見出し画像

檸檬読書日記 本屋は灯火、北欧は暗闇、青い闇はささやく。 5月20日-5月26日

5月20日(月)

未練がましく調べたら、十文字青『私の猫』も、森見登美彦他3人『城崎にて』も6月に発売されることが分かった。本屋で買えるらしい。ほっ。



リン・コックス『赤ちゃんくじらと泳いだ海』を読む。

スイマーである著者の実話。

著者が17歳の時、いつものように海をおよいでいると、母親と離れて迷子になってしまった赤ちゃんクジラと出会う。彼女は、赤ちゃんクジラを母親の元へ帰すため、奔走するのだった。
そんな忘れられない1日の話。

思ったよりもあっさりめだった。
それでも、必死に赤ちゃんクジラを母親に返してあげようという強い想いは心が温かくなり、赤ちゃんクジラとの交流にはほっこりさせられた。
とても良い話。


こういう実話物、動物と人との友情や強い絆系はたまに読みたくなる。心が洗われる気がする。
特に猫や犬ではなく、他の動物との話が個人的に好きだなあ。(勿論犬猫系も良いのたくさんあるけれど、たくさんあるから寧ろというか)
タイトルを忘れてしまったけれど、タコと人とか、スズメと人の『ある小さなスズメの記録』とか。後これは猫だけど『図書館ねこベイカー&テイラー』も良かったなあ。

あ、今気づいた。意識していなかったけれど、陸海陸海動物の順で読んでいる。じゃあ次は陸を読まねばな。何にしよう。





5月21日(火)

笑ってしまう。もうなんか疲れちゃったなあ。でも疲れたと言えるということはまだそうでもないということだから大丈夫だな。うむうむ。



『暮しの手帖』vol.27を読む。


(略)お願いがあります。近年、街から書店が次々と姿を消しているのはご存じの通りです。もし、まだお近くに書店があるのなら、雑誌や書籍はぜひ書店でお求めいただければ、と思います。
(略)
書店は街の灯火です。「続いてほしい」と願う存在に、きちんと心を傾けて行動を起こすことが、いまは必要だと思うのです。


末尾にある編集者の言葉。

本屋で買うのではなく、定期購入で買って貰う方が利益が入るのに、それでも本屋・書店で買ってくださいと、自分たちの利益よりも全体のことを考えている。本や本屋を本当に大切に想っているのだなあ。凄く伝わってきてグッときた。

今、悲しいくらいに本屋が消えていっている。田舎だと、街に1件も本屋がないところもあると聞く。
今やネットでなんでも直ぐに取り寄せられるから、本屋がなくても本は買えてしまう。それでも、本屋は必要だと思う。なくなっては、なくしてはいけない場所だと思う。
本屋に行かなくては出会えない出会いはたくさんあるし、実際に行って手に取ってパラパラめくるからこそ、この本いいなあとか読みたいほしいなあという感情がより湧く気がする。

そして形ある「本」があることと、本屋という場所は、本をつくる作者・著者自身にとっても良いものなんじゃないかなと。
「本」という手にできる物があるからこそ、自分の本が出来たのだと実感がより湧くだろうし、誰かが買ってくれる瞬間を見ることができるのは、喜びであり、だからこそもっといい本をつくろうというモチベーションになるのではないかなと。(そういうことが書かれた本を何回か読んだことがあるからそうじゃないかなと。)つまりは面白い本が生まれるということで。読む側にとっても良いことだと思うのだけれど…。
本屋がなくなっても、本は買える。でも、本屋がなくなったら、本自体も終わる気がする。

スペースとかお金とか、個人によって事情があるから仕方がないし、電子書籍を否定する気もないけれど、出来れば「本」という形で本を読んでほしいなあと、買ってほしいなと望まずにはいられない。それもネットではなく本屋で。
スペースがないなら、読んだ後直ぐに売ってもいいし、お金がないなら、古本を買うという選択もある。そうやってグルグル回ることが、大事なのではないのかなと。
だからどうか本や本屋を途絶えさせないで。本屋の灯火を消さないでほしい。





5月22日(水)


Blueskyで知った、SOMPO美術館「北欧の神秘」展に行ってきた。

想像以上にダークで、濃ゆく暗い色合いとベタっとした質感は北欧の厳しい寒さを思わせた。ただ、寒さだけでなく温かみ(というか人間味?)や灯すような光もあって、とても良かった。
自然の神秘性を強く感じた。

後数日しか期間がないけれど、是非ともあのダークさと自然の力強さを体験してほしいなあ。

ロゴもお洒落


初めて行った美術館だったけれど、とても綺麗で素敵な場所だった。
鳥の絵の前では囁かな鳥の鳴き声を流すなど演出も見事で、美術品を生かす主張しすぎない造りは、また行きたいなと思わせた。
美術館を有名にしたゴッホの「ひまわり」も印象的で、あれだけでも満足度が高い。

次の展示「ロートレック」展も気になるから、また行きたいな。

美術館の後は、高島屋にある本屋へ。
けれど残念なことになくなっていたらしく…いやあったけど、洋書だけになっていた。ショック。
それならそのまま帰っても良かったけれど、せっかくだからと反対側(?)にある紀伊国屋書店に行くことに。


その前に茶屋「京はやしや」で、抹茶・ほうじ茶ドリンク(わらび餅入り)を買う。
こんなドリンクが出ていたとは知らなかった。ここはパフェも最高だけれど、ドリンクも最高だった。抹茶もほうじ茶も濃ゆくて、わらび餅はもっちもち。良い。

気分を取り戻して本屋に行ったら、まさかの『カフカの日記』があってより気分が上がる。
出てたのですね。重版してくださったのですね。ありがとうございます。
その上プレゼントのお礼にプレゼントしてもらえて、最高の気分。
自分は『MONKEY』の「哲学へ」の1冊だけ買う。
罪深いほどにほしい本があったけれど、図書カードを入れたつもりが入れてなくて、現金もそんなになくて1冊だけに留める。泣く泣く。
やはり大きいところは良いなあ。ありすぎるくらいある。見ているだけで楽しいしワクワクする。
『MONKEY』もバックナンバーがあんなにあるのを初めて見た。

あまり買えなくて残念だったけれど、また行く機会(6月後半に始まる「ロートレック」展を見に)があるから、次こそは忘れず持っていこう。現金も気持ち多めで。(決意)

いやぁそれにしても新宿久しぶりに行ったけれど、相変わらず混んでいる。なのに休める場所もあんまりないというね。店はあるけど、どこもごみごみごったの返し。
駅も迷路。あまり行く機会がないから余計に分からない。まあ有難いことに自分はノコノコ後をついて行けばいいからいいのだけれど。(だから覚えないんだよと言われそう(誰に?))
買い物もなんか競走みたい。頭の中で「天国と地獄」が流れたよね。
凄いなあ。





5月23日(木)

いつの間にか、アニメ『鬼滅の刃』始まってた。見なきゃなあ。でもまずは『葬送のフリーレン』を見終わらねば。ようやく3分の2までいった。(遅い)



寺山修司『さみしいときは青青青青青青青 少年少女のための作品集』を読む。


「苦しみは変わらない、変わるのは希望だけだ」

ふむ。



エドガー・アラン・ポー『黒猫 ポー傑作選』を読む。
「大鴉」を読み終わる。

詩作品。

ポー自らも傑作と言っていた作品らしい。
リズムが良く、回るような滑らかさに、するするといつの間にか落ちる恐ろしさがある。

頭の弱い自分には全体を理解することは出来なかったけれど、きっと「気にすることなどありませぬ」
大鴉が現れ言う「ありはせぬ」
だから結局何も「ありはせぬ」
のかな?

詩自体も興味深くて良かったけど、解説の中のエピソードもなかなか。
低く良い声であったポーは、この詩を何度も恋人に聞かせていたらしい。


「エドガーが『大鴉』を読むと、ひどく興奮するので怖くなってしまう--抗議すると、彼は『どうしようもないんだ、読んでると頭に火がついちまう』と答えた」


我ながらの恐ろしい威力を持っていたのですね。



政治家、高齢者多すぎやしないか。老人ホームですかばりに老人だらけだよなあ。
良くご記憶もなくされるようだし、本当のホームに入ってのんびりお過ごしになられては如何でしょう。のんびりと本でも読んでさ。良い本たくさんありますよ。お金もたんまりと余裕があるだろうし、高い本でも買ってさ、たくさん買ってさ、潤しておくれ。本業界を。そしたら経済もちょこっと良くなったりしないかな。

そもそも政治家も定年必要だと思うんだけどなあ。政治家だから衰えないってことはないし、何故定年制度があるのかなと。
老後はのんびりするものですよ。しがみつかない、しがみつかない。1回自分の顔を鏡で見てみるといいと思うなあ。





5月24日(金)

少しずつ本棚整理しているけれど、終わる気がしない。何故なら脱線が多いから。
あぁ、こんな本あったのかあとか、懐かしいとか、パラパラ見てはすぐ中断すらから、終わらない進まない。掃除あるあるに陥り中。
まあ、気長にやろう。



山崎佳代子『そこから青い闇がささやき ベオグラード、戦争と言葉』を読み始める。エッセイ。

紛争下のユーゴスラビアで、詩人である山崎佳代子は過ごした。その日々の記憶。


どんな光景にも、やがて私たちは慣れていく。いつの時代もそうだ。
だが、どうしても慣れることのできない何かを、かたい小さな石のように、私たちの心に、残していく。名付けがたい何かを。


「大切なのは良き人であることだ。民族など関係ない。(略)
ふたつの民族の憎悪は、突然天から降ってわいたように、あのときも政治によって庶民に押し付けられた。村のセルビア教会では、どちらの民族の者が死のうと弔いの鐘を鳴らしたし、葬式とあればどちらの教会にも参列した。(略)
あの虐殺でさえ、戦後は許しあい、つい昨日まで仲良く暮らしていた。それががらりと変わったのは、自由選挙のときからだ。急に不信感が生まれ、人間関係はみるみる冷えていった。今回も政治が私たちを引き裂いた」


「(略)憎しみは人間によいものを生んだことがありません。『政治に心がない』とよく言われますが、そうならば、人間にそのような政治をするのは似つかわしくありません。ですから、武器を取り除きましょう。大砲や鉄砲では、何も遂げられないことを、知りましょう。明るい心でお互いにもっと住みよい地球を作りましょう。ユーゴスラビアのためだけではなく、人間の幸福を願ってこれを書きました」


生きがいだった仕事、安心できる空間、懐かしい人たち、愛する者たち……戦争は、人から、奪えるかぎりのものを奪う。一番つらいときも、人間らしく生きるために、何をすればいいか。失ったものを、ただ忘れるのではなくて、そこから何か、さらに豊かなものを見いだすために、何ができるか。この問いの答え探すこと……。戦争は、私たちに新たな課題を与えた。



最近また突然死や突然意識を失うというニュースが増えてきている。
自分の周りでも、1人亡くなった。会ったこともなく名前も知らない人だけれど、衝撃だった。まだ50代。心不全だった。

ニュースなどでは報道されないけれど、日本ではあの騒動から約80万人の人が亡くなっているらしい。
原因はウィルスだけじゃない。それよりも。
入れてしまったものは、もう取り返しがつかない。それでも伸ばすことはできる。体内に入れる食べ物で。体内に入れてしまったものは、体内でどうにかしなくてはいけないと思う。
どうか体を大切に。





5月25日(土)

山崎佳代子『そこから青い闇がささやき ベオグラード、戦争と言葉』を読み終わる。


武器によって解決できる問題はひとつもないだろう。生も死も、愛も憎悪も、この土地に生きる者たちの空の下に返すこと、それ以外に何ができるだろうか。


ボスニア内戦てサラエボをあとにし、自らも難民となったロック歌手ネレは言った。
「この戦争は、人生の楽しさを知る哲学と、人生の楽しさを知ろうとしない哲学との戦いだ。コンピュータには測れない魂の深さと、心の広さがこころにある。それは飛行機からは見えない」と。


(略)人々の声は隠され、圧し殺されている。声たちが、何を語るのか。果たして、声たちは何かを語りたがっているのか。(略)
耳を澄ませてほしい、じっと耳をかたむけてほしい、声が何を語ろうとしているのか。耳をかたむけて、新しい意味を見いだしてほしい。耳を澄ますこと、それは未来を聞くことなのだから。


本とは何か、と最後に聞いた。本は豊かさ、本は文化、本は美しい気持ちを目覚めさせるもの、本はもうひとつの人生、本は発見、発見の喜び。自分の気持ちが知りたいから本を読む、本は新しい世界を開く……。


一つ一つに繋ぎがはあまりなく、プツリプツリと途切れる文章に、まるで写真を見ているようだった。
戦火の中での暮らし、出会い、恐ろしさ虚しさ、苦しさ悲しみ、そして希望。それらの1番面をパシャリと撮った写真を見るような。実際に本の中には1枚も写真はないけれど、それでも光景がありありと思い浮んできた。

池澤夏樹が解説で「この本の『解説』が誰に書けるだろう?」と書いている。


(略)ユーゴスラビアが解体してセルビアになる苦痛の歴史と国連政策と空爆の悲嘆の体験を書いたこの本を解説することはむずかしい。これはそれ自体で完結した本だから、ただ読んでほしいと言うしかない。





5月26日(日)

ようやくトマトが植えられた。
去年は暑さの影響もあって全然出来なかったけれど、今年はたくさんなるといいなあ。
でも今年も暑いんだよなあ…。せめて雨が適度に降ってほしいけれど…。

後はまた人参間引いて、フキと玉ねぎとらっきょとニラと紫キャベツとサンチュを採る。
そして近くにある桑の木から桑の実採取。冷凍ブルーベリーと混ぜて、シロップ作って炭酸で割って飲むのが最高なんだよなあ。




おやつは陣太鼓。たくさんあるからね。
今回は抹茶にドボンしてみた。
食べて飲んでするなら、いっそ入れてしまえと。
この食べ方、最高。抹茶の渋みが甘さで中和されるし、餡子の甘みも渋みで中和されるしで、良いとこ取り。うまー。



寺山修司『さみしいときは青青青青青青青 少年少女のための作品集』を読む。


「こんにちは」ということばは現実のことばだが、「さよなら」は希望のことばだ(略)
「こんにちは」は、いつでも確実な約束であり、健康であり、生産的である。だが、「こんにちは」は、いつでも目の前の現実であって夢ではないのだよ--と先生は言った。
ところが、「さよなら」はなぜだか現実ではない。人はだれでも「さよなら」と言うときに、希望をいだく。だが、「希望は人類の最後の病気だ」ということも知らないで。


面白いなあ。
なんだか分かる気がする。
過度な希望は抱かないに限る。小さいものも程々に。希望が苦痛にならないために。



石井千湖『文豪たちの友情』を読む。
「正岡子規と夏目漱石」編を読み終わる。

夏目漱石の「漱石」は元々正岡子規の雅号だったらしく、驚いた。知らなかった。
それにしても、たくさん考えていた中にある正岡子規の雅号「迂歌連達磨(うかれだるま)」が面白いな。なかなかのセンスですね。当て字のセンスもあっぱれ。

正岡子規が読経をしている姿を「ただわけも分からぬことをニョーニョコニョーニョコいひおる」と夏目漱石が書いたりしているらしく、気心の知れた仲にほっこりした。

そういえば、今自分の中で夏目漱石『吾輩は猫である』を読みたい欲が急上昇している。
いつも冒頭の「吾輩は猫である。名前はまだ無い。」まで読んでは、何故か先が読めないでいた。でも今の状況なら今度こそ行ける、気が、する、ような。
とりあえず本買お。





ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
皆様がいつまでも健やかに過ごされますよう、心から願っております。
ではでは。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?