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第五章 自己 8 保守主義/革新主義

 問題は、まったく個別の〈事〉ごとに処理されなければならないが、大きくいって、〈主体〉における〈自己〉は、その連続性には二つの様相がある。すなわち、《保守主義》と《革新主義》である。

 一方の《保守主義》は、〈これまで〉と〈これから〉とが連続的であるようにする〈自己〉の閉鎖的傾向であり、〈これまで〉の〈事〉に〈真実性〉の不能的時制様相を付与し、〈これから〉の〈事〉に〈架空性〉の不能的時制様相を付与する。すなわち、その〈自己〉の傾向においては、[〈これまで〉であった〈事〉は、〈これまで〉もそうであったがゆえに、真実と架空において〈現実〉は〈これから〉もそうであるはずであり、したがって、反復と抑制によって〈主体〉は〈これから〉もそうであるようにしなければならない]とみなす。しかし、これは、おうおうに、[〈これまで〉でない〈これから〉はない]として、[過去を理解して、未来を忘却する]という「転倒的錯誤」に陥る。

 他方の《革新主義》は、〈これまで〉と〈これから〉とが断絶的であるようにする〈自己〉の転回的傾向であり、〈これまで〉の〈事〉に〈完了性〉の不能的時制様相を付与し、〈これから〉の〈事〉に〈進行性〉の不能的時制様相を付与する。すなわち、その〈自己〉の傾向においては、[〈これまで〉であった〈事〉は、〈これまで〉がそうであったがゆえに、もはや完了と進行において〈現実〉は〈これから〉はそうではないはずであり、したがって、終了と開始によって〈主体〉は〈これから〉はそうではないようにしなければならない]とみなす。しかし、これは、おうおうに、[〈これまで〉である〈これから〉はない]として、〈これまで〉と〈これから〉とが分断して、〈これまで〉かつ〈これから〉である〈このとき〉の現在的な真実性を喪失し、すべてが想像的な架空性に遊離したり、さらには、自己の根本機制である当事性そのものが崩壊し、「混濁的短慮」に陥る。

 先述のように、我々は、実際は、事ごとに、ひどく混雑的に《保守主義》や《革新主義》に立脚している。そして、そのことによって、時変的な〈現実〉のさまざまな〈事〉の中にあって、当事性としての連続性を確保している。それは、いわゆる翼乗り曲芸の原則のように、[片手が掴むまで片手は放さない]のであり、いわば、短い繊維を縒り合わせて、長い糸紐としているようなものである。

 すべての物事に同時に保守主義を適用しようとする閉鎖的な〈自己〉は、根本的には、ある〈精神〉からある〈精神〉への連続的移行に欠陥がある。たしかに、たとえば、いかに同じボールであっても、いや、同じボールであるからこそ、バレーボールからバスケットボールへ徐々にルールを変えて移行するくらい難しいことはないかもしれない。しかし、純粋な〈完了性〉の「喪失的過去」に当面しては、このような〈自己は、同時に、未来喪失の鬱的混濁状態に陥ったり、また、未来解放の躁的混濁状態に陥ったりする。そして、このアナーキーな状態では、〈自己〉がそのつどの〈このとき〉に寸断されてしまっているために、自力では、いずれかの〈精神〉に定位して〈生活意志〉としての統一整合性を回復することができない。

 一方、もとより、すべての物事に同時に革新主義を適用しようとする転回的な〈自己〉は、根本的には、いずれかの〈精神〉という秩序への定位そのものが失敗しているのであり、まったくにアナーキーな状態となる。そして、個々の断片的な〈生活意志〉は、分裂的な〈自己〉によって、〈現実〉の当事性そのものを喪失し、ばらばらの〈物語〉の架空性を漂泊するものとなる。

 もっとも、健常者であっても、何者かが予測不能な圧倒的な意味の事件によって〈自己〉としての時制の支配を喪失させるような状況においては、たとえば、祭礼や恋愛や戦争においては、〈自己〉の連続性、すなわち、ある〈精神〉における定位としての連続性を破壊され、疎外脱我的な混濁に陥る。そこにおいては、〈これまで〉とか〈これから〉とかいう時制が機能しえず、その中での出来事は、すべてが〈このとき〉でありながら〈あるとき〉でしかない、〈物語〉的な永遠世界の順序のない断片的なエピソード(逸話)にすぎないものとなってしまう。しかし、我々は、制度的に、時制の区切として、このような時制の停止を社会的な行事として行うことがあり、この時制の社会的停止は、公的時刻であり、その公的時刻と公的時刻との間として、個々の〈主体〉に再び私的時間が確立されることになる。

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