問題は、まったく個別の〈事〉ごとに処理されなければならないが、大きくいって、〈主体〉における〈自己〉は、その連続性には二つの様相がある。すなわち、《保守主義》と《革新主義》である。
一方の《保守主義》は、〈これまで〉と〈これから〉とが連続的であるようにする〈自己〉の閉鎖的傾向であり、〈これまで〉の〈事〉に〈真実性〉の不能的時制様相を付与し、〈これから〉の〈事〉に〈架空性〉の不能的時制様相を付与する。すなわち、その〈自己〉の傾向においては、[〈これまで〉であった〈事〉は、〈これまで〉もそうであったがゆえに、真実と架空において〈現実〉は〈これから〉もそうであるはずであり、したがって、反復と抑制によって〈主体〉は〈これから〉もそうであるようにしなければならない]とみなす。しかし、これは、おうおうに、[〈これまで〉でない〈これから〉はない]として、[過去を理解して、未来を忘却する]という「転倒的錯誤」に陥る。
他方の《革新主義》は、〈これまで〉と〈これから〉とが断絶的であるようにする〈自己〉の転回的傾向であり、〈これまで〉の〈事〉に〈完了性〉の不能的時制様相を付与し、〈これから〉の〈事〉に〈進行性〉の不能的時制様相を付与する。すなわち、その〈自己〉の傾向においては、[〈これまで〉であった〈事〉は、〈これまで〉がそうであったがゆえに、もはや完了と進行において〈現実〉は〈これから〉はそうではないはずであり、したがって、終了と開始によって〈主体〉は〈これから〉はそうではないようにしなければならない]とみなす。しかし、これは、おうおうに、[〈これまで〉である〈これから〉はない]として、〈これまで〉と〈これから〉とが分断して、〈これまで〉かつ〈これから〉である〈このとき〉の現在的な真実性を喪失し、すべてが想像的な架空性に遊離したり、さらには、自己の根本機制である当事性そのものが崩壊し、「混濁的短慮」に陥る。