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第五章 自己 6 規範的問題様相

 まず、①と②の[当事する/しないことができない]という〈現実〉/〈物語〉そのものの硬直性と〈主体〉の無能性からなる喪失的/直面的規範様相は、〈自己〉における既存の〈現在性〉/〈想像性〉との連続性において、さらに四つの《規範的問題様相》を形成する。これらは、それぞれ、①A現在的現実、①B想像的物語、②C現在的物語、②D想像的現実ということになる。すなわち、

  ①A:いまも当事している し、つねに当事しないことができない
  ①B:いまも当事していないし、つねに当事する ことができない
  ②C:いまは当事している が、もはや当事する ことができない
  ②D:いまは当事していないが、もはや当事しないことができない

 ここにおいて、①Aと①Bは、それぞれ、〈現実〉の硬直閉鎖性、〈物語〉の硬直閉鎖性を意味し、[両世界が独立である]ことを示すものである。そして、このような硬直的時制の〈事〉こそが、[〈現実〉の世界が〈現実〉ある]ということを、また、[〈物語〉の世界が〈物語〉である]ということを特徴づけている核となっている。この①Aのような現在的現実の硬直閉鎖的問題様相を、〈現在性〉の中でもとくに〈真実性〉と呼び、また、①Bのような想像的物語の硬直閉鎖的問題様相を、〈想像性〉の中でもとくに〈架空性〉と呼ぶ。

 たとえば、ウサギは言葉を話さない。それゆえ、言葉を話すウサギが登場するならば、そのウサギだけでなく、そのウサギが登場する世界全体が想像的物語であるということになる。

 一方、②Cと②Dは、それぞれ、〈現実〉から〈物語〉への、また、〈物語〉から〈現実〉への硬直転回性を意味している。このような硬直転回的時制の〈事〉は、いずれも、ある意味で〈現実〉のことである。すなわち、②Cの現在的物語は、[その〈事〉が、〈現実〉から抜け落ちて、否応なく〈物語〉になってしまう]ということであり、また、②Dの想像的現実は、[その〈事〉が、〈物語〉から抜け出して、否応なく〈現実〉になってしまう]ということである。この②Cのような現在的物語の硬直転回的問題様相は、〈これまで〉という〈完了性〉であり、この②Dのような想像的現実の硬直転回的問題様相は、〈これから〉という〈進行性〉である。具体的には、〈完了性〉は、「すでに……であってしまった」、〈進行性〉は、「もはや……になるかもしれない」という形式で理解される。

 通俗的に考えられているように、過去や未来は直線的に並んでいるものではない。とっくの昔の〈これまで〉ですらない過去や、ずっと先の〈これから〉ですらない未来は、単なる物語的なものであり、おとといも去年も、また、あさっても来年も、まったく並列的に羅列されている。かろうじて、その連関を辿るときに、時系列に整理されるだけであって、これらの物語は、記憶も予測も、それそのものは、まったく断片的なものである。これという現在の状況と連関するものだけが、〈これまで〉や〈これから〉として〈自己〉の当事性の対象となる。

 我々は、通俗的に考えられているようには、直接的な時間感覚を持っていない。我々にあるのは、ただ〈自己〉の規範感覚のみである。しかし、[規範感覚からこそ、いわゆる時間感覚も構成されている]ことは、この節の眼目である。

 〈主体〉は、一般に〈現在性〉のいう時制において〈現実〉の中のさまざまな〈事〉と対峙しているが、〈主体〉に対する〈現実〉の硬直性ということも考慮するならば、それらは、さらに、硬直閉鎖的な〈真実性〉と、硬直転回的な〈完了性〉または〈進行性〉との三つの《問題様相》に区別される。もっとも、〈現実〉における〈事〉は、たとえその〈事〉が[当事しているし、つねに当事しないことができない]という〈真実性〉の様相を持つとしても、それが時変的な〈事〉である以上、それぞれに始まり終わるものであり、実際は、それは[つねに反復するもの]としてのみ存在しうる。したがって、〈真実性〉の〈事〉は、[〈完了性〉と〈進行性〉とを合わせ持つもの]として理解することができる。つまり、それは、[[いまや当事することができない]ということと[いまも当事しないことができない]ということとが反復連続しているもの]である。

 「このとき」という〈現在性〉は、〈これまで〉という〈完了性〉と、〈これから〉という〈進行性〉とが〈真実性〉において重複しているとみなすことができる。すなわち、〈現在性〉の多くの〈事〉は、〈これまで〉かつ〈これから〉の完了的かつ進行的な〈真実性〉であり、ただ若干の〈事〉は、〈これまで〉ではあるが〈これから〉ではない純粋な〈完了性〉、すなわち、「喪失的過去」であったり、〈これまで〉ではないが〈これから〉ではある純粋な〈進行性〉、すなわち、「直面的未来」であったりする。そしてまた、これらの〈現実〉に対する時制とはまったく独立に、まったく純粋に〈物語〉の中だけの〈事〉にのみ、〈架空性〉という時制が付与される。

 しかし、これらの時制は、たんに〈現実〉の側の問題ではない。もともと〈現在性〉ということが、〈主体〉の〈現実〉との対峙ということに基づく以上、〈主体〉に対する〈現実〉の硬直性から派生する硬直転回性としての〈完了性〉や〈進行性〉という時制は、むしろ〈主体〉の側の問題である。すなわち、純粋な〈完了性〉は、[〈主体〉が、その〈事〉に拘泥してはならず、その〈事〉を忘却しないといけない]ということを規範的に意味し、また、純粋な〈進行性〉は、[〈主体〉が、その〈事〉を無視してはならず、その〈事〉を理解しないといけない]ということを規範的に意味する。純粋ではない〈真実性〉における〈完了性〉や〈進行性〉にしても、その純粋の程度に応じて、そのつどの〈事〉における〈主体〉の当事性の切り換えという規範性を含んでいる。逆に言えば、[拘泥の禁止と忘却の義務]のある〈事〉が[完了的なもの]であり、[無視の禁止と理解の義務]のある〈事〉が[進行的なもの]である。

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