見出し画像

生活論の基礎概念 第一章 ゲーム 4 精神の形成

 生活主体は、複数の精神を持ち、自己を維持しつつも、その時々に相手や状況に合わせて、いずれかの精神で物事を解釈したり対処したりしている。精神は、一組の規範の束として生活図式である。その最も基底的なもの、すなわち、根底精神は、人間という〈身分〉そのものに関するもの、そして、人間の人生という〈ゲーム〉に関するものであり、したがって、それは人間観ないし人生観そのものである。それゆえ、そのように根底精神は、人間としての、そして、人生としての〈ポイント〉を、つまり、「良き人生」としての〈幸福〉を規定する。

 もっとも、生活主体は、同時に複数の精神を持っており、自己の維持との関係で、そのつどに、それらの精神のいずれにも抵触し反則することのないような行動を採っている。このために、生活主体の行動は、一般に多義的である。また、精神によっては、その発揮する状況が〈ステージ[stage]〉として限定されており、配慮しなくてもよい。とはいえ、その場合にも、〈フォアゲーム〉として、その精神の派生的精神に従則しておく方がよいこともある。

 生活主体が精神に従則するといっても、生活主体がすべて任意に従則する精神を選択できるわけではない。第一に、自由選択にせよ社会負課にせよ、なんらかの事情でいったん採用してしまった精神については、自己の連続同一性から、そして、人生全体としての統一整合性から、その後においても従則しないといけない。なぜなら、いったん採用してしまった精神を放棄するならば、その主体は、その放棄する精神に従則していた期間の生活を否定することになり、自己の連続同一性および人生全体としての統一整合性に齟齬を生じるからである。もちろん、ときには、他の精神との統一整合性との関係から、やむなく、従来の精神の一つを放棄し、過去の生活の一部を否定するということもある。この場合、残る他の精神によって、その過去の生活について別の意味付与がなされ、再び連続同一性や統一整合性が回復されることもある。

 たとえば、ある信仰が、その深化につれて、他の一般的な日常生活の精神と両立不能となることがある。この場合、ある場面では、どうしても信仰か生活かの選択を迫られ、信仰を放棄するかもしれない。しかし、彼は、その後も、その過去の信仰を妄信の日々として否定し続けなければならない。たとえ、同じ信仰に復帰したとしても、こんどは、廃教を後悔し続けなければならない。彼が自己の連続同一性および生活の統一整合性を回復することができるのは、他の信仰によって、その過去の間違った信仰が現在の正しい信仰に至るために必要な過程であったとされることであろう。
 ダイエットなど、その自棄の生活と規律の生活と、両立不能なそれぞれの統一整合性を持つ。すなわち、規律の生活は、自棄の生活の全面否定であり、また、自棄の生活は、規律の生活の全面否定である。ここにおいては、その転回に連続同一性が成り立たない。したがって、規律の生活は、宗教的回心と同様の厳しい過去の自己の否定を伴う。しかし、それは、たんに食事習慣だけではなく、起床・通勤・運動・睡眠、さらには、つきあいなどの対人関係まで含む生活のすべての変更であり、実際には、その実行そのものの困難よりも、それが安定するまでの変更の摩擦が非常に多大で、それも、自己の本質的な連続同一性の傾向からして、その変更は、限りなく不可能である。この結果の挫折は、再びさらに厳しい自己の否定を伴う。なぜなら、それは、規律の生活を志向し挫折した自己の否定と、すでに否定されたはずであった自己への回帰という二重の敗北だからであり、この敗北への抵抗において、規律と自棄のどちらにも自己を定位することができずに、両方の生活に激しい振幅を示して、自己の連続同一性は寸断され、いっそう制御不能になってしまうかもしれない。麻薬やアルコールなど、また、犯罪性向なども、両立不能な統一整合性があるがゆえに、そこからの離脱は容易ではない。これが、アクラシア(不忍耐)の原因である。

 また、第二に、精神は、その主体と対証的に、社会が協証的にその主体に期待形態として負課するものであり、このように社会に期待形態として負課される精神に主体は従則しなければならない。というのは、生活主体は、たとえ他者がその精神を採用していないとしても、自分がその精神を採用しているならば、他者の行動がその精神の規範に合致していない場合、自分はその他者に罰則規範を負課するというその精神を従則する行動をとることがあるからである。ここにおいて、その罰則規範がその精神の〈ポイント〉に関するにすぎないものであるならば、その他者にとってはどうでもよいことだが、身体的な快楽や苦痛に関するもの、または、すでにその他者が採用している精神の〈ポイント〉に関するものであるならば、その他者は試行錯誤の模索によって、負課され期待されている規範を理解しようとする。というより、それは、それを理解し、従則しないことには、自己の連続同一性や生活の統一整合性か確保できない。かくして、他者の〈期待形態〉から、当人の〈当事形態〉が形成されることになる。そして、その精神において、他者であるという〈身分精神〉は、その精神の〈期待形態〉をとることを〈当事形態〉として要求するようになる。かくして、対証的に、〈当事形態〉と〈期待形態〉とが強化される。

 たとえば、犬は、エサをもらえれば、お手をするようになる。子供は、「良い子」であろうとして、親の期待に応えようとする。しかし、いずれにしても、負課され期待されている規範は、言語的なものではなく、どうであればその期待に合致するのかは、そう簡単に理解できるものではない。また、たとえば、お手を学んだ犬は、[お手をした以上、エサをもらえる]ということもまた学んでいる。つまり、それは、お手をさせられることの期待形態である。

 第三に、精神は、第一のような自由な選択によるにせよ、第二のような他者の強制によるにせよ、その断片的な規範の従則だけからでも、その精神の全体が複製される。というのは、精神は、規範の束であって、その束においては整合的であり、ほぼ閉鎖的な体系を構成しているからである。ここで、ある生活主体がいくつかの規範を採用する場合、おのずからそれらの規範は、統一整合的である生活意志において、その洗練とともに、論理的に、それと整合的である他の規範をも採用しないといけないことになる。かくして、それらのいくつかの規範は、やがてほぼ閉鎖的な体系を構成するにたるだけの他の規範をも呼び寄せ、ここに精神が成立する。このようにして、精神は、個々の生活主体の内部に成立する。つまり、精神そのものは、これとして提示したり教育したりできるものではないが、生活主体が一定の規範に従則するならば、後の規範はその生活主体の生活意志がその統一整合性のためにおのずから呼び寄せ、身に付けることになり、こうして、その精神の規範のすべても複数の生活主体に共通に成立する。

 たとえば、基本的な文字について、その書順を従則させるならば、複雑な文字についても、おのずから「正しい」(というより誰もが同様の)書順をすることができるようになる。発音についても同様であろう。また、たとえば、ボクサーは、〈フォアゲーム〉として、その体力形成とともに体重維持が重要な要件となる。このために、外的に強制されたわけでもないにもかかわらず、結果としてボクサーの誰もが同じような食事を規範とするようになる。

 さらに、第四に、我々が歴史的存在にすぎないのに対して、多くの物が無時変的に先在している。それらの物は、精神の〈誘導形態〉として、生活主体になんらかの規範を誘導してくる。第二の他者の強制も、社会制度としては、物と同じである。そして、それがたった一つの規範であっても、そこから第三のように、精神全体を私我に再生する。つまり、我々は、物に自分を合わせることができ、物は、精神を媒介して他者に伝えることになる。

 たとえば、ヴァイオリンは、それを最も鳴らそうとすれば、いかにやりにくくても、あの伝統的な弾き方をせざるをえない。ヴァイオリンをもっと弾きやすく変えればよいのだが、それではもはやヴァイオリンではなくなってしまう。そして、どんなに奇妙でも、いったん慣れてしまったならば、「改良」されたヴァイオリンなど、かえって弾きにくいものとなってしまう。たとえば、日本の自動車は、左側通行だが、自動車はもちろん道路もミラーも料金所も、左側通行によいようにできており、それらはおのずから左側通行を誘導することになる。たとえば、テレビは、たんに放送を見る道具にすぎないが、その見方は、生活時間や家族関係を変え、くわえて、その送り込む情報は、生活全体を一変させてしまう。このように、放送は、生活に、そして、精神に革命的変化を引き起こす。

 第五に、このような直接経験とは別に、事実や虚構の間接経験によっても、精神は形成される。ただし、虚構は、構成として虚構であっても、個々の連関としては真実でなければならない。つまり、事実にしても虚構にしても、ある前提条件が真実の連関においていかなる帰結となるか、を提示するならば、それは試行錯誤の模索と同じ効果を持ち、そこから〈ひと〉の精神、および、その精神の〈ポイント〉を学習することができる。好奇心は、食事や睡眠と並んで自然人に先天的な欲求であり、また、現在的な快楽である。それは、自由(教養・技術・人脈)の余地を開拓する。そして、好奇心は、また、規範(イメージ)を確認することを快楽とする。とくに芸術・芸能は、好奇心に対応する美、すなわち、有余的な連関や条件を提供する。そして、好奇心による直接経験、事実や虚構の間接経験は、物事の類型的意味として、そもそもいかなる条件を想定しうるか、また、ある条件がいかなる帰結となるか、という与件的・脱出的・接近的連関が、断片的に与える。これらの断片的な物事の意味は、想像においてさまざまに組み合わせられ、さらに大きな物事の意味を形成したりもする。これらの中には、矛盾する意味も少なくないかもしれない。しかし、いずれにせよ、これらの物事の類型的意味は、規範的に、実際の物事の解釈、そして、対処の図式となり、規範となる。そして、先述のように、一つでも与えられた規範は、そこから精神全体を再び形成する。

 文学は、語学ではない。文学は、物語(小説)の体裁において、脈絡を、そして、そこで反復される世界の法則を提示する。それは、問題提起であり、解決案例である(チェーホフ「科学は問題を解決するが、文学は問題を提起する」)。この意味で、文学は、文(アヤ)、すなわち脈絡の学問である。そこでは、個別で普遍が象徴されている。たしかに、物語は、単なる遊び、すなわち、現実の脈絡からの離脱として消費されることもあるが、しかし、文学としては、むしろそのような架空ないし誇張を媒介してより現実へ接近しようとするものとなる。つまり、物語は、現実を考えるためのモデルである。もちろん、モデルは、けっして現実ではない。しかし、現実がモデルと比較されることにおいてこそ、モデルにある現実の骨格が透視され、また、モデルにない現実の複雑が対比される。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?