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第五章 自己 2 〈私我〉の当事性と普遍性

 〈私我〉は、個別特殊的な当事性と一般類型的な同一性とを媒介している。つまり、〈私我〉は、さらに、その連続性の自然主体である〈自己〉と、その同一性の自然主体である〈精神〉との二つの要因を考えることができるが、しかし、両者は複合的であり、独立しては存在しえない現象である。

 まず、〈自己〉は、本質的には当事性そのものであり、[ある事に当たっている物]として反射的に〈自己〉の連続性を形成する。すなわち、事が時変的なものであるがゆえに、これと対照的に、それに当たっている物は無時変的なものとなる。より正確に言えば、時変的な事に当たっている物は、まさにその時変的な事に当たっているということにおいて、その時変性を無時変的に傍観する時制性を持つ。もっとも、そもそも時変的であるということ自体が、本来はこの〈自己〉の当事性における時制性が対象に投影されたものである。

 一方、〈精神〉は、規範の束であり、けっして〈自己〉ではないにもかかわらず、〈自己〉の当事性において、時制性と並んで精神性としてその同一性を位置づけるものとして介入してくる。もっとも、当事性において時制性が自源的であるのに対して、精神性は他源的である。しかし、〈自己〉は、いずれかの精神性に依拠することなしには当事性そのものが確保できない。なぜなら、その〈精神〉こそが、実在的水準の物事の上に規範的な世界を規定し、まさしく〈自己〉が当たっている事である対象の同一性を照出するからである。つまり、規範的水準に生活している〈人格主体〉において、〈精神〉なしには、規範的水準での事そのものが存立しえない。

 そして、このように〈精神〉によって規定された世界の、〈精神〉によって照出された事に当たっている物として〈自己〉が形成される以上、その〈自己〉を含む〈私我〉の同一性は、〈精神〉によって規定された世界の、〈精神〉によって照出された事の同一性によってこそ確立され、それは、つまり、ただ〈自己〉が連続的であるだけでは、同一ではいられず、〈私我〉の同一性は、まさに〈精神〉によってこそ確立されるということである。ここでは、当事性の対象である事は、実在的水準に出ることなく、〈精神〉という規範的水準の中だけで短絡する。つまり、問題の事は、実在してもしなくてもよく、ただ〈精神〉に規定されていればよい。このことによって、〈精神〉は、〈私我〉を、実在の世界ではなく、〈精神〉が規定する世界の、〈精神〉が照出するある事に当たっている〈自己〉であるものとして同定する。これは、つまり、その〈私我〉そのものも、その〈精神〉が規定する世界の中に位置づけられる、ということである。

 [時変性が〈自己〉の当事性における時制性の投影である]ということは、カントの『純粋理性批判』における純粋直観形式の発想である。また、自源的と他源的ということについては、ハィデッガーの『Sein und Zeit』を参照せよ。

 たとえば、〈精神〉は、ある〈私我〉を兵士として同定する。兵士とは、敵と戦うべきものであるが、その敵もまた、その〈精神〉が規定するものであるから、敵が実在しなくてもよい。そして、敵が実在しないにもかかわらず、兵士である〈私我〉は、その実在しないかもしれない敵と戦い続けているという〈自己〉の連続性において同一である。

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