純丘 曜彰『論理・行動・生活そして経営』

大阪芸術大学芸術学部教授。美術博士(東京藝術大学、美学)、文学修士(東京大学、哲学)。…

純丘 曜彰『論理・行動・生活そして経営』

大阪芸術大学芸術学部教授。美術博士(東京藝術大学、美学)、文学修士(東京大学、哲学)。成城学園、東京大学文学部卒。テレビ朝日報道局ブレーン 、玉川大学文学部講師、東海大学総合経営学部准教授、ドイツマインツ大学メディア学部客員教授を経て、現職。専門は、哲学、物語論、文明論。

マガジン

  • システム論の射程 第1章 システムの定義

    システム論は、ある原集合の部分集合を要素とする副次的な集合を扱う。ただし、その部分集合は共動性を持ち、かつ、その共動性には、方向性と意味の多様性がある。システム論においては、原集合要素を不確定のまま分析できる。  主観が異なる対象に同じように対処するならば、その主観はそれらの対象に関して概念を持っている。ただし、その主観の意識は、客主観によって逆に投影されたものである。そして、理性は、世界の先駆に対する補完対処の規範化されたものである。

最近の記事

生活論の基礎概念 第一章 ゲーム 4 精神の形成

 生活主体は、複数の精神を持ち、自己を維持しつつも、その時々に相手や状況に合わせて、いずれかの精神で物事を解釈したり対処したりしている。精神は、一組の規範の束として生活図式である。その最も基底的なもの、すなわち、根底精神は、人間という〈身分〉そのものに関するもの、そして、人間の人生という〈ゲーム〉に関するものであり、したがって、それは人間観ないし人生観そのものである。それゆえ、そのように根底精神は、人間としての、そして、人生としての〈ポイント〉を、つまり、「良き人生」としての

    • 生活論の基礎概念 第一章 ゲーム 3 精神の形態

       精神および規範には、その従則に関して〈当事形態〉と〈期待形態〉がある。〈当事形態〉とは、その精神の規範を自分の行動に適用する場合であり、また、〈期待形態〉とは、その精神の規範を他者の行動に適用する場合である。どちらも、規範従則によるものであり、状況判断能力と行為認識能力を必要とする。このほかに、精神および規範には、実在的水準における〈誘導形態〉がある。それは、期待形態が諸物に投影されたものである。  精神および規範は、〈当事形態〉が基本であるが、しかし、[してもよい]とい

      • 生活論の基礎概念 第一章 ゲーム 2 シナリオ・ゲーム・ポイント

         〈精神〉は、その〈精神〉に定位する諸主体によって現実に展開されることになる。ある〈精神〉を従則して現実に展開された一連の〈事〉の脈絡を、その〈精神〉の〈シナリオ[scenario]〉と呼ぶ。そこにおいては、[その〈精神〉のいずれかの規範の条件であり、かつ、いずれかの規範の帰結である〈事〉]しか登場しない。逆に言えば、〈シナリオ〉において反復して登場する事と事との一般類型的連関こそが〈法則〉であり、そのような法則に諸主体が意図として従則しようとすることにおいて〈規範〉であり、

        • 生活論の基礎概念 第一章 ゲーム 1 精神の階層的・派生的体系

           〈精神〉は、いわば「規範の束」であり、複数の断片的な規範が、その一群の規範のいずれかで、その規範の規定するほぼすべての状況を処理できる体系を構成している。それは、たとえいずれかの規範を反則したとしても、その反則した状況を条件とする「罰則規範」を準備しており、やはりその体系の中で処理することができる。  ただし、〈精神〉は、純粋に閉鎖的な体系とは違って、しかし、その参入と退出は、その例外として、〈精神〉の問題としうる状況以外のものへと開かれている。〈精神〉の中で、開始におい

        生活論の基礎概念 第一章 ゲーム 4 精神の形成

        マガジン

        • システム論の射程 第1章 システムの定義
          10本

        記事

          生活論の基礎概念 もくじ

          第一章 ゲーム 1 精神の階層的・派生的体系 2 シナリオ・ゲーム・ポイント 3 精神の形態 4 精神の形成 第二章 人格精神 1 人格精神と生活ゲーム 2 生きかた・生きざま・生きがい 3 哲学ゲーム 4 人格精神の形成 5 人格精神の理解 6 人生ゲームにおける死 第三章 生活ゲームと哲学ゲーム 1〈人生ゲーム〉の本質的欠陥 第四章 安全と自由 1 暫定的生活原理 2《安全原理》 3《自由原理》 第五章 幸 福 1 人格精神の公準 2 生活公準の否定性 3 生活公

          第六章 精神 4 身分規定規範

           一般の規範は、[ある状況を条件とし、ある行為を帰結とする〈行動規範〉]であるが、〈精神〉という規範体系においては、この一般的な〈行動規範〉のほかに、〈身分規定規範〉がある。〈身分規定規範〉とは、[ある状況を条件として、ある人格主体の〈身分〉を規定するもの]であり、そのようにして規定されたその人格主体の〈身分〉は、他の規範の条件となる。  〈身分規定規範〉は、[その人格主体の〈身分〉を規定するもの]、[規範的水準において、ある人格主体をある〈身分〉であるということにするもの

          第六章 精神 3 規範の従則

           連関は、条件と帰結の論理的関係にすぎないものであって、その条件が成立したからといっても、それだけで帰結が成立するわけではない。それは、ただ、規範的水準において、我々がその物事を条件として、ある他の物事を「意味」として認識なしに理解するということにすぎない。そして、規範という連関においては、その意味が、何か別の物事なのではなく、まさに主体である我々自身であるという点に特徴がある。つまり、ある状況においては、規範によって、我々の主体性が問題として照出されることになる。つまり、あ

          第六章 精神 2 規範様相

           〈精神〉に含まれる規範そのものは、条件と帰結からなる連関であり、その条件は〈現実〉の状況であり、その帰結は〈主体〉の行為である。ただし、規範は、通常の連関と違って、[[条件である状況]に対する帰結である行為]に[よい/いけない]という規範価値を付与する。すなわち、よい行為は、従則性を持つものであり、いけない行為は、反則性を持つものである。もっとも、反則性を持つ行為であっても、精神が体系をなしている以上、その反則行為が条件となるような別の規範もまた同じ精神の中に存在しており、

          第六章 精神 1 規範性としての精神

           先述のように、〈私我〉とは、[〈人格主体〉の規範的水準における連続同一性]であり、それは、[〈生活意志〉が一群の規範に連続同一的に依拠しようとする現象]そのものである。その中でも核となるのが、〈私我〉の連続性を成り立たせている〈自己〉であり、それは、[[〈現実〉の〈事〉に当たっているもの]として、さまざまな〈現実〉の〈事〉に対して鏡象的に存在するもの]であり、また、[〈現実〉の規範性や〈主体〉の可能性を踏まえて、当該の〈事〉との並行関係を、当該の〈事〉の時制として成り立たせ

          第六章 精神 1 規範性としての精神

          第五章 自己 8 保守主義/革新主義

           問題は、まったく個別の〈事〉ごとに処理されなければならないが、大きくいって、〈主体〉における〈自己〉は、その連続性には二つの様相がある。すなわち、《保守主義》と《革新主義》である。  一方の《保守主義》は、〈これまで〉と〈これから〉とが連続的であるようにする〈自己〉の閉鎖的傾向であり、〈これまで〉の〈事〉に〈真実性〉の不能的時制様相を付与し、〈これから〉の〈事〉に〈架空性〉の不能的時制様相を付与する。すなわち、その〈自己〉の傾向においては、[〈これまで〉であった〈事〉は、

          第五章 自己 8 保守主義/革新主義

          第五章 自己 7 主体的問題様相

           次に、③と④の[当事する/しないことができる]という〈現実〉/〈物語〉そのものの柔軟性と〈主体〉の有能性からなる選択的/回避的規範様相は、〈自己〉における既存の〈現在性〉/〈想像性〉との連続性において、さらに四つの《主体的問題様相》を形成する。これらもまた、それぞれ、③E現在的現実、③F想像的物語、④G現在的物語、④H想像的現実ということになる。すなわち、   ③E:いまも当事している し、       つねに当事する ことができる   ③F:いまも当事していないし、  

          第五章 自己 6 規範的問題様相

           まず、①と②の[当事する/しないことができない]という〈現実〉/〈物語〉そのものの硬直性と〈主体〉の無能性からなる喪失的/直面的規範様相は、〈自己〉における既存の〈現在性〉/〈想像性〉との連続性において、さらに四つの《規範的問題様相》を形成する。これらは、それぞれ、①A現在的現実、①B想像的物語、②C現在的物語、②D想像的現実ということになる。すなわち、   ①A:いまも当事している し、つねに当事しないことができない   ①B:いまも当事していないし、つねに当事する こ

          第五章 自己 5 問題様相

           けれども、〈主体〉は当事する/しないを、すなわち、〈事〉の「このとき」/「あるとき」の時制を、まったく任意に付与できるわけではない。先述のように、時制は、まともには、[〈現実〉との並行関係において成り立つべきであるもの]である。したがって、[〈主体〉に〈現実〉を合わせることができるかどうか]によって、逆に言えば、[〈現実〉に〈主体〉を合わせないといけないかどうか]によって、時制付与の任意の程度も異なっている。すなわち、[「このとき」という〈現在性〉を付与できるかどうか]は、

          第五章 自己 4 現在性/想像性

           当事性は、このように、時制として「このとき」という〈現在性〉を持っている。この当事性は、〈現実〉との並行関係で成り立つべきであるものである。したがって、〈現実〉において「このとき」でないことは、〈主体〉においても「このとき」でない。  ところが、ときとして、ある〈事〉が〈現実〉においては「このとき」であるにもかかわらず、〈主体〉においてはいまだ「このとき」ではないことがありうる。また逆に、ある〈事〉が〈現実〉においては「このとき」でないにもかかわらず、〈主体〉においてはか

          第五章 自己 4 現在性/想像性

          第五章 自己 3 私我における自己

           〈自己〉は、[〈生活主体〉の規範的水準における連続同一性]という現象である〈私我〉において、まさにその連続性を成り立たせている働きであり、本質的には〈現実〉の出来事に対する当事性である。つまり、[〈生活主体〉が規範的水準においてさまざまな〈事〉に当たっている]という現象そのものが、〈自己〉という自然主体である。〈現実〉である物事は、その有意義性によって、〈私我〉に対して〈自己〉としての対処を問うてくる。それゆえ、〈私我〉は、その〈現実〉に〈自己〉として答えないといけない。

          第五章 自己 3 私我における自己

          第五章 自己 2 〈私我〉の当事性と普遍性

           〈私我〉は、個別特殊的な当事性と一般類型的な同一性とを媒介している。つまり、〈私我〉は、さらに、その連続性の自然主体である〈自己〉と、その同一性の自然主体である〈精神〉との二つの要因を考えることができるが、しかし、両者は複合的であり、独立しては存在しえない現象である。  まず、〈自己〉は、本質的には当事性そのものであり、[ある事に当たっている物]として反射的に〈自己〉の連続性を形成する。すなわち、事が時変的なものであるがゆえに、これと対照的に、それに当たっている物は無時変

          第五章 自己 2 〈私我〉の当事性と普遍性