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第五章 自己 3 私我における自己

 〈自己〉は、[〈生活主体〉の規範的水準における連続同一性]という現象である〈私我〉において、まさにその連続性を成り立たせている働きであり、本質的には〈現実〉の出来事に対する当事性である。つまり、[〈生活主体〉が規範的水準においてさまざまな〈事〉に当たっている]という現象そのものが、〈自己〉という自然主体である。〈現実〉である物事は、その有意義性によって、〈私我〉に対して〈自己〉としての対処を問うてくる。それゆえ、〈私我〉は、その〈現実〉に〈自己〉として答えないといけない。

 〈現実〉とは、有意義な物事の世界である。[それが有意義である]とは、[それが脈絡に弁別的である]ということであり、人間世界においては、多くの物事は、協証的なかたちで有意義なものとして、規範的水準に取り込まれている。たとえば、ある人の死は、たしかに実在的水準においても起こる出来事であるが、しかし、その意義は規範的水準において問題となるものである。また、たとえば、暑さなどでも、本来は実在的水準の問題であるが、しかし、現代では、冷房装置の不備など、もはやまったくの規範的水準の問題となっている。

 当事性は、時変的である〈現実〉の出来事を、その刻々の「このとき」という〈現在性〉において照出する。しかし、この現象は、「このとき」の〈現実〉の出来事とは対照的に、これらのすべての「このとき」につねに臨在しているもの、時変に対して超越的である〈物〉をも照出することがある。この無時変的な〈物〉こそ、これらの「このとき」の〈現実〉の出来事の状態に臨在しているもの、これらの「このとき」を収攬しているものであり、それが、規範的水準において連続的な〈自己〉である。かくして、当事性から連続性が生じてくる。

 [当事的である]というのは、[〈私我〉として〈現実〉の特定の〈事〉に拘泥している]ということであり、[あるがままにあるにすぎない〈現実〉の中に特定の〈事〉を規定し、それを問題としている]ということである。つまり、あるがままにあるにすぎない〈現実〉に対して、[それは変だ]という異議を提起している。[それは変だ]とするのは、〈現実〉そのものが変であるからではなく、〈私我〉に〈現実〉に溶け込んでいないある種の過剰があるからであり、この〈私我〉の過剰こそ、〈現実〉と〈私我〉の間の〈自己〉にほかならない。逆に、〈私我〉にとっては、〈現実〉こそが過剰であり、その〈現実〉の過剰こそ、〈現実〉と〈私我〉の間の〈事〉である。

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