文章 を 書く 理由。 J.S.ミル の 幸福になる方法 より

タイトル通り、なぜ文章を書くのだろう?

小説家やエッセイスト、教授まで。「文章を書くこと」を生業としている人は多くいるのだろうけれど。

やっぱり書いているときは楽しさに満ち溢れるからなんだろうか。他のことも時間も忘れて没頭できる。その時間が何よりも楽しくて幸せだから、職業にまで選んだのではないか、と。

私は長らく、そう思ってきた。

だからこそ、自分は「物書き」にはなれない。
noteも毎日更新できない、レポート提出のときは「良いものを書きたい」と「めんどくさい」の間で、結局期限ギリギリに大したことのないものを提出。そんな自分は文章を書くことに選ばれた人間ではなかったのだと噛み締めた。

めっちゃ悲壮感漂ってる……本当はさくらももこさんのエッセイに衝撃を受けてから、エッセイストになりたかったんです。なに言うてんねんって、感じだけど。

ただ、さくらももこさんの本職が漫画家なように、エッセイを書くには、大概の場合もうひとつの肩書きが要りますしね。そこら辺も考えないといけない。その点、星野源さんとかマルチに活動しつつ、著書も人気なのだから本当にすごい。

話が逸れてしまいました。戻ります。

しかし最近、ある教授の話を聞いて「なぜ文章を書くのか」という長らくの疑問にひとつ答えが出た。

結論から言おう。それは「しんどくても、書くことによって興奮を得られるから」だ。

いきなりすぎて???かもしれない。

この結論根底にあるのは、J.S.ミルの考え方である。
ミルは、幸福にあるためには「興奮」「平静(落ち着き)」のバランスが重要であると説いた。
この興奮と落ち着きが、波のようにバランスよく交互に訪れることで、人は幸せを感じることができる。

興奮の例としては、人と会う、そして話すことが挙げられる。人と会う行為は、とても楽しかったり刺激が多い反面、同時に非常に多くの労力を伴う。

一方、平静の代表例は読書である。これは、ゆったりと気負うものなく取り組めるが、得られる刺激は人と直接会ったり言葉を交わしたりに比べると少なくなる。

このように、多少の苦痛を伴うが何かを作り出したり他の考え方に直接触れたりするアクティブな営みを興奮、逆に穏やかにゆったり構え、苦痛の少ない休息なるものを平静という。

ということはつまり、ブログを書いたり論文を仕上げたりするのは、アクティブな営みなので興奮に当たるのだが………んんん?苦痛を伴う??

やっぱりそうなのか。文章を書く、何かを生み出すということは純粋に「楽しい」だけではないのだ。

書いているあいだは、自分の思うようなものが書けず苦悩することもあるだろうし、他の素敵な作品を見て、自分を比べてしまいへこんだり、毎日書くことが思いつかず「なんでこんなことやってんだろう」と悶々とすることもあるだろう。

それは決して「才能がない」ということではなくて、文章を書くという行為のなかで当たり前に起こることなのだ。

それでも、この苦痛を越えてひとつのものを完成させた、形にできたときには達成感があるし、自分の言いたいことにドンピシャな表現を用いることができたり、新しい思考を見つけることができた時にはやっぱりものすごく嬉しい。

文章を書く理由なんて、そんなもんで良いんじゃないだろうか。あんまり背負わず、必死に頭を絞りながら、自分のなかの想いをひとつでも形にできたなら、それだけで結構すごいことだと思う。

もちろんそれで、自分の生活を支えていけるだけの経済力が生まれたら、なお良いのだけれど…笑

またそれは別の話。そのためには他の人が読んだときに新しい発見や、ものの見方受け方ができるような、そんな文章でなくてはいけないと思う。し、私はこの文章を書くだけでもウンウンと頭を雑巾みたいにひねった。すごく。

ではでは、ここまでお付き合い頂きありがとうございました。

また、お目にかかれましたら幸いです!

ちょっぴり追加:
J.S.ミルの幸福に対する考え方はものすごく面白いです。参考になります。生きる上での心掛けにしたら楽になるんじゃないかなって思う。
しかも、簡潔で分かりやすいので、また別記事でまとめて書きたいなぁと思っています。(自分を追い込んでおく笑)
宜しければまた覗いてやって下さいませ。

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