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第六章 精神 3 規範の従則

 連関は、条件と帰結の論理的関係にすぎないものであって、その条件が成立したからといっても、それだけで帰結が成立するわけではない。それは、ただ、規範的水準において、我々がその物事を条件として、ある他の物事を「意味」として認識なしに理解するということにすぎない。そして、規範という連関においては、その意味が、何か別の物事なのではなく、まさに主体である我々自身であるという点に特徴がある。つまり、ある状況においては、規範によって、我々の主体性が問題として照出されることになる。つまり、ある条件において、[主体が何をするか、それはよいとされる従則行為か、いけないとされる反則行為か]、問題とされることになる、ということである。

 このように、規範は、ある状況を条件として、行為に規範様相の付加という意味を及ぼす。〈生活主体〉が〈生活意志〉として〈私我〉のある〈精神〉に立脚している以上、その〈精神〉がある状況においてある規範を負課する場合、〈生活意志〉の統一整合性として、また、〈私我〉の連続同一性として、その〈精神〉に立脚しているということの連続同一性、および、統一整合性において、その〈精神〉が負課する規範を従則する行為と認識されるように行動することになる。つまり、ある規範を従則するのは、その規範が強制するからではなく、その規範が含まれている〈精神〉に立脚している連続同一的な〈私我〉、および、その〈精神〉に依拠している統一整合的な〈生活意志〉によるのであり、自分の連続同一性や統一整合性のためのまったく自由(自己理由)な行動である。もっとも、その規範を反則するならば、そうまでしなくても、その規範を従則することができないならば、その規範が含まれている〈精神〉に立脚している〈私我〉、および、その〈精神〉に依拠している〈生活意志〉の連続同一性や統一整合性が、その従則できなかった規範の一点に関してだけでなく、その全体がまるごと、危機にさらされることになる。このように、我々は、規範のためにではなく、ただ自分のためにこそ、みずから規範に従おうとする。

 たとえば、善良な市民であった人物が殺人を思い止まるのは、たんに殺人が犯罪であるからではなく、殺人によって善良な市民であった自分自身というものを破滅させてしまうからである。逆に、殺人鬼が殺人をやめられないのも、殺人をやめることが同時にいままでの自分の生き方をみずから全否定することになってしまうからである。〈私我〉が連続同一性を喪失し、〈生活意志〉が統一整合性を崩壊するとき、その人格そのものがアナーキーで疎外脱我的な混濁状態となってしまう。そこで起こることは、すべて疎遠な、物語的なこととなる。

 規範が従則されるには、まず、規範が可能的顕在状態となっていなければならない。すなわち、規範の条件が現実に適合し、その規範が実際に有意味になっていなければならない。つまり、現実に規範適用条件が成り立っていなければならない。[一般類型的に規定されている規範条件の状況に、現実が特殊個別的な状況として適合する]ということは、その規範に従則する主体はもちろん、それ以外の人々にも、客観的に判断できることである。とはいえ、かならずしもその時点で、従則する主体に自覚されていなくてもよい。
 [[ある現実の特殊個別的な状況が、その条件の一般類型的な状況であるかどうか]を判断する]ということは、それはそれでさらに状況判断に関する規範を必要とするのではないか、と思うかもしれない。しかし、そうではない。なぜなら、ある特殊個別的な物事をその一般類型的な物事として判断することそのものは、そもそもおよそ行為などではないからである。というのは、すなわち、我々がある特殊個別的な物事に対処する場合、その対処の仕方こそが規範的に反復されるものであり、[我々が同じように対処する]ということこそが、まさに[それらの特殊個別的な物事を同じ一般類型的な物事として判断している]ということだからである。判断は、つねにすでに行動である。自分自身を賭けることのない、行動抜きの純粋な判断などというものはない。[ある規範が適用されるべき状況である]との判断は、まさにその規範を従則する行為をしようとすることであり、また、他者にその規範を従則する行為をさせようとすることである。そして、他者にその規範を従則する行為をさせようとすることにおいて、我々は「その規範が適用されるべき状況である」と発声するにすぎない。

 たとえば、[これがネコである]という判断は、べつにそのように言葉で内話することではない。[これがネコである]と判断することは、ただほっておくことである。もし[これがトラである]と判断するならば、ただ逃げ出すだろう。

 しかし、かならずしも万人が正しく状況を判断すること、すなわち、状況に適合する規範を従則する行為をしようとしたり、また、他者にその状況に適合する規範を従則する行為をさせようとしたりすることができるわけではない。とはいえ、その判断は、なぜか練習によって複数の人々につねにほぼ一致するようになる。逆に言えば、練習しても状況判断が一致するようにはならないものは、そもそも規範とはならない。また、そのように一致するようになっている人々に一致するようになることが、練習のポイントである。その一致するようになっている人々は、その後もつねにかならず一致しているはずであると信じられている、つまり、一致しているものとして対処され、たとえ確かめてみれば一致しないことがあるにしても、そもそも確かめてみたりしないのだから問題はないし、たとえ確かめてみるにしても、確かめる者は確かめられる者に一致しないならば、そもそも確かめる資格がないことになるので、両者が一致する場合以外は確かめたことにはならない。このような[規範適用に関して、一致するようになっており、かつ、一致することになっている人々]は、[状況判断能力がある]という〈身分〉が付与される。状況判断能力がない主体は、その状況を条件とする規範に従則することも、[他の主体がその規範を従則しているかどうか]を判断することもできない。

 たとえば、野球の試合で主審は一人である。その審判は、判断する資格を持っている。同じ審判の資格を持っている人が異議を申し立てても、その人はその試合の審判ではなく、また、そもそも他人が審判をしている試合に異議を申し立てたりしないのが、審判というものである。裁判では、控訴として他の裁判官が異議を申し立てることがあるが、しかし、それぞれの裁判としては、一人または多数決などの一義的決定方法を整備している。一義的決定をなすことこそ、審判や裁判の意味である。

 さて、次に、その規範に従則すべき主体が、なんらかの行動をとる。その行動は、物理的にはまったく多様なものである。しかし、その行動は、その規範に規定される行為として認識されるものでなければならない。この行為認識も、特殊個別的な物事を同じ一般類型的な物事として判断することであり、状況判断と同様に、行為認識能力が問題となる。しかしながら、その規範を従則すべき主体にその行為認識能力がなくても、その行為認識能力がある他の主体にその行動がその行為として認識されるならば、すくなくとも「その規範を反則していない」とされる。とはいえ、この場合、その主体は、「その規範を従則している」わけでもない。また、その規範を従則すべき主体にその行為認識能力があり、かつ、その行為認識能力がある他の主体にその行動がその行為として認識されるならば、たとえその主体がその行動をその規範を従則する行為として認識していなくても、「その規範に従則している」とされる。けれども、この行為認識能力ありながら、その行動がその規範を従則する行為として認識されるものではないならば、たとえその行動がその規範を反則する行為として認識されていなくても、「その規範に反則している」とされる。
 このように、ある規範に従則するには、その規範の条件である状況判断能力と、その規範の帰結である行為認識能力とが前提となり、その上で、その規範の条件である状況と判断される場面で、その規範の帰結である行為と認識される行動をするのでなければならない。

 ある規範の従則責任者や練習指導者は、たとえ自分自身がその規範を従則する行為そのものの能力がないにしても、すくなくとも[その規範が適合する状況判断能力]と、[その規範を従則する行為認識能力]がなければならない。これらが、組織においても、上司の条件となる。

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