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生活論の基礎概念 第一章 ゲーム 2 シナリオ・ゲーム・ポイント

 〈精神〉は、その〈精神〉に定位する諸主体によって現実に展開されることになる。ある〈精神〉を従則して現実に展開された一連の〈事〉の脈絡を、その〈精神〉の〈シナリオ[scenario]〉と呼ぶ。そこにおいては、[その〈精神〉のいずれかの規範の条件であり、かつ、いずれかの規範の帰結である〈事〉]しか登場しない。逆に言えば、〈シナリオ〉において反復して登場する事と事との一般類型的連関こそが〈法則〉であり、そのような法則に諸主体が意図として従則しようとすることにおいて〈規範〉であり、ある〈シナリオ〉に可能的に登場しうる〈事〉を網羅している規範の体系が〈精神〉である。

 ただし、その〈精神〉の開始規範の開始条件は、その〈精神〉のどの規範の帰結でもないかもしれないし、また、その〈精神〉の終了規範の終了帰結は、その〈精神〉のどの規範の条件でもないかもしれない。
 先述のように、〈精神〉は、当事性である〈自己〉の立脚点として、物事の見方そのものをも提供するものであり、実在的水準において同じ状況であっても、それをいかなる物事であるとするかは、〈精神〉によって異なっている。

 〈シナリオ〉は、その展開ごとに異なっている。というのは、〈精神〉の規範は、かならずしも唯一の帰結を義務的に負課するものではなく、許可的なもの、免除的なものもあるからであり、そこでは主体の自由な選択があるからである。また、義務的/禁止的な規範においても、それが規範であるかぎりにおいて、そこには反則の自由がある。なぜなら、問題様相としてできないことは、規範様相として義務化することもできず、また、禁止化するまでもないからである。そして、もし故意/過失で反則したとしても、罰則規範としてその〈精神〉で処理される。いずれにしても、許可/免除規範における自由選択、従則/反則による規範展開は、脈絡に対して弁別的であり、同じ〈精神〉の有限の規範を従則するとしても、それらの断片的な規範という連関の反復的接続の順列は多様なものとなり、したがって、ここから多様な〈シナリオ〉が産出されることになる。

 悪行の自由は、スコラ哲学における人間の自由意志の問題に遡るものである。それは、救済との関係において論じられた。
 それは、有限の種類の規格のレールが無限に多様な路線を構成することができるのと同じことである。

 しかし、ある同じ〈精神〉に立脚して展開する〈シナリオ〉は、実際に展開されたもの、また、されうるものも含めて、一般類型的に、その〈精神〉の「ゲーム[game]」と呼ぶ。〈シナリオ〉は、その〈精神〉の実際的で個別特殊的な展開形態であるのに対して、〈ゲーム〉は、その〈精神〉の理念的で一般類型的な展開形態である。一つの〈ゲーム〉は、かならず一つの〈精神〉を持つ。

 たとえば、野球というゲームの一群のルールは、一つの〈精神〉である。それらは、ばらばらな断片の規範として存在し、ほとんど現実には登場しないものもあるが、しかし、すくなくともなんらかの状況において、ゲームの中でゲームとして起こりうる状況を媒介として連関する可能性を持っている。逆に言えば、たとえば、ナイトやビショップの動き方の規則など、絶対に野球のゲームとして登場しないルールは、そもそも野球のルールではない。さらに逆に言えば、野球のルールが規定していることだけが野球のゲームなのであり、たとえば、選手の離婚歴などは、それが野球のルールとしては問題にならずゲームの状況を変更しない以上、野球のゲームとは関係がない。

 〈精神〉は、〈ゲーム〉として「ポイント(point、眼点)」が存在し、それは、〈ゲーム〉の終了まで、すなわち、その〈精神〉の終了規範の終了帰結に到達するまで、「スコア(score、成績)」として累積する。[何が〈ポイント〉であるか]は、その〈精神〉の規範の一部のものが明示していることもあるが、しかしまた、〈精神〉によっては、〈ポイント〉とともに、むしろいけないとされる〈アンチポイント(anti-point)〉の方が義務/禁止規範として明示的であり、したがって、それらの規範の束である〈精神〉の全体においてのみ、逆にその〈精神〉が〈ポイント〉とする従則行動が反映されてきていることも少なくない。また、〈ポイント〉が明示されている場合にも、されていない場合にも、その〈精神〉の〈アンチポイント〉である行動に対しては、〈罰則規範〉として、〈ゲーム〉の中で〈ポイント〉となりにくい規範が身分的に追加されたり、「スコア」において〈ポイント〉から〈アンチポイント〉が減算されたり、併記的に累積したりする。

 たとえば、パーティは、人を知ることをポイントとするゲームであり、その眼目に従う行動は推奨され、逆らう行動は禁止され、また、無礼な言動など、その規範に反則した場合には、その眼目の達成がより困難になるような規範、たとえば、パーティに呼ばないなど、が追加的に課せられることになる。

 〈ゲーム〉は、〈精神〉として、その開始と終了のほかは脈絡として閉鎖しているものだが、しかし、〈スコア〉の〈ポイント/アンチポイント〉または〈ゲーム〉の全体としての〈勝敗(成否)〉だけは、まさにその閉鎖性の例外である終了において、例外的にその〈ゲーム〉から持ち出すことのできるものである。逆に言えば、〈ゲーム〉は、このように、その〈ゲーム〉の終了においてその〈ゲーム〉から〈スコア〉の〈ポイント/アンチポイント〉または〈勝敗〉を持ち出すためにこそ、その〈ゲーム〉は開始される。つまり、〈ゲーム〉は、その全体の帰結として、その〈ゲーム〉の参加主体であるその〈精神〉の従則者に、〈スコア〉としての〈ポイント/アンチポイント〉または〈勝敗〉を付与することになるのであり、このことが、状況転回性としての〈ゲーム〉の意味である。このように、ここで言う一定の規範からなる〈精神〉を従則する〈ゲーム〉は、その全体として、脈絡に対して弁別性を持つ。したがって、それは「遊び」ではない。

 「遊び」は、脈絡としての弁別性のないものである。つまり、「遊び」の中での結果は、現実に影響を残すものであってはならない。それゆえ、「遊び」が過ぎると、たとえば、賭事に熱中し過ぎると、もはや「遊び」ではなくなる。

 〈ゲーム〉は、その全体として、その〈ゲーム〉の参加主体であるその〈精神〉の従則者に、〈スコア〉としての〈ポイント/アンチポイント〉または〈勝敗〉を付与する。このことは、〈ゲーム〉が、その開始前と終了後とにおいて、その〈ゲーム〉の参加主体であるその〈精神〉の従則者そのものの意味、すなわち、その〈ゲーム〉の〈精神〉の〈基底精神〉の〈ゲーム〉における〈身分〉を改変する、ということである。〈ゲーム〉において、反則が重なると罰則も重くなり、ついには〈ポイント〉の達成がきわめて難しくなることがある。しかし、この場合にも、その主体がその不利な〈ゲーム〉を放棄したりしないのは、また、そもそもその〈ゲーム〉を規定している〈精神〉を放棄したりしないのは、すくなくともその〈ポイント〉については、その〈ゲーム〉の〈精神〉の中だけではなく、その外でも通用するからであり、しばしばその〈ゲーム〉のみがその〈ポイント〉付与の規範を独占しているからである。つまり、いかに困難でも、その〈精神〉を従則し、その〈ゲーム〉に参加しないかぎり、その〈ポイント〉または〈勝利〉も獲得することはできない。つまり、〈身分〉を改善するには、〈ゲーム〉に参加しないといけないことになっている。

 このように、〈生活主体〉の〈身分〉の改善は、〈ゲーム〉の〈スコア〉の〈ポイント〉によって実証されなければならないが、しかし、〈生活主体〉は、〈ゲーム〉の開始に際して、〈ゲーム〉にさまざまな物事を持ち込むことはできる。それゆえにこそ、〈生活主体〉は、〈ゲーム〉の開始の以前から、よりよくその〈ゲーム〉の〈精神〉を理解し、〈ゲーム〉において〈ポイント〉を獲得できるようにするための準備をしようとする。この意味では、つねにすでにすべての〈ゲーム〉は開始してしまっている。もっとも、その準備は、その〈ゲーム〉の〈精神〉に沿っているものであるが、しかし、従っているものではない。それゆえ、その準備は、やはり、その〈ゲーム〉そのものではなく、別の〈フォアゲーム[fore-game]〉とも言うべきである。この〈フォアゲーム〉は、〈ゲーム〉の参加予定者という〈身分精神〉の〈ゲーム〉であり、[本来の〈ゲーム〉での〈ポイント〉がこの〈フォアゲーム〉の〈ポイント〉になる]という遡生的体系によって、本来の〈精神〉の外部に派生付随する〈身分精神〉となっている。

 たとえば、パーティに行く前に、ある人は、話のきっかけのために、気の利いたジョークを考えていこうとするかもしれない。しかし、そのジョークの出来は、そのジョークそのものがおもしろいかどうかではなく、パーティでそのジョークが知人を作るのに役立つかどうかにかかっている。そのものとしてはどんなにおもしろくても、初対面の人との話題にするにはあまりに破廉恥だったり差別的だったりするならば、ただ品性下劣な人間として嫌われるだけであり、したがって、それはもとよりパーティジョークとしての精神に反していたとされる。

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