵もほっこりする。
なんともいえない表情の、饅頭のようなオバケが可愛い。

なんと言っても絵の上手さが飛び抜けている。上手すぎるのに、キャラクターたちに愛嬌があるから、本当に凄い。シュールっぽいのにシュールすぎないその絶妙さも凄く好みな作品だった。



『対談 日本の文学 素顔の文豪たち』を読む。
「小堀杏奴と大岡昇平」編を読み終わる。

森鴎外の話。
小堀杏奴は娘。

父親からこういう本を読めと言われたか、という問に対して。


父はそういうことはいっさいいたしませんでした。ただ「雑誌を読むな」ということは申してましたね。読むのなら単行本を読めって。読み捨てにするようなものは相手とせず、本としていちおうまとまったものなら、やはり読んでおいていいというように考えていらしたんです。(略)


なるほど。そういう考えもあるのか。

後は、お墓やお寺を回る散歩に杏奴さんだけがついていっては、アイスクリームを時々食べさせてもらったり、古本屋に行ったりもしたのだとか。そして甘えっ子だった杏奴さんは、寝る時父親に手を持っていてもらったのだとか。ほっこり。



毎月恒例神社参りに行ったら、ビックリするくらい晴れてビックリ。
外で出た瞬間からカンカン照り。さっきまで曇っていたのに、どうしたのか。こんなに晴れるなんて…。雨も降ってなくて、涼しそうだと思って出たのに…。
晴れて温度も湿度も上がり、ムンムンと蒸し状態。日陰は多少涼しいから、曇りだったらきっと涼しかったのだろうな。
ただ家に帰ってきた瞬間、空が暗くなり始め、次の瞬間には土砂降りに。
総合的に考えて、ついていた1日だったのかも。






ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
皆様につきがありますよう、祈っております。
ではでは。

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